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1964年に日本で行われた第18回夏季オリンピック ウィキペディアから
1964年東京オリンピック(1964ねんとうきょうおりんぴっく)は、1964年(昭和39年)10月10日から10月24日までの15日間、日本の東京都で開かれた第18回夏季オリンピック[1]。東京オリンピック、東京五輪、東京1964(Tokyo 1964)と呼称される。大会後には同一都市では初となるパラリンピックも開催(第13回国際ストーク・マンデビル競技大会として開催)された。
アジア初および有色人種国家初のオリンピックでもある。また、1952年のヘルシンキ(フィンランド)、1960年のローマ(イタリア)に続いて第二次世界大戦の旧枢軸国の首都で開催されたオリンピックである。
1940年(昭和15年)の夏季大会の開催権[注釈 1] を返上した東京は、第二次世界大戦終結の9年後の1954年(昭和29年)に1960年(昭和35年)夏季大会開催地に立候補した[2]。しかし、翌1955年(昭和30年)の第50次IOC総会における投票でローマに敗れた。
次に1964年(昭和39年)夏季大会開催地に立候補し、1959年(昭和34年)5月26日に西ドイツのミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された。
得票数は東京が半数を超える34票、アメリカ合衆国のデトロイトが10票、オーストリアのウィーンが9票、ベルギーのブリュッセルが5票だった。特に、総会での立候補趣意演説を行なった平沢和重(外交官)や、中南米諸国の支持を集めるために奔走した日系アメリカ人の実業家、フレッド・イサム・ワダ(和田勇)、当時都議であった北島義彦、「日本レスリングの父」といわれた八田一朗らの功績が大きかった。和田は育った御坊市で名誉市民第1号となっている。
1957年(昭和32年)当時、日本水泳連盟会長を務め東京招致を主導していた田畑政治は、オリンピック招致費用が2013年現在の価格に換算して約1200億円かかることを懸念していた岸信介首相へ観光収入も見込めると直談判した[3]。
開催が決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」(会長:津島寿一、事務総長:田畑政治)が組織され、国家予算として国立競技場をはじめとした施設整備に約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上した国家プロジェクトとなった[注釈 2]。
開催にあたり、組織委員会は巨大な東京オリンピック公式ポスターを都市部に設置、デザインは亀倉雄策が手掛けた。
組織委員会では、津島と田畑が第4回アジア大会参加問題で1962年10月に引責辞任。後任に安川第五郎が組織委員会会長、与謝野秀が事務総長となった[4][5]。政府側でも、オリンピック担当国務大臣を設け川島正次郎が就き、1964年7月第3次池田内閣で河野一郎が就任した。
各競技の詳細については、それぞれの競技のリンク先を参照のこと。
競技名 / 日付(10月) | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
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開会式 | • | ||||||||||||||
陸上競技 | • | • | • | • | • | • | • | • | |||||||
競泳競技 飛込競技 | • | • | • | • | • | • | • | • | |||||||
水球 | • | • | • | • | • | • | • | ||||||||
体操 | • | • | • | • | • | • | |||||||||
柔道 | • | • | • | • | |||||||||||
レスリング | • | • | • | • | • | • | • | • | |||||||
自転車競技 | • | • | • | • | • | • | |||||||||
バレーボール | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | ||||
バスケットボール | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | ||||
サッカー | • | • | • | • | • | • | • | • | • | ||||||
ボクシング | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | |||
ボート | • | • | • | • | • | ||||||||||
セーリング | • | • | • | • | • | • | • | ||||||||
カヌー | • | • | • | ||||||||||||
フェンシング | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | ||||
ウエイトリフティング | • | • | • | • | • | • | • | ||||||||
ホッケー | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | • | |||
近代五種競技 | • | • | • | • | • | ||||||||||
馬術 | • | • | • | • | • | • | • | ||||||||
射撃 | • | • | • | • | • | ||||||||||
閉会式 | • |
東京が1964年夏季オリンピックの開催権を獲得した1959年の時点では、日本側の準備委員会は会期について、過去の気象データで晴天が多い時期である、7月25日~8月9日と10月17日~11月1日の2案を提案した。しかし、その後の検討では、5~6月案が浮上した。9月ごろには、日本に台風が上陸しやすく、1959年の伊勢湾台風で大きな被害が発生したこと。東京で開催された1958年アジア競技大会の成功が、5~6月の日本の初夏の爽やかな気候も一因だったことが理由である。東京オリンピック組織委員会は、1960年2月にサンフランシスコで開催された第56回IOC総会で、5~6月案を追加した会期案を検討中であると明らかにした。
1960年2月に組織委員会は、下部機関の競技特別委員会に会期を研究する小委員会を設けた。小委員会には、各競技団体の代表、気象・海象・生理・衛生の専門家が参加した。春(5、6月)、夏(7、8月)、秋(10月)の3案のうち、夏は湿度が高いことから、最初に除外された。外国選手は、日本の夏の湿度は、欧米では全く経験できないので、最も忌避していた。5月案と10月案には、一長一短があった。気象データでは、雨の出現確率、晴または曇の出現平均確率で見れば、10月のほうがやや有利だが、台風の被害は9月に集中しやすい。台風によって日本のどこかに大きな被害があった直後に、莫大な経費を必要とするオリンピックを開催することは、国民的な感情として許されるかどうか。10月に会期が決まり8~9月に台風があった場合、台風の時期は各国の選手や用具が日本へ向け海・空路による輸送の途上にあたり、この輸送が円滑に行くのか。ヨット、ボートが到着後、台風による被害を完全に防止できるのか。台風後は必ず伝染病がまん延しているなどの懸念が指摘された。
東京オリンピック関連道路の整備は、用地の買収に隘路があり、会期が遅いほど都合がよいので、関係者は10月案を希望した。日本体育協会の選手強化対策本部は、「特殊環境が選手の運動に一般的に悪い影響を及ぼし、記録の上での成果が多く期待できない」「伝染病に弱い外国選手、観光客に不測の事態を発生する恐れがある」として、夏は除外されるべきだとした。小委員会は、1960年4月28日に総務委員会を経て組織委員会に答申し、5月23日~6月7日、10月3~18日の2案を提示した。総務委員会では、台風中の輸送を考慮し、10月18日~11月1日が適当であるとの意見書が附された。
諸外国のオリンピック関係者では、会期について多様な意見があった。ヨーロッパ諸国の関係者からは、5月案に否定的な意見が多かった。イギリスのエクゼターIOC委員は、「スカンジナビア半島の国々の場合を考えてみよう。彼等の国は1年の初めの部分(1月から3月の意)は雪に覆われている。だが私は彼等の国の選手が春までにベスト・コンディションに達するかどうかを疑わしいと思う」と述べた。イタリア・オリンピック委員会筋は、「イタリアはじめヨーロッパ諸国では、選手は春にトレーニングを始める。選手たちは大半が学生であって本格的なトレーニングは学期が大体終った頃に始めるのだ。その時期が5月に当るのである」と述べた。一方で、オーストラリア、アルゼンチン、フィリピン、インドなどの関係者は、5月案を支持した[6]。こうした議論を経て、最終的に会期は10月10~24日に決定した。
のちの2020年東京オリンピックでは、当初の会期は2020年7月24日(一部競技は22日)~8月9日だったが、1年延期で2021年7月23日(一部競技は21日)~8月8日となった。この開催都市選考では、IOCが立候補都市に対して、会期が7月15日~8月31日におさまるように要求していた。秋はヨーロッパならサッカー、アメリカはメジャーリーグが佳境を迎え、アメリカンフットボールのNFLと競合し、テレビの放映枠で人気プロスポーツとの争奪戦を避けるのが目的だった[7]。このことから、夏の暑さを避けるために、秋開催を選択した1964年オリンピックを評価する声がある。しかし、当時と後世では、事情が異なっている点もある。1964年オリンピックの会期検討についての文献では、次のような記述があった。
「高温高湿によって最も困難な競技はバスケット、体操、レスリング、ボクシング、重量挙げおよびフェンシングの屋内競技である。殊にフェンシングは、危険防止のためにベスト(フェンシングのユニフォーム)を着用し身体を外気から隔離するため、熱の放出(汗)は逆に身体に圧力となってくる。したがってオリンピックともなれば、上記の6種目の室内競技場はすべて完全な冷房をほどこさなければならない。3,000~15,000人を収容した室内競技場を、常に快適な20℃前後に調節することは容易でなく、例え出来たとしても莫大な費用が必要である。」
「第2の理由は夏季は環境衛生上、各種伝染病および中毒の最盛期であって、殊に欧米人は、日本に多い赤痢に対する免疫性が少なく罹病率が大」[8]
その後の日本では、建物の冷房が日常的なものとなり、室内競技場での暑さ問題は解消された。2020年オリンピックでは、暑さ対策は屋外競技に焦点が置かれるようになり、開催準備段階でマラソン・競歩会場が札幌市に変更されるなどの対策が実施された。また、その後の日本では、赤痢が減少している。
台風については、前述した伊勢湾台風など、1950~60年代ごろの日本では、死者が1千人を超える台風被害がたびたび発生していたが、その後は天気予報や治水対策の発達で、死者は減少傾向である。しかし、秋には台風リスクが存在している点は変わらない。令和元年東日本台風(2019年)では、10月12日に日本へ上陸し、関東地方などで記録的な大雨を降らせ、被害をもたらした。もし東京オリンピックが2019年に開催され、開幕日が1964年オリンピックと同じく10月10日だったならば、会期中に大型台風の直撃を受けていたことになる。1964年オリンピックの会期検討で、10月案について、台風が「万一開催地の東京地区に開会前に襲来した場合、大会全般の運営に大きな支障を来し、アジアにおける世紀の祭典も一夜にして崩れ去ることもあえて誇張ではない」[9]と指摘されていたことは、現代でもあてはまる。
この東京オリンピックの開催に向けて、競技用施設から選手村、公共交通機関などのインフラストラクチャーや観戦客を受け入れるためのホテルに至るまで、東京都内のみならず日本各地において種々の建設・整備がなされた。
東京オリンピックの経費は265億3400万円といわれる(組織委経費の99億4600万と大会競技施設関係費の165億8800万円[10] との合計)。経費の大半は、公営競技の収益金や、記念メダルや寄附金付切手、寄附金付たばこ「オリンピアス」の販売、割増金つき定期預金、電電公社発行の電話帳の広告収入が充てられたほか、1961年から始まった10円募金で賄われた[11]。
聖火は、1964年8月21日にギリシャのオリンピアで採火され、アジアを経由して当時アメリカ合衆国の統治下にあった沖縄に到着した。沖縄からは鹿児島、宮崎、北海道に運ばれて4つのコースで全都道府県を巡り、10月10日のオリンピック開会式にて国立競技場の聖火台に点火された。
聖火の最終ランナーは、1945年(昭和20年)8月6日に広島県三次市で生まれた19歳の陸上選手・坂井義則(当時早稲田大学競走部所属)であった。原爆投下の日に広島市に程近い場所で生を享けた若者が、青空の下、聖火台への階段を駆け上る姿はまさに日本復興の象徴であった。
東京オリンピックの開催期間中は千駄ヶ谷や代々木などのメイン会場の周辺はもちろんその他の広範囲にわたって大規模な交通規制が行われた。特に、10月10日の開会式では警視庁は1万人の警察官を動員して警備に当たった。開会式会場となった国立競技場の横の神宮外苑も開会式当日は一般に開放されたが、この神宮外苑も収容人数は4万人程であり、チケットのない者は神宮外苑に入ることができなかった。
そして午前10時から開会式終了後までは、この神宮外苑には警察や大会関係などの許可車両以外は一切通行が禁止された。それ以外に「外周制限線」と名付けられた制限区域がもうけられた。これは「新宿4丁目交差点 - 四谷見附交差点 - 溜池交差点 - 西麻布交差点 - 新宿4丁目交差点」を囲む範囲内でおこなわれた極めて大規模な交通規制で、開会式会場の警備の他に国内外のVIPなどの移動をスムーズにするのが目的であった。その他にマラソン、競歩、自転車競技、など多くの競技で大規模な交通規制が実施された。
日本選手団は、1位の統一東西ドイツ選手団の374人、2位のアメリカ合衆国の361人に次ぐ3位の355人で、4位はソビエト連邦の332人であった[12]。
東西統一ドイツ選手団が金メダルの場合、国旗掲揚が統一東西ドイツ旗で、国歌演奏でなく「曲演奏」と紹介され、交響曲第9番 (ベートーヴェン) が演奏された。
各国選手団の中で最初に日本に乗り込んできたのは韓国の馬術競技の選手団である。5月31日に釜山港からアリラン丸に乗り出航。6月3日に東京に到着した。その後世界各国の選手団が空路や海路で乗り込んできた。東京国際空港には各国の選手団を運んできた旅客機が並んだほか、競技用の道具や馬を運んできた貨物機も並んだ。
東京オリンピックの入賞メダルは大蔵省造幣局の工芸官が原型を作成した。
デザインは金・銀・銅ともに、表面は「勝利者を肩車した男性の群像」、裏面は「勝利の女神」が浮き彫りにされ、「大会名、競技名」を記載してある欄があった。サイズは、金メダル・銀メダル・銅メダル共に直径6cm、厚さは3mm。重さは、金メダル90g、銀メダル82g、銅メダル69g。製造された数は、金メダル300個、銀メダル300個、銅メダル314個。価格は、金メダル12,500円、銀メダル7,500円、銅メダル6,000円。(全て昭和39年当時の価格)と発表されたが、この価格はあくまで造幣局が日本オリンピック委員会に請求した額であり、実際のメダルの製造では1枚のメダルを製作するのにプレス加工を合計25回も繰り返すなど手間のかかったものになっていた。大会後、製造したが余ったメダルは鋳つぶされている。
参加メダルは岡本太郎(表)と田中一光(裏)によるデザインだった[13]。
開催前年の1963年(昭和38年)、組織委員会が置かれた赤坂離宮(赤坂迎賓館)に、デザイン室が開設された。入場券、メダル、ユニフォーム、競技パンフレット、プログラム、施設の標識、案内板などを制作した。多くは20代後半から30代前半のデザイナーだった[14]。
オリンピックに際して原弘が、「ノイエ・ハース・グロテスク(ヘルベチカの前身に当たる)というサンセリフ体を使いたい」と大日本印刷に打診、市谷工場に導入された[15]。
東京オリンピック第2号ポスター(9万枚作成)は、歴代大会のオリンピックポスターがイラストであったのを、グラフィックデザイナーの亀倉雄策のデザイン(文字は原弘)、ストロボ写真演出早崎治、ディレクター村越襄で、オリンピックポスター初の写真ポスターである[16]。ポスターは全部で4種類が制作された[17]。
第1号ポスター(10万枚作成)は、縦長の全体が白地に、赤い日の丸の下に、金の五輪マークと金字のTOKYOと1964のイラスト。6人が3案ずつ提出した指名コンペにて満場一致で選ばれた[14][18][19]、亀倉(文字は原弘)の大会エンブレムと同じデザインだった。赤と金の配色は豊臣秀吉の陣羽織(木瓜桐文緋羅紗陣羽織・大阪城天守閣蔵)から着想を得たともいわれる[20][21]。オリンピック史上初めて五輪の輪の5色の標準色を詳細に決定した[22]。
1959年の招致ポスターは栗谷川健一が手がけた通称「富士山」だった[23]。
まず競技種目ピクトグラム計20種が前年に作られ、1964年に入ってから施設用ピクトグラム計39種の制作が始まった[24]。
案内や誘導、競技種目表示においてピクトグラムが採用されたのは東京オリンピックが最初である。外国語(特に公用語のフランス語や英語)によるコミュニケーションをとることができる者が少ない日本人と外国人の間を取り持つために開発された。制作にはアートディレクターを務めた勝見勝を中心に粟津潔ほか30名ほどのデザイナーが携わった。
競技種目ピクトグラムを制作したのは、日本デザインセンターの山下芳郎1人である[25][26]。ヨット競技のみは人間を描かず、柔道・ウェイトリフティングの2つは正面図。残りの競技は右向きの1選手を描写した(レスリングのみ2選手が組む横からの図)。サッカー・バレー・バスケ・水球のボールは、各およそ右端中段寄りに配置された。
東京2020オリンピックでは、1964年大会の競技種目ピクトグラムを先人へのリスペクトともに継承・進化させたものと位置づけて[27]、右向きに統一させず、左向きのデザインも混在させた[28]。
東京オリンピックにおける日本選手団のユニホームは1964年(昭和39年)2月に国立競技場でコンテストが開催され、そこで選ばれたデザインが後日JOC総会にかけられて承認を受けるかたちで決定された。オリンピック東京大会日本選手団ユニホーム、特に開会式・閉会式で着用された式典用デレゲーションユニホームが、上半身が赤色で下半身が純白のかなり派手な服装であり、50年近く時を経た現在でもオリンピック日本選手団の公式ユニホームと言えばこの「上半身が赤色で、下半身は白色」を思い浮かべる人が多い。日本選手団の制服を松坂屋上野店が受注[29]。
東京オリンピックの行事で使用された楽曲は、オリンピック東京大会組織委員会に設けられた式典運営協議会で以下の5曲が決められた[36]。これらの曲は前年のオリンピックデーで披露された[注釈 5]。
「ファンファーレ」は広く一般から公募して、海外からの応募作を加えて414編の中から選ばれたもので、当時長野県在住の今井光也が作曲し、日本の伝統的音階を基調とした8小節の東洋的色調に溢れた作品で四部形式で書かれた純トランペットの曲であった[36]。
オリンピック東京大会讃歌は、東京大会のみに使われた賛歌で、開会式用の(A)、閉会式用の(B)の2曲があり、聖火が灯された直後と聖火が消えゆく直前に歌われた。
選手団の入場行進曲は、世界各国の著名な行進曲12曲が選ばれて、最初と最後に使用される行進曲として「オリンピック・マーチ」を古関裕而が作曲した。1分間120の行進速度でコーダは「君が代」の旋律で結ばれている。
この他に、開会式冒頭には「オリンピック序曲」(作曲:團伊玖磨)が華やかな雰囲気の中で演奏され、昭和天皇・香淳皇后がロイヤルボックスに着席する直前には電子音楽「オリンピック・カンパノロジー」(作曲:黛敏郎)が荘厳な雰囲気を醸し出していた。
国民の五輪への関心を高めるために、日本放送協会 (NHK)がオリンピック東京大会組織委員会、日本体育協会、東京都の後援で製作したのが以下の音頭と愛唱歌で、1963年6月23日に発表されてレコード会社各社から競作で吹き込み発売された[36]。
これとは別に、日本ビクターが公募して日本体育協会、オリンピック東京大会組織委員会、東京都が選定し、日本体育協会、オリンピック東京大会組織委員会、東京都、文部省、日本放送協会 (NHK)、日本民間放送連盟(民放連)の後援で1962年5月8日に東京都体育館で日本ビクター主催「オリンピックの歌発表会」で発表されたのが以下の2曲である。
東京オリンピック開催を契機に、競技施設や日本国内の交通網の整備に多額の建設投資がなされ、競技を見る旅行需要が喚起され、テレビ放送を見るための受像機購入の飛躍的増加などの消費も増えたため、日本経済に「オリンピック景気」といわれる好景気をもたらした。
開催地の東京では、開催に向けて競技施設のみならず、帝都高速度交通営団・東京モノレール羽田空港線・首都高速道路・ホテルなど、様々なインフラストラクチャーの整備が行われ、都市間交通機関の中核として東京(首都圏)から名古屋(中京圏)を経由して、大阪(京阪神)に至る三大都市圏を結ぶ東海道新幹線も開会式9日前の10月1日に開業した。これらのほとんどは、現在に至るまで改良やメンテナンスを重ねながら利用されている。
開会式が行われた10月10日は、1966年(昭和41年)国民の祝日に制定され、以降「体育の日」として広く親しまれるようになった(2000年〈平成12年〉より10月の第2月曜日、2021年〈令和3年〉より「スポーツの日」となった)。それまで社会人のスポーツは見る物だったが、ママさんバレーに代表される参加するスポーツが盛んになり、公共のスポーツ施設が各地に造られていった。
東京オリンピックは、ベルリンオリンピックで初お目見えしたオリンピックのテレビ中継技術が格段に向上したことを印象づける大会となった。衛星放送技術を始め、カラー写真・小型のコンパクトカメラの開発などもその特徴である。当時初めてスローモーションの画像を使い、その後のスポーツ中継で欠かせない放送技術になった。
日本では1959年(昭和34年)のミッチー・ブーム以降テレビ受像機(白黒)の普及が急速に進み、1959年(昭和34年)に23.6%だった普及率は1964年(昭和39年)には87.8%に達した。当時非常に高価だったカラーテレビ受像機は、東京オリンピックを契機に各メーカーが宣伝に力を入れ始めた。
セイコー(現セイコーホールディングス)が初めてオリンピックの公式計時を担当した。セイコーは電子計時を採用、オリンピック史上初めて計測と順位に関してノートラブルを実現し、世界的な信頼を勝ち取ることに成功した。
市川崑が総監督を務めて制作された『東京オリンピック』のフィルムを新たなスタッフが再編集・再構成し、シナリオを執筆した作品。1966年5月15日公開。市川の『東京オリンピック』に比べ、実況を含んだ解説の流れる部分が多く、「記録映画」の色彩が濃いため、いわゆる「ドキュメンタリー」に分類されている。154分。
2013年8月にNHK総合テレビジョンで3部作として放送。
大会終了後、日本放送協会(NHK)から開会式や閉会式、ハイライトとなった競技のラジオ実況放送を収録した磁気録音テープが発売されると共に、その音源をもとに記録LPレコードやフォノシートが製作された。このNHKのマラソン実況放送の音源の一部(国立競技場に戻ってきた時の円谷幸吉とベイジル・ヒートリーのデッドヒート)が、ピンク・ピクルスの歌う「一人の道」の冒頭に使用されている。
東京オリンピック開催4ヶ月前の6月上旬、日本放送協会放送世論調査所(現・NHK放送文化研究所世論調査部)が東京と金沢市で事前の世論調査を行った。「オリンピックには大変な費用がかかるので、いろいろな点で国民に負担をかけ、犠牲を払わせている」(東京60.6%、金沢53.7%)、「オリンピック準備のために一般市民のかんじんなことがお留守になっている」(東京49%、金沢29%)、「オリンピックに多くの費用をかけるぐらいなら、今の日本でしなければいけないことはたくさんあるはずだ」(東京58.9%、金沢47.1%)、「オリンピックは結構だが、わたしには別になんの関係もない」(東京47.1%、金沢54.3%)など、圧倒的な国民の支持に熱狂的に迎えられていた訳ではなかった[40]。
日本放送協会放送世論調査所が昭和42年に刊行した「東京オリンピック」では、大会の開会まで政府や関係者が「吹けど踊らぬ国民」をいかに躍らせるかに苦心したさまを各紙の社説などの引用から克明に記し、次のように書き残している。 「実際、開会を目前にひかえて人々の正直な感情は、関係のないお祭りということであったろう。少なくとも開会式までは、その他の人びとにとっては、まったく関係のない出来事と映っていたとしても、無理からぬことであった」
もっとも大会直後の調査では、「オリンピックは日本にプラスだったか」の問いに、89.8%が「プラスだったと思う」と答えている。
空気を変えたのは、開催前年(1963年)から新聞社(全国紙)や総理府(現・内閣府)を中心に行われた「盛り上げキャンペーン」や聖火リレーなどのイベントに加えて、開幕後も技の魅力、興奮であり、自国開催のリアルタイムで複数競技が相互に関係しながら同時進行する、総合競技大会の魔力に国民がくぎ付けになったことがあげられる。大会終盤、日本が団体を制した体操男子は視聴率80%、「東洋の魔女」が優勝した女子バレーボールの決勝は85%を記録した[40][41]。
東京オリンピックの開催期間には、1964年(昭和39年)10月14日のソ連のニキータ・フルシチョフ首相解任、10月16日の中華人民共和国(後述のとおり本大会には不参加)による初の核実験など国際的事件が次々と起こった。これにより「瞬間的に世界の注目を奪われた面もある」と考えられる一方、冷戦下の世界情勢を反映する場として注視の的になるという面もあったようである。この大会はこれらの事件とともに世界史の一つの転換点であった。
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