光市
山口県の市 ウィキペディアから
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光市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 光市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 光市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
光市(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
国立社会保障・人口問題研究所が2018年に発表した『日本の地域別将来推計人口(平成30 (2018) 年推計)』において、2045年の総人口の予測値は35,636人(2015年を100とすると69.4で、周南3市の中では最も人口減少幅が大きいと予想されている。他の市については周南市または周南都市圏を参照のこと)との推計が出されている[2]。
1939年に4村合併により周南町(翌1940年に光町に改称)が発足しており、1943年、室積町との合併により光市が発足している。
光町は合併前の4村がいずれも大字を設置していなかったため、合併時に各々が大字となった。室積町は室積村として発足した当初より3大字があった。
その後、周防村を編入し2大字を加えたため、9大字となった。その後、町名設置が実施されたため室積浦が廃止され、現在旧市域には8大字が残る。
1957年から1978年にかけて旧光町の一部区域で町名設置が実施された。なお、この時に設置された町はいずれもその後の住居表示が実施されているため同名で住居表示を実施した町を除き現存しない。
独立元の大字ごとに列挙する。発足年は特記のない限り1957年。
その後、1979年より近年までの間に住居表示が実施されている。
以上は1970年あるいは1978年に町名設置済みだった区域に住居表示を実施したものである。
これらは大字光井の一部および同所より独立した戸仲町、御崎町、戎町、中央町、錦町、宮元町、正門町の全域からなる。
いずれも室積村あるいは室積浦から発足しており、室積浦がこのときに廃止されている。また、一部は光井1丁目の一部となった。
旧自治体名は表記せず、大字のみを継承している。前身である大和村は1943年に4村合併により発足しており、いずれも大字を設置していなかったため、合併時に各々が大字となった。このほかに、1957年に光市立野(旧周防村)の一部のみを編入しており、大和町立野となったが、合併時に、光市に残った立野との区別のため「岩田立野」に改称している。
島田川右岸には高地性集落の跡もみられることから遅くとも弥生後期には何らかの社会的生活が営まれていたことがうかがえる。市北西部は小周防の地名が残り、旧周防国の周防はもともとこのあたりを指したという説もある。
室積湾は古くは御手洗湾と呼ばれ、古代の海上交通の要衝だったと思われる。その名は神功皇后が三韓征伐に赴く際にこの湾に船を寄せて手を洗ったという伝説に由来する。また、峨眉山山頂にある杵崎社の縁起に、大伴狭手彦率いる新羅征討軍が沖合で時化に遭い、太刀を海に投じて風神に祈ったところ、現れた数多の亀に導かれ御手洗湾に兵船を入れて難を逃れたことから、風神を祀るために社を建立したとある[3]。
江戸時代、毛利藩は領内に支藩と宰判を配置したが、室積には熊毛宰判が置かれた。この地は北前船の西回り航路の寄港地となっていたこともあって商港として大いに栄えた。このため、後に山陽本線の前身である山陽鉄道の鉄道敷設計画では、当初室積村を経由して、現在の国道188号線に沿ったルートとなる予定であった。しかし、室積村の住民が「汽笛で魚が逃げる」「宿場が寂れる」などとして強硬に反対したため、難工事の続く島田駅、岩田駅、田布施駅を経由するルートに変更を余儀なくされた(鉄道忌避伝説)。
戦前は島田川の河口部から光井川にかけての海岸を埋め立て、光海軍工廠が置かれた。現在の国道188号線が正門町から室積にかけて直線になっているのは、海軍工廠の滑走路を兼用する予定であったためといわれている。終戦前日の1945年(昭和20年)8月14日に海軍工廠はB29爆撃機による空襲を受け大打撃を蒙った。 山口県徳山市(現・周南市)には、日本海軍の第3海軍燃料廠が設置されていた(これが、今の周南石油化学コンビナートの源である)。広島県呉市の軍港から出港した連合艦隊は、この徳山で燃料を補給して、外洋へ出征していた。このため、山口県の徳山市、下松市、光市沖の海域は、連合艦隊の集結地であった。
このこと関して、作家の吉村昭は次のような文章を書いている。
戦後海軍工廠跡地は、しばらく一部が国鉄用地として利用されるほかは未利用地となっていたが、その後八幡製鐵、武田薬品工業などの工場を誘致し工業地帯に変わった。これにより当地は瀬戸内工業地域の一角である周南工業整備特別地域を形成することになった。
こうして周南地区として一体的に発展を始めると「周南合併」の機運が高まりはじめた。また、県も光市のほかに徳山市・新南陽市・下松市と都濃郡鹿野町・熊毛郡熊毛町・大和町・田布施町の4市4町を「周南広域圏」に指定し、合併機運の高揚を待った。こうした背景から平成の大合併よりはるか以前から周南都市合併調査研究会が設置されていたが、1997年(平成9年)の「周南合併推進協議会」発足時に光市、大和町、田布施町が離脱、また2002年(平成14年)には合併の期日等を巡り下松市が離脱し、残る2市2町による周南市が誕生する一方で、光市と大和町は1市1町で合併することとなった。そのため、大和町出身である初代内閣総理大臣伊藤博文の出身地ということになった。なお、田布施町は柳井市と光市との合併を模索するも合併の組み合わせを巡り協議が物別れに終わり、単独町制を継続している。
光市は1995年3月24日に「おっぱい都市宣言」を決議している。光市の公式サイトではこの「おっぱい都市宣言」について、
「おっぱい(胸)でしっかりと子どもを抱きしめ、愛しむ、愛情豊かなふれあいの子育て」を、お母さん、お父さんだけでなく、地域のみんなで進め、応援していきましょう、という宣言です。「地域ぐるみの愛情豊かなふれあいの子育ての推進」を表現しています。
としている[9]。
この宣言の発端は、1976年、粉ミルク育児全盛期において母乳育児を重要視する動きが出る中で旧光市が母子保健活動の重点目標として母乳栄養の重要性を掲げたことにあり、その後は母乳育児推奨から「胸でしっかりと子どもを抱きしめ愛しむふれあいの子育て」に意味が変化し、子育て支援に関わる団体や市民グループの陳情を受けて1995年に市議会で「おっぱい都市宣言」が決議された。大和町との新設合併による新市制施行後の2005年6月30日に改めて決議されている。
2021年2月下旬頃より、光市が「おっぱい都市宣言」を行っていることがSNSで拡散され話題となり、賛否両論を呼んだ[12]。
※正副議長は慣例で会派を離脱している。 ※会派は2議員以上で結成できる。
店舗面積10,000m2以上の大規模小売店鋪を以下に記す。
なお、長年にわたり中国JRバス光線が下松駅・光駅と室積地区の間に運行されていたが、2024年3月31日限りで廃止され(防長交通に引き継ぎ)光営業所も閉鎖された。これにより中国JRバス子会社の西日本バスネットサービスも同時に光市内から撤退し、「ひかりぐるりんバス」は周南近鉄タクシーに引き継がれた。
福岡市と光市を結ぶ高速バス「福岡・防府・周南ライナー」が2003年から運行されていたが、2014年3月31日限りで運行区間が短縮され、光市内に乗り入れなくなった。このため現在では光市内を発着・経由する高速バスはない。
市外局番は旧光市が0833 (71 - 79)、旧大和町が0820 (48) となっている。
郵便番号は、以下の通りとなっている。
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