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女優(1933-2014) ウィキペディアから
淡路 恵子(あわじ けいこ、本名:井田 綾子(いだ あやこ)[1][4][2]、1933年(昭和8年)7月17日 - 2014年(平成26年)1月11日)は、日本の女優。
あわじ けいこ 淡路 恵子 | |||||||||||
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淡路 恵子 | |||||||||||
本名 | 井田 綾子(いだ あやこ)[1] | ||||||||||
生年月日 | 1933年7月17日 | ||||||||||
没年月日 | 2014年1月11日(80歳没) | ||||||||||
出生地 |
日本・東京府東京市荏原区[2][3] (現・東京都品川区荏原[3]) | ||||||||||
死没地 | 日本・東京都港区 | ||||||||||
血液型 | AB型 | ||||||||||
職業 | 女優 | ||||||||||
活動期間 | 1949年 - 2014年 | ||||||||||
配偶者 |
ビンボー・ダナオ (1953年 - 1965年離婚)[2] 萬屋錦之介 (1966年 - 1987年)[2] | ||||||||||
著名な家族 |
島英津夫 (長男 / ダナオとの実子) | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
テレビドラマ 『若い季節』 『男嫌い』 映画 『野良犬』 『この世の花』 『社長シリーズ』 『駅前シリーズ』 | |||||||||||
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1933年(昭和8年)、東京・品川に生まれる[1]。家は二階建ての借家だった[3]。父は大日本帝国海軍の軍人だったが、胸を患って海軍省を辞め自宅療養していた[3]。母は助産婦[3]。
集団疎開先の富山県から一時荏原に戻った時、激しい空襲に遭った[5]。そのため茨城県の母の親戚の所へ疎開に行き、田舎暮らしを体験[5]。
府立第八高等女学校(現・東京都立八潮高等学校)を受験、合格する[6]。13歳の時、終戦の翌夏父親が他界[6]。「女医にしたい」という母の願いをよそに、淡路はSKD(松竹歌劇団)に合格、卒業まであと数か月だったが第八高女を退学した[7][2]。 1948年に松竹歌劇団の養成学校である松竹音楽舞踊学校に4期生として入学。
1949年(昭和24年)、入団前の学校生時に黒澤明監督より抜擢され、『野良犬』で舞台より早くスクリーンデビュー。
1950年(昭和25年)、松竹歌劇団に入団。草笛光子、深草笙子と組んで「スリーパールズ」と呼ばれ、歌に踊りに大活躍[2]。1952年(昭和27年)、準幹部に昇進。
1953年(昭和28年)からは多くの松竹映画に出演[2]。主演したメロドラマ『この世の花』は続編、続々編と大ヒットしたため完結編まで全10部作となった。1954年(昭和29年)にはマーク・ロブソン監督に見出され、パラマウント映画『トコリの橋』でミッキー・ルーニーと共演。
1957年(昭和32年)に出演した『太夫さんより・女体は哀しく』と『下町』の演技でブルーリボン賞の助演女優賞を受賞。
1960年代(昭和35年)には『駅前シリーズ』や『社長シリーズ』にレギュラー出演した。
テレビドラマでは、1961年(昭和36年)に『若い季節』に女社長役で主演。1963年(昭和38年)には越路吹雪、岸田今日子、横山道代との四姉妹役で出演した『男嫌い』が数々の流行語を生み出す話題作になった[8][9]。
1987年(昭和62年)『男はつらいよ 知床慕情』で結婚引退後から20年ぶりに女優復帰して、マスコミからの復帰インタビューにも撮影所で喫煙しながら応じていた。
2011年(平成23年)7月に、波瀾万丈の芸能人生60年を振り返った『凛として、ひとり〜弱かった自分が強くなれた瞬間』(実業之日本社)を出版した。
2014年(平成26年)1月11日17時24分、食道がんのため東京都港区の病院で死去した。80歳没[4][10]。食道がんに関しては投薬により治療していた。また直腸がんの手術も成功していたが、2013年(平成25年)9月以降食事を受け付けなくなり、徐々に体力が落ちていき、所属事務所の社長の話によれば、2014年1月9日に会ってから容体が急変したという。[10]戒名は「宝珠院淡路日恵清大姉」[11]。東京・青山葬儀所で通夜告別式が営まれ、松竹歌劇団の一期後輩でもあり仲良しの旧友でもあった草笛や宝田明、プライベートで可愛がられていた浅田美代子、小堺一機、爆笑問題、はるな愛など約300人が21日の通夜に参列し、22日の告別式には淡路と60年来の大親友であったデヴィ・スカルノ、後輩の高橋英樹、中尾ミエ、綾戸智恵、栗原類など約150人が参列し別れを惜しんだ。墓所は元夫萬屋錦之介と同じ鎌倉霊園にある。
父は海軍の軍人だった[3]。母は茨城県久慈浜の網元の娘[3]。母は、道楽者の結婚相手に愛想を尽かして子供2人を連れて東京に出て助産婦を始めた時、父と知り合い再婚した[3]。13と11違いの兄が2人いる[3]。
淡路は20歳のときにフィリピン人歌手ビンボー・ダナオ(Bimbo Danao)と結婚[29]。彼のショーを見に行って人に紹介された[29]。ビンボー・ダナオは本国に妻と4人の娘がいて、またカトリック信者であり、その妻と離婚ができなかった[29]。そのために入籍はしておらず事実婚であった[29]。淡路によれば「私、結婚に対してなんの夢もなきゃ、婚姻届を出すとかそんなことも知らなかったの。“好きだ、好きだ”って彼が言って、私が家を建てたらやって来て、お互いに好きだから一緒にいただけ。一緒にいるから結婚だと思っていたくらい(笑い)」という[29]。
長男の島英津夫と次男(一般人のため非公表)を出産。2児の母となるが、ダナオの度重なる浮気が原因で1965年に離婚(ダナオは1967年に腺肉腫で死去)。1966年に中村錦之助(後に萬屋錦之介と改名)と再婚し、女優業を引退、三男・四男を出産した。しかし、錦之介の個人事務所である中村プロが13億円もの莫大な負債を抱え倒産。重症筋無力症で倒れた錦之介を献身的に看病するが、豪邸を売却し貯金も尽きた淡路は、錦之介を看病しながら生活費を稼ぐため、一時期は六本木でクラブの雇われママも経験した。淡路の友人であった甲にしきとの不倫問題などで1987年に離婚。
1990年に三男で元俳優の小川晃廣がバイク事故で死亡。2004年には素行不良に手を焼いていた四男で元俳優の萬屋吉之亮(本名:井田哲史)が恵子の自宅に侵入、金品を物色中に通報で駆けつけた警視庁麻布警察署署員に、住居侵入などの疑いで逮捕・連行され、ワイドショーや女性週刊誌で話題となる。愛想を尽かした恵子は厳罰を求めて吉之亮を告訴、懲役6か月の実刑となった。しかも彼はこの時、別の窃盗罪で執行猶予期間中だった(懲役1年6月・執行猶予3年)ため、前犯と合算され、懲役2年の実刑となった。2010年6月18日、四男の吉之亮が自宅マンションで死亡しているのが発見された。自殺と見られている。なお、亡くなった三男には娘(淡路の孫)がおり、自分も男ばかりじゃなく娘が欲しかったと語っていた。
ほか、多数
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