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日本の航空宇宙工学者 (1912-1999) ウィキペディアから
糸川 英夫(いとかわ ひでお、1912年7月20日[1] - 1999年2月21日)は、日本の工学者。専門は航空工学、宇宙工学。ペンシルロケットに始まるロケット開発や宇宙開発を先導し、「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれる。
糸川 英夫 | |
---|---|
1961年撮影 | |
生誕 |
1912年7月20日[1] 東京市麻布区(現・港区西麻布) |
死没 |
1999年2月21日(86歳没) 長野県小県郡丸子町(現・上田市) |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 航空宇宙工学 |
研究機関 |
中島飛行機 東京帝国大学第二工学部 東京帝国大学航空研究所 東京大学生産技術研究所 東京大学宇宙航空研究所 |
出身校 | 東京帝国大学工学部 |
プロジェクト:人物伝 |
1912年、東京市麻布区(現在の東京都港区西麻布)で生まれる[2]。小学校では六本木、中学校からは東京青山に育った。教育者の家庭であり父は麻布の笄小学校の教師であった。英夫という名は、1912年の東大銀時計卒業者(首席)の鳩山秀夫にちなみ、秀才好きの父に命名された[3]。越境入学で麻布の南山小学校に学び飛び級で卒業した。
第一東京市立中、旧制東京高校(現在の東京大学教育学部附属中等教育学校)理科甲類を経て、1935年、東京帝国大学工学部航空学科を卒業。中学は首席で卒業、高校では3年間学級総代をした[注釈 1]。中学ではバスケットボール部に所属し、高校では音楽部の委員をした。中学5年の学校紛擾では起こした側で全校を巻き込んだ。高校でも紛擾が頻発し学級総代としてスト派・不参加派の間で苦しんだ。航空学科を選んだのは、兄の糸川一郎(東大工学部土木科卒)に「東大でいちばん入試の難しいところはどこですか」と訊いた時、「そりゃお前、航空学科だよ。9人しか入れないし、毎年、各高等学校のナンバーワンがやってくるんだ」と言われたことが理由であった[4]。中島飛行機に入社し、帝国陸軍の九七式戦闘機、一式戦闘機 隼、二式単座戦闘機 鍾馗などの設計に関わった。また、独力でジェットエンジンを研究・開発。しかし実験段階では多くの批判をあびた。1941年11月、飛行機会社技師として陸軍の命令のままに動かされることに疑問を感じ[5]、そのような制約のない軍事技術開発を中心に扱った千葉県千葉市にあった東京帝国大学第二工学部助教授に就任。1948年、同教授。1949年 東京大学 工学博士。論文の題は「音響イムピーダンスに依る微小変異測定法に関する研究 」[6]。
1954年2月、東京大学生産技術研究所内にAVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics:アヴィオニクスと、超音速の空気力学)研究班を組織した。この1950年代の中頃に糸川が語った構想の詳細については#エピソードの節を参照。糸川はロケットに全く乗り気でない国や企業を口説いて回った。1955年、AVSA研究班はSR研究班に改組した。1955年3月には東京都の国分寺市で、さらに同年6月には千葉県千葉市の東京大学生産技術研究所でグループはペンシルロケットの水平発射実験を行い、また同年8月からは秋田県の道川海岸で飛翔実験を行った。同月ベビーロケットを発射。1956年、カッパロケットを発射。以後1960年代はラムダロケット、ミューロケット、おおすみなどに関わった。
1956年、日本ロケット協会を創立し、初代代表幹事に就任した。
1967年、東大を退官し組織工学研究所を設立。これを機に宇宙開発の前線から去った。退官を決めた理由は、ラムダロケット(L-4S)打ち上げの失敗が相次いだことや喧伝されていた成果が実際よりも過大であったこと(ラムダロケット#成果の曖昧さを参照)を国会や新聞が追求したため、自身が辞任することで宇宙開発に支障をきたさないようにするためであるとされる。一方、友人の桶谷繁雄は、東大方式の人工衛星打ち上げに否定的であった朝日新聞が糸川は研究費を誤魔化し妾を囲っているなどの誹謗記事を掲載し、税金の無駄であると連日書き立て嫌気がさしたためと述べている[7]。
著書『逆転の発想』はベストセラーになる。1975年、ライターグループ「未来捜査局」と共に、日本の将来(20年後の1990年代)を予測した小説『ケースD ―見えない洪水―』を発表(「D」は“最悪のパターン”を意味する)。
1975年から1983年まで日本BCL連盟の会長職を引受け、情報誌の月刊短波の発行人を務めていた。シカゴ大学の客員教授、ポンゼショセ(ENPC)の教授(パリ)なども歴任した。長野県小県郡丸子町(現在の上田市)に移り住んだ。1972年、紫綬褒章受章[8]。 1999年2月21日に多発性脳梗塞のため、丸子町内の病院で死去[9]。86歳没。叙正四位[10]。5月、砂漠に埋葬。
2006年、東京都国分寺市(早稲田実業学校校門前の敷地)に「日本の宇宙開発発祥の地記念碑」が建立された。糸川英夫のペンシルロケットの実験から50周年を記念したもので、記念碑はペンシルロケットの形をイメージした1.3mのもの。実験をする糸川の姿が刻まれている[注釈 2][11][12]。2003年、小惑星 25143 が糸川の名にちなんでイトカワと命名された[13]。この小惑星が「イトカワ」と命名されたのは、日本の探査機はやぶさが打ち上げられて(命名されて)三ヶ月後で、探査機がこの小惑星を探査する事が決定した後のことである。イトカワには探査機はやぶさが訪れ、調査とサンプルリターンを行った。糸川の名前がつけられた小惑星に、糸川が開発に関係した戦闘機(隼)と同名の探査機が着陸したことになる。2010年にはやぶさは地球に帰還した。
2012年には、生誕100周年を記念し内之浦宇宙空間観測所内に銅像が建立され除幕式が行われた。
バレエ・占星術・チェロ・ヴァイオリンなど様々なことに興味を持った。60歳の時、貝谷バレエ團に入団した。小中では科学工作を良くした。中学ではシェークスピア・ギリシア哲学・演劇にも熱中した。特に音楽は幼少期から夢中になった。戦後GHQによって航空機・宇宙機の研究の一切が制限されていた時は代わりに趣味でもあったヴァイオリンの研究を行い、ヴァイオリン1挺を約半世紀掛けて作った。音響工学的な見地に基き長い年を経て調整されたこのヴァイオリンは、ヴァイオリニストのユーディ・メニューインが来日した時に糸川が彼の元に持参して弾いてもらい、「E線の音が、よく出るね」という感想を受けている。高校でチェロを始め、就職するときに太田に持参した。戦後は松下修也に、約50年間に亘り学んだ[14]。レッスンは月2回であった。1996年には自身の84歳の誕生日に小県郡丸子町の信州国際音楽村で、「海の日記念コンサート」を企画、松下修也と篠崎みどり桐朋音楽大学教授(ピアノ)らが競演した。自分の誕生日が新たに祭日になったのを記念する意味も込めたコンサートであると語る[注釈 3]。高校時代に習得した麻雀は中島飛行機時代に活かされた。中島飛行機時代にはゴルフも習得している。
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