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収監されている刑事施設から無断で施設外に脱出する行為 ウィキペディアから
脱獄(だつごく)は、収監されている刑務所や拘置所など刑事施設から脱走する行為である。牢破りとも呼ばれる。日本の法律上は逃走という[1]。
刑事施設の中では著しく権利が制限されるため、施設の外に脱出することによる自由を得るために行う。また死刑判決を受けた死刑囚が生命の危険を感じて逃走するケースもある。
逃走する方法としては、施設の破壊、職員の汚職や内部の協力者によるもの、外部の助けを借りて、火事や地震など災害の混乱に乗じて、様々な方法で脱出が行われる。これらに対して、刑事施設側も消防施設、センサーや監視カメラの拡充を行い、アメリカ合衆国[2]やオーストラリア[3]などでは条件付きで射撃規則を設け、周りに人里がないような流刑地や高度警戒刑務所に移送する対策をしている。
日本、ナミビアなどでは脱獄は権力執行を揺るがす事態であるため、政府は逮捕勾留されている者が刑事施設から脱出する行為に対して、逃走の罪としている。
一方、オランダ[4]、スウェーデン[5]、ベルギー[6]やメキシコ[7]、ドイツ、オーストリア、スイスなど、いくつかの国家では、罰から逃げようとするのは人間の本能であるから、脱獄は合法とされている。しかし、これら脱獄が合法である国家でも、脱獄を支援するのは罰せられる[4][8]。
平成で日本における脱獄の事例は、1989年10月16日に強盗強姦罪等で熊本刑務所に服役していた受刑者が逃走し、1年後に逮捕された例[9][10]や、2012年1月11日に殺人未遂等で広島刑務所に服役していた中国人受刑者が逃走し、2日後に逮捕された例(広島刑務所中国人受刑者脱獄事件)がある。
逃げられないような地形、高い二重フェンスなどの施設構造、監視カメラ・センサー類の機械警備、複数人の警備員による警備。
年 | 脱獄人数 | 備考 |
---|---|---|
1882 | 1,397 | 西川寅吉、三重監獄に投獄。その後、脱獄。 渡邊魁、前年に脱獄し、大分始審裁判所竹田治安裁判所詰の雇員に採用される。 |
1883 | 1,410 | 1882年以降最多の刑務所脱獄人数。その内の200人は3月の二日市監獄署(岡山県)で起きた集団脱獄事件であり、脱獄の際に受刑者が放火し、獄舎1棟が全焼している[11]。 |
1884 | 992 | |
1885 | 1,001 | 西川寅吉、2度目の脱獄。その後捕まり、小菅監獄に投獄。また、3月15日に札幌分署(元雨竜通り獄舎)から45人が集団逃走する、北海道史上最大の脱獄事件が発生している[11]。 |
1886 | 697 | 西川寅吉、3度目の脱獄。すぐに捕まり、空知集治監に投獄。 |
1887 | 591 | 西川寅吉、4度目の脱獄。その後捕まり、樺戸監獄に投獄。そして、5度目の脱獄をする。脱獄の際、足の甲に5寸釘が刺さる。 |
1888 | 469 | |
1889 | 373 | |
1890 | 514 | 西川寅吉、捕縛。再び樺戸監獄に投獄される。同年3月、標茶集治監が網走に引っ越して釧路監獄署網走囚徒外役所(現網走刑務所)になるに伴い網走へ移る。その後6度目の脱獄。 渡邊魁、判事に昇任。 |
1891 | 324 | 渡邊魁、捕縛される。 |
1892 | 268 | |
1893 | 127 | |
1894 | 128 | |
1895 | 91 | |
1896 | 79 | |
1897 | 68 | 西川寅吉、捕縛。その後、脱獄せず模範囚として服役する。なお、服役していた刑務所は、網走監獄(1903年)、網走刑務所(1922年)と施設名称が西川の服役中に2回変更されている。 |
1898 | 71 | |
1899 | 39 | |
1900 | 57 | |
1901 | 61 | |
1902 | 101 | |
1903 | 99 | |
1904 | 93 | 2月23日に網走監獄から長期囚17人が集団で脱獄[12]。 |
1905 | 69 | |
1906 | 87 | |
1907 | 79 | 白鳥由栄誕生。 |
1908 | 87 | 監獄法制定。 |
1909 | 98 | |
1910 | 55 | |
1911 | 86 | |
1912 | 52 | |
1913 | 16 | |
1914 | 18 | |
1915 | 10 | |
1916 | 14 | |
1917 | 12 | |
1918 | 13 | |
1919 | 16 | |
1920 | 14 | |
1921 | 9 | |
1922 | 16 | 渡邊魁死去。 |
1923 | 390 | この年、関東大震災時の横浜刑務所において、24時間以内に刑務所または警察署に出頭することを条件に解放命令が出された[13]。 第25回日本帝国司法省行刑統計年報の57ページより逃走人員は374人となっているが、この人員は24時間以内に出頭できなかった人数と推測され、通常の脱獄とは事情が異なることに注意を要する[14]。 |
1924 | 21 | 西川寅吉仮釈放。 |
1925 | 11 | |
1926 | 15 |
年 | 脱獄人数 | 備考 |
---|---|---|
1926 | 15 | |
1927 | 19 | |
1928 | 3 | |
1929 | 11 | |
1930 | 15 | |
1931 | 6 | |
1932 | 8 | |
1933 | 8 | 白鳥由栄、仲間と共に強盗殺人をする。 |
1934 | 7 | 行刑累進処遇令(昭和8年司法省令第35号)施行 |
1935 | 20 | 白鳥由栄、拷問によって仲間が殺したにもかかわらず、自分が殺したと自白させられる。 |
1936 | 4 | 白鳥由栄、青森刑務所から脱獄(1回目) |
1937 | 8 | 泉水博(ダッカ日航機ハイジャック事件釈放要求対象メンバーの一人)誕生 |
1938 | 16 | |
1939 | 18 | |
1940 | 31 | |
1941 | 23 | 西川寅吉死去 |
1942 | 30 | 白鳥由栄、秋田刑務所から脱獄(2回目) |
1943 | 62 | |
1944 | 104 | 白鳥由栄、網走刑務所から脱獄(3回目) |
1945 | 541 | |
1946 | 391 | 7月7日の神戸刑務所で刑事被告人49人(日本人31人・朝鮮人18人)が集団で逃走をし、29人を逮捕[15]。極度の過剰拘禁と凶悪収容者の激増が原因[15]。 |
1947 | 505 | 白鳥由栄、札幌刑務所から脱獄(4回目)。特警隊リーダーの即日仮釈放を刑務所所長に拒否されたことをきっかけに発生した静岡刑務所暴動脱獄事件により静岡刑務所から特警隊リーダーを含む9人が集団脱獄したが、数日のうちに逮捕。また、脱獄前にモチを数時間かけてついている。この事件をきっかけに戦時中に採用された特警隊制度(刑務官の戦地招集による人手不足を補うために模範囚達に刑務補助[受刑者の見張り等]を行わせる制度)が廃止される[16][17]。 |
1948 | 402 | 白鳥由栄、府中刑務所収監 |
1949 | 251 | |
1950 | 152 | |
1951 | 89 | |
1952 | 74 | |
1953 | 53 | |
1954 | 48 | |
1955 | 32 | 栃木雑貨商一家殺害事件の犯人が5月に脱獄し同月に確保され、6月28日に死刑が確定し、11月22日に処刑される。 |
1956 | 19 | |
1957 | 28 | |
1958 | 17 | |
1959 | 25 | |
1960 | 27 | 泉水博(ダッカ日航機ハイジャック事件釈放要求対象メンバーの一人)、強盗殺人で逮捕。 後に無期懲役の判決を受ける。 |
1961 | 24 | 白鳥由栄仮釈放 |
1962 | 17 | 1962年6月のアルカトラズ脱獄事件発生 |
1963 | 30 | アルカトラズ刑務所閉鎖 |
1964 | 22 | |
1965 | 14 | |
1966 | 12 | |
1967 | 9 | |
1968 | 9 | |
1969 | 17 | |
1970 | 13 | |
1971 | 7 | |
1972 | 9 | |
1973 | 4 | |
1974 | 3 | |
1975 | 6 | クアラルンプール事件発生 |
1976 | 6 | |
1977 | 8 | ダッカ日航機ハイジャック事件発生 |
1978 | 3 | |
1979 | 3 | 白鳥由栄死去 |
1980 | 2 | |
1981 | 4 | |
1982 | - | 1882年以降、初めて刑務所からの脱獄が無かった。 |
1983 | 2 | |
1984 | 5 | |
1985 | 4 | |
1986 | 3 | 泉水博(ダッカ日航機ハイジャック事件釈放要求対象メンバーの一人)、フィリピンにて捕まる。 |
1987 | 3 | |
1988 | - | |
1989 | 3 |
年 | 脱獄人数 | 備考 |
---|---|---|
1989 | 3 | 強盗強姦罪等で熊本刑務所に服役していた受刑者が逃走し、1年後に逮捕。 |
1990 | 4 | |
1991 | 1 | |
1992 | - | |
1993 | - | |
1994 | 1 | 松山刑務所から当時29歳の受刑者が脱走。女子大学生を車で連れ去り重傷を負わせて逮捕監禁致傷容疑などで指名手配され、4カ月後に宮崎県で逮捕された[18][19]。 |
1995 | - | |
1996 | 1 | |
1997 | - | |
1998 | - | |
1999 | - | |
2000 | - | |
2001 | - | |
2002 | 1 | |
2003 | - | |
2004 | - | |
2005 | - | |
2006 | - | |
2007 | 1 | 刑事収容施設法施行。それに伴い、監獄法が廃止される。 |
2008 | - | |
2009 | - | |
2010 | - | |
2011 | - | |
2012 | 1 | 広島刑務所中国人受刑者脱獄事件発生 |
2013 | 1 | |
2014 | - | |
2015 | - | |
2016 | - | |
2017 | - | |
2018 | 1 | 松山刑務所から27歳の男性受刑者が脱走する事件発生 |
2019 | - | |
2020 | - | 泉水博死去 |
2021 | - | |
2022 | - | |
2023 | - |
2010年のメキシコでは、大規模なものだけでも3月にマタモロスの刑務所から40人、同年9月にレイノサの刑務所から85人、同年12月にヌエボラレドの刑務所から141人の脱走が報じられている[20]。
1983年のオーストラリア、ニューサウスウェールズ州内では、1年間の脱獄件数が183件に上っていた。脱獄数は、その後減少傾向にあるが、2017年現在でも10件の脱獄が発生している[21]。
1990年代のアメリカ合衆国では、1万4000人を超える脱獄者を記録した年があった。これは軽犯罪者を収容する警備、拘束レベルが非常に緩い刑務所の存在があるため。脱獄者は年々減少傾向にあり、2016年の脱獄者数は2330人[22]。
以下に挙げるものは大規模な脱獄事件、大きな事件の被疑者の脱獄事件、マスメディアで大きく取り上げられた脱獄事件などに限られる。
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