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畿内に属する令制国の一つ ウィキペディアから
摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。近畿地方に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。
瀬戸内海航路の起点で、淀川・大和川水系との結節点でもあり国内流通の中心である難波津や住吉津があり津国(つのくに)と呼ばれた。
第14代仲哀天皇9年、神功皇后が三韓征伐より七道の浜(現在の大阪府堺市堺区七道、南海本線七道駅一帯)(現在の大阪市の当時住吉郡)に帰還した時、神功皇后への神託により天火明命の流れを汲む一族で摂津国住吉郡の豪族の田裳見宿禰が、住吉三神を祀る(住吉大社の始まり)。
神武天皇は即位前、上町台地先端周辺の難波埼(なにわさき)に生國魂神社を創建。弥生時代後期〜古墳時代、応神天皇の行宮難波大隈宮(なにわのおおすみのみや)。大王 (おおきみ)と呼称された倭国の首長で河内王朝の始祖である仁徳天皇は上町台地の先端周辺、難波高津宮(なにわのたかつのみや)を皇居とした。国内流通の中心である難波津や住吉津が開港され倭国が統一していった時代とされる。
593年、日本の仏教の祖である推古天皇の摂政聖徳太子は難波の荒陸に四天王寺を造立した。
645年に孝徳天皇は再び難波に遷都し、大化の改新と呼ばれる新政はこの地で行なわれた。652年、大王と呼称された倭国の首長で河内王朝の始祖である仁徳天皇の難波高津宮跡地周辺に日本の最初の首都である難波宮(前期難波宮=難波長柄豊崎宮)が完成した。孝徳天皇の後、都は飛鳥に戻ったが、壬申の乱に勝利した天武天皇は、畿内の外港を抱える要地難波宮を副都とし、国司を置く代わりに、津国を摂(管掌)する機関として特に摂津職(せっつしき)を置いた。摂津職は京官とされ、大夫・亮・進・属の四等官で構成された。
前期難波宮は天武期に焼失したが、神亀3年(726年)、聖武天皇が難波宮(後期難波宮)の造営に着手し、平城京の副都とした。天平16年(744年)には恭仁京から難波京への遷都が実施された。聖武天皇は遷都の翌年再び平城京に遷ったが、その後も難波は副都として維持された。しかし、桓武朝の長岡京遷都に伴って難波宮が解体され、副都の実は失われたため、延暦12年(793年)3月9日に摂津職を廃し、新たに摂津国を置いた。前身の摂津職から引き継いで「摂」の字を冠し、「せっつのくに」とも呼び、また元の津国の訓みそのままに「つのくに」とも呼んだ。
難波津も土砂の堆積が進み、その機能は淀川分流にある神崎や江口などに移っていった。
清和源氏の祖・源経基の子・満仲は摂津守に任ぜられて河辺郡多田荘に館を構え、またその長子・頼光も摂津守に就き、子孫が所領を継承して摂津源氏と称した。頼光四天王の筆頭に挙げられる嵯峨源氏の源綱は、源満仲の娘婿・源敦(仁明源氏)の養子となり、母方の里である渡辺に居住し、渡辺氏の祖となった。
平安時代末期、日宋貿易を重視した平清盛は大輪田泊(神戸市兵庫区)に着目し、湊の前面に人工島(経が島)を築いて安全な碇泊地を設けようと、私費を投じて修築工事を行なった。仁安3年(1168年)、清盛は出家して福原(神戸市中央区から兵庫区)に別荘をかまえ、以来ここに住んで周辺一帯を経営した。治承4年(1180年)、清盛は大輪田泊を見下ろす山麓に福原京を築き、平安京からの遷都を強行した。しかし、11月には京に還都となった。
鎌倉時代に入ると、東大寺の重源が中絶していた大輪田泊の修築事業に乗り出し、やがて兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれて国内第一の港として発展し、室町時代には日明貿易の拠点となった。
室町時代、摂津の守護職は管領細川氏が世襲した。ただし、細川氏を牽制する意図から室町幕府は国内各地に分郡守護を設置した。このため、室町時代初期(南北朝合一を果たした明徳年間前後)に細川氏の安定した支配が確立していた今日の千里丘陵より東側の地域(島上郡・島下郡のほぼ全域)を上郡(かみのこおり)と総称された。その後、応永年間までに千里丘陵以西の摂津平野部を掌握した細川氏は豊島郡・川辺郡南部・武庫郡・菟原郡・八部郡を下郡(しものこおり)と称した。ただし、上郡・下郡は本来の郡境と全く合致したものではなく、有馬郡においては播磨守護赤松氏が分郡守護となって一族の有馬氏が支配しており、川辺郡北部や能勢郡は清和源氏ゆかりの多田院に与えられていた(多田院御家人)が後に同地の国人・奉公衆であった能勢氏は細川氏の傘下に加わっている。そして、神崎川以南の西成・東成・住吉の3郡(ほぼ現在の大阪市域)別に分郡守護が置かれて細川氏の支配から欠けていたため、欠郡(かけのこおり)と総称された。欠郡は嘉吉の乱後に細川氏の支配下に入るが守護家である宗家(京兆家)ではなく、庶流である典厩家が支配するなど異なる支配体制が取られた[1]。なお、有馬郡も天文年間に赤松氏宗家が衰退すると、有馬氏が細川氏(実質は下郡の守護代であった三好氏)の傘下に入ることになる[2]。
古代の摂津国内には、難波長柄豊碕宮・難波宮(難波京)等、度々天皇の住居(宮)が構えられている(「皇居#歴代の皇居」参照)。
国府所在地を記した文献は次の通り。
一方、史書からは次のように推定される。
多田院の境内に「惣社六所権現」という神社があったが、これは同地の荘園の惣社とされている。
坐摩神社(大阪市中央区)は「全国一の宮会」に加盟しており、近世以降こちらも一宮と呼ばれるようになっているが、社勢は住吉大社に及ばなかったとされる。二宮以下も不詳である。
場所は不明だが、国衙の近くという説がある。
摂津国の五山十刹制度の諸山(五山・十刹に次ぐ「諸山」格の幕府公認禅宗寺院。官寺)
摂津国の範囲は、概ね現在の大阪府淀川以北および大阪市域と尼崎市から神戸市・三田市に至る兵庫県南東部に当る。南に和泉国、東に河内国・山城国、北に丹波国、西に播磨国とそれぞれ接する。摂津・河内・和泉三国の国境は、現在の堺市の方違神社(三国山・三国丘)にあったが、明治4年(1871年)に和泉との国境は堺大小路から大和川に改められ、一部が和泉に編入された。
易林本の『節用集』に摂津は「南暖北寒、故五穀先熟、魚鹽繁、大上國也」と記されており、農漁業が盛んで豊かな地勢であったことが分かる。
島上郡と島下郡は古代三島郡が大宝元年(701年)に分割されて設置された。明治29年(1896年)に再統合。
明治期の改廃
大阪府
※以下は明治4年(1871年)まで摂津国に属した。
※以下は明治7年(1874年)まで摂津国に属した。
※以下は明治35年に河内国より編入。
兵庫県
摂津大夫
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摂津守
鎌倉幕府
室町幕府
戦国時代
織豊期
江戸時代の藩
織豊期以前
江戸時代
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