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武蔵国の新田 ウィキペディアから
武蔵野新田(むさしのしんでん)は、江戸時代に開発された新田。享保の改革の一環として展開された新田開発政策において、武蔵野台地を中心に開発された享保期新田の総称で、享保期以前に設定された新田はこれに含まれない。総石高は1万2,600石余[1][2]。
武蔵国の多摩郡・入間郡・新座郡・高麗郡の4つの郡にまたがるもので、計82の農村がここに開拓された[3]。その内訳は、多摩郡 40村、入間郡 19村、新座郡 4村、高麗郡 19村となっており、水田は少なく、陸田が多かった[3]。新田出百姓の総戸数は元文4年当時で1,300程度[1][4]。
関東ローム層に覆われた武蔵野台地は土地が痩せていたため、百姓たちの生活は困窮し離散する者も多かったが、徐々に生産性が高まって生活も安定し、新田村として発展していった[1][5]。
享保の改革期に、江戸幕府は財政再建策の一環として、幕府領の耕地拡大による年貢米の増収を図ろうとした。
享保7年(1722年)の6月、南町奉行の大岡忠相と北町奉行の中山時春は、関東周辺の農政を掌る関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)に任命された[注釈 1]。地方御用掛として大岡は、治水や灌漑事業などに関する技能を持つ者(地方巧者と呼ばれた)を多数登用して、農業には不向きな土地の開発に着手する。その役人集団の主な活躍の場が、武蔵野新田であった[6]。
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