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東京都港区の地名 ウィキペディアから
西麻布(にしあざぶ)は、東京都港区の町名。麻布地区総合支所管内に当たり、現行行政町名は西麻布一丁目から西麻布四丁目。郵便番号は106-0031(芝局管区)[3]。
町内にある西麻布交差点(霞町交差点)は六本木通り(東京都道412号霞ヶ関渋谷線)と外苑西通り(東京都道418号北品川四谷線)が交差し、道路案内でも頻出する地名である。また、西麻布交差点に設置されている六本木通りの陸橋は、旧地名の麻布霞町から「霞町陸橋」と命名されている。
江戸時代は農耕地、雑木林、町屋、大名および小名の下屋敷からなる街外れの閑散とした地域であった。明治から大正時代にかけ住宅街として形成され、この点は元麻布、南麻布も同様であるが中でも高台の麻布笄町(現:西麻布四丁目)は旧麻布区の中では麻布市兵衛町一丁目(現:六本木一丁目)、麻布今井町(現:六本木二丁目)、麻布三河台町の西側(現:六本木四丁目)、麻布六本木町の東南側(現:六本木五丁目)、麻布鳥居坂町(現:六本木五丁目)、麻布東鳥居坂町(現:六本木五丁目)、麻布永坂町(現:六本木五丁目、麻布永坂町)等に準じる山の手の高級住宅街として著名な存在となっていく。
第二次世界大戦後、1960年代初頭からは徐々に国際的な盛り場として変貌を遂げて行く六本木とは対照的に、未だ閑静な町並みを保っていた。しかし、1964年の東京オリンピック開催に伴う首都高速3号渋谷線の建設と重なるように、六本木通り沿いには雑居ビルやマンションが少しずつ目立ち始めるようになっていく。1969年には現在の富士フイルム西麻布ビル(旧本社ビル)が竣工し、周囲のランドマークとなった。
1967年に住居表示が実施されると、麻布霞町(現:西麻布一~三丁目)、麻布笄町(現:西麻布四丁目)などの町名が消滅し、「西麻布」に統一された[6]。
1970年6月23日、70年安保に抗議するデモ隊の通過点となり、西麻布では学生らが機動隊に向け火炎瓶の投擲や投石を行い一帯が騒然となることもあった[7]。
1970年代を通じて多くの民家がビルディングやマンションに取って代わられていくものの、隣接する広尾の地に広尾ガーデンヒルズが建ち並ぶような今日の西麻布の様相を現し始めるのは、1980年代後半からのバブル景気の時代である。
1985年10月、西麻布四丁目霞町交差点にアイスクリーム店ホブソンズが開店し、一大ブームとなった[8]。1990年、西麻布四丁目の外苑西通り沿いに建ったザ・ウォールの大規模なディスコは、西麻布二丁目のレッドシューズ(カフェバー)などと並び、週末は明け方まで騒ぎを起こす若者達で溢れた。FM局のJ-WAVEは開局当時より地元(当時)である西麻布のディスコ(クラブ)と連動するように、最新の流行や現地からの実況中継を行うほど熱心に情報を提供していた。1996年頃は西麻布イエローが同地のクラブシーンで人気を博した。バブル景気末期の1991年には、同じく外苑西通り沿いで西麻布三丁目のキャンティ西麻布店、ならびに高級焼肉店である叙々苑遊玄亭が開業した。
2000年になると、権八西麻布店が西麻布一丁目霞町交差点で開店。小泉 - ブッシュ会談やハリウッド映画「キル・ビル」のロケ地に利用された[9]。2005年、六本木の老舗ジョージスが西麻布一丁目に移転開業した。2013年にはEX THEATER ROPPONGIが開業。同施設のように、六本木六、七丁目に隣接する建造物や施設では西麻布にあっても「六本木」の名称が用いられる場合がある。
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[10]。
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