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キク科キク属の植物 ウィキペディアから
キク(菊)は、キク科キク属の植物。ここでは、狭義のキク(家菊〈イエギク〉、栽培菊〈栽培ギク〉)について記述する[1]。
日本では日本で観賞用多年草植物として花卉園芸で発展した品種群を和菊、西ヨーロッパで育種されて生まれた品種群を洋菊と呼ぶ[2]。
イエギク(家菊、学名 Chrysanthemum × morifolium syn. Chrysanthemum × grandiflorum Kitam.)は、キク科キク属の植物。
秋に咲く花であるが、短日性植物で、電照などを用いた作型の分化により、周年供給されている(電照菊を参照)。食用にする「もってのほか」などの品種もある(食用菊を参照)。観賞園芸的には和菊、生産園芸的には洋菊が中心に栽培されている。また、切花としては温室での電照栽培で周年出荷されている。バラ、カーネーションとともに生産高の多い花卉となっている。
日本においては、菊は元々は外来種であり、薬草や観賞用植物として中国から伝来した[3]。平安時代に用いられ始めて、宮中では菊の節句とも呼ばれる重陽の節句(旧暦9月9日)が明治時代まで行われ、現在でも皇室園遊会(観菊御宴)として行われている。日本で菊の栽培が盛んになったのは、栽培のプロセスが冬に芽をとり、春に植え、夏に成長させ、秋に観賞するといった具合で、イネの栽培と類似していることが影響しているとの説もある。現在では各地に愛好会ができる一方で、秋には、それらが主催の品評会が開かれている。
物品への意匠として用いられることも多く、鎌倉時代に後鳥羽上皇が身の回りのものに施したことにより天皇および皇室の紋となったといわれ[4]、鎌倉時代には蒔絵や衣装の文様として流行した。日本の南北朝時代以降には天皇より下賜されることにより公家や武家の間で家紋として使用されるようになった(詳細は「菊花紋章」を参照のこと)。江戸時代には品種改良が行われた。
世界的には、フランス、ポーランド、クロアチア等の一部のヨーロッパ諸国において白菊が墓参に用いられ、中国、韓国でも葬儀の際に菊が用いられることが多い。日本でも古くから仏花や献花として菊が使用されてきた(なお、慣習として故人への供花とされ、病室へのお見舞いの花としては忌避される)。
キクの花弁が放射状に並んだ形状に由来する慣習的な呼び名があり、アンモナイトの化石を「菊石」と呼ぶほか、また陶芸やそば打ちでの材料の練り方に「菊練り」がある。
中国で菊は古くから文献に現われるが、これらは自生種のハイシマカンギクなどを指すと考えられる。栽培キクはチョウセンノギクとハイシマカンギクの雑種として5、6世紀頃に現れたらしく、唐代に入って盛んに栽培・観賞された[5]。宋代には劉蒙が『菊譜』を出版し、多数の園芸品種が育成されていたことが知られる[6]。
日本にはタンポポなど多くの野菊(下記「キク科」参照)が自生するが、家菊・栽培菊は日本になかった。『万葉集』には157種の植物が登場するが、菊を詠んだ歌は一首もなく、飛鳥時代・奈良時代の日本に菊がなかったことを暗示する[7]。中国から奈良時代末か平安時代初めに導入されたと推定される[8]。平安時代に入り、『古今和歌集』あたりから盛んに歌にも詠まれるようになった[9]。
『和名類聚抄』(10世紀前半成立)巻20「草類」における菊の和名表記として、「加波良與毛木」(カワラヨモギ=河原蓬)が記されている。
春の桜に対して日本の秋を象徴する花となるが、それが決定的になったのは、鎌倉時代の初め後鳥羽上皇が菊の花の意匠を好み、「菊紋」を皇室の家紋とした頃からである。また、平安時代に藤原から改名した九州の豪族菊池氏も家紋に「菊花」もしくは「菊葉」を使用している。
育種が一気に展開したのは江戸時代から、特に元禄期(17世紀末)以降である[6]。正徳頃からは「菊合わせ」と呼ばれる新花の品評がしばしば行われた。江戸、伊勢、京都、熊本などでそれぞれ独自の品種群、系統が生じた。「三段仕立て」などの仕立ての様式やその丹精の仕方なども発達し、菊花壇、菊人形など様々に仕立てられた菊が観賞された。これらは江戸時代から明治、大正時代にかけて日本独自の発展をした古典園芸植物の1つとして、現在では「古典菊」と呼ばれている。全般に花型の変化が極めて顕著であるのが特徴で、その中でも「江戸菊」は咲き初めから咲き終りまでの間に、花弁が様々に動いて形を変化していく様を観賞する。このように発展した日本の菊は幕末には本家の中国に逆輸入され、中国の菊事情を一変させた。明治時代になると、花型の変化よりも大輪を求める傾向が強まり、次第に「大菊」が盛んになった。花型としては厚物、管物、大掴み、一文字などに収束し、花の直径が30センチメートルに達する品種も現れた。この傾向は菊を日本の象徴として見る思想と関係していると思われ、戦後にまで続いている[10]。
2017年、農研機構はサントリーと共同でカンパニュラ・チョウマメの遺伝子を用いて世界初の『青いキク』を作出した[11][12]。
ヨーロッパへは1789年に中国からキクがもたらされた。花の中で人気はなかなか出ることなく数十年経過する。1860年に幕末の日本を訪れたイギリス人のロバート・フォーチュンが、翌1861年に様々な品種をイギリス本国に送ったことで、流行に火が付いた[13]。以後イギリスを中心に、ヨーロッパ各地でも菊の育種が盛んになった。特にイギリスでは、最後のフローリスツ・フラワーの一つとなった。[要出典]その後、西ヨーロッパでは切り花用や修景用など、生産園芸分野での育種が進み、スプレーギクなどが生まれている。
花の直径は20センチメートル前後。一枝に対し一輪だけ残して周りのつぼみを摘蕾する。「三本仕立て」「ダルマづくり」「福助づくり」などにして楽しむ。
仏花などに使用される一般的な実用花や、洋菊(ポットマム)などが含まれる。ほか、江戸時代から続く「古典菊」もこの区分に入れられる。
花の直径が1センチメートルから3センチメートル。つぼみは摘蕾(てきらい)しない。「懸崖仕立て」や「菊人形」などにする。
花の直径が6センチメートルから3センチメートルくらい。つぼみは摘蕾(てきらい)しない。ハウス栽培切り花として生産され、仏花などの用途で周年供給される。スプレイー(Spray)とは先が分かれた枝との意味で、小枝の先に多数の花を付ける。
いわゆる西洋キクで、鉢植えで秋頃に出回る。「矮化剤」で成長が抑制され、背丈が揃えられている。
普及したのは1950年代にアメリカ合衆国のヨーダーブラザーズによって発売され、1968年に日本国内でも販売開始された。1970年後半以降より販売数が減少したが、1990年頃に新しいパテントが普及され、麒麟麦酒の子会社でキリンマムから発売され、各種苗会社では現在も需要が多い。
山形県内各地、青森県八戸市など東北地方、新潟県の中越から下越などで栽培されている。
花を食用にするもので、刺身のつまとして見かけることも多い。花びらのみを食用とする。独特の甘みがあり、茹でてお浸しにしたり、酢の物や胡桃合え、天ぷらや吸い物に用いられたりする。保存食としては、天保年間に初版が刊行された『漬物塩嘉言』に「菊漬」の記載がある[14]。また、干した加工品「のし菊」が作られる。旬は秋。主な品種に「松波」「安房宮」、桃紫色の花を咲かせる「延命楽」(通称「もってのほか」)がある。
菊には大菊、中菊、小菊の3つの区分があるが、仕立てに使用するのは主に大菊である。
最も代表的な仕立て方、
丸っこい姿からこの名がついた(「だるま」を参照)。
ずっしりした姿からこの名がついた(「福助人形」を参照)。
懸崖用の小菊を、前年秋のさし芽したものを、摘心を繰り返し、形を作る。かまぼこ状に隙間なく花をつけるのには技術が必要。大きいものから60センチメートルほどの小さなものもある。
秋にさし芽をしたものをひたすら摘心し、一鉢で直径3メートルから4メートルほどの半球状に花が隙間なく、かつ規則正しく並べ咲かせる。
日本で皇室の象徴、また、しばしば日本そのものの象徴とされる。
キク科の植物は被子植物の中では最も繁栄しているものの1つで、世界中に2万種以上が自生している。日本における和名・通称では多くが「○○ギク」と呼ばれる。
日本には350種ほどが自生し、帰化植物は150種がある。そのうち、単に「キク」「野菊」と呼ばれるものは、以下のものがある。
など
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