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奈良時代の貴族 ウィキペディアから
聖武朝の天平勝宝4年(752年)従五位下・下野守に叙任される。
淳仁朝の天平宝字7年(763年)内蔵助・造宮少輔と一時的に京官を務めるが、天平宝字8年(764年)紀伊守に任ぜられ再び地方官に転じる。同年に発生した藤原仲麻呂の乱での動静は明らかでないが、翌天平神護元年(765年)従五位上・右衛士督に叙任されている。
同年10月の称徳天皇の紀伊国への行幸に際して、紀伊の諸官人は叙位を受けたが、国守として小贄は正五位下に叙せられた[1]。また、行幸の帰途に際しても和泉国日根郡の深日行宮まで同行するが、天候が悪化したために小贄は一行と別れて紀伊に戻り、この際に称徳天皇から紬30疋と綿200屯を賜与されている[2]。
神護景雲3年(769年)中務大輔に任じられるが、翌神護景雲4年(770年)大宰少貳、宝亀2年(771年)摂津大夫とみたび地方官を歴任した。
『続日本紀』による。
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