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武蔵国榛沢郡に存在した藩 ウィキペディアから
小田原征伐後に関東に入った徳川家康は、深谷に譜代の家臣・松平康直(長沢松平家)を封じ1万石を与えた。しかし康直は文禄2年(1593年)に24歳で死去した。康直には嗣子がなく、家康の子・松千代(生母は側室・茶阿局)が長沢松平家の家系を継いだ。松千代は慶長4年(1599年)、5歳で早世し、同母兄である忠輝が家督を継いだ。忠輝は慶長7年(1602年)、下総国佐倉藩4万石へ加増移封となったため、深谷藩は廃藩となった。
慶長15年(1610年)7月から元和8年(1622年)10月までは松平忠重が8000石で同地を治めているが、万石以下の、大身ではあっても旗本であるため大名(藩)とはされない。
その後、元和8年(1622年)に酒井忠勝が1万石で入り、深谷藩が再び立藩する。忠勝は寛永元年(1624年)8月、上総国・武蔵・下総国内に2万石を加増され、老中に任じられる。その後も2万石を加増され、合計5万石の大名となった。忠勝は小農民を保護し、藩政の確立に努めたが、寛永4年(1627年)に父で川越藩主であった酒井忠利が死去したため、その跡を継ぎ川越藩主となったため、深谷藩は廃藩となり、深谷城も寛永11年(1634年)に破却された。
1万石→3万石→5万石。
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