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日本の貴族・政治家 ウィキペディアから
大中臣 清麻呂(おおなかとみ の きよまろ)は、奈良時代の公卿・歌人。名は清万呂・浄万呂とも書く。姓は中臣朝臣のち大中臣朝臣。中納言・中臣意美麻呂の七男。官位は正二位・右大臣。
三河掾・式部大丞・神祇大祐・神祇少副などを経て、天平15年(743年)従五位下・神祇大副に叙任される。聖武朝末の天平19年(747年)尾張守として地方官に転じるが、孝謙朝に入り天平勝宝3年(751年)従五位上に叙せられ、天平勝宝6年(754年)神祇大副に還任し次いで左中弁に任ぜられた。
その後は、天平勝宝9歳(757年)正五位下、天平宝字3年(759年)正五位上と藤原仲麻呂政権下において順調に昇進し、天平宝字6年(762年)正月に従四位下叙せられると、同年12月には仲麻呂の子である訓儒麻呂・朝狩と共に参議に叙任され公卿に列した。また同年8月には、藤原訓儒麻呂・上道正道らと共に中宮院に侍して淳仁天皇の勅旨の宣布・伝達する任務を務めた[1]。翌天平宝字7年(763年)左大弁・摂津大夫を兼ね、天平宝字8年(764年)正月には従四位上に任ぜられる。
しかし、同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱においては、孝謙上皇側について正四位下に昇叙され、翌天平神護元年(765年)には勲四等の叙勲を受ける。また同年称徳天皇重祚後の大嘗会に神祇伯として供奉したが、幾度にも亘り神祇官の官人を務め、清廉で勤勉であることを天皇より賞され[2]、従三位に叙せられている。
称徳朝から光仁朝にかけても、神護景雲2年(768年)中納言、神護景雲4年(770年)正三位・大納言と引き続き昇進を続け、宝亀2年(771年)には左大臣・藤原永手の薨去や右大臣・吉備真備の致仕に伴い、従二位・右大臣に叙任されて、以後宝亀11年(780年)末まで太政官の首班を占めた。なお、宝亀2年(771年)皇太子・他戸親王の東宮傅となるも、翌宝亀3年(772年)他戸親王が皇太子を廃されたために東宮傅を免ぜられる。しかし、宝亀4年(773年)に今度は山部親王(のち桓武天皇)が立太子すると再び東宮傅に還任された。また、この間の神護景雲3年(769年)中臣朝臣から大中臣朝臣姓に改姓している。
宝亀3年(772年)正二位。天応元年(781年)桓武天皇の即位後間もなく致仕を許され、延暦7年(788年)7月28日薨去。享年87。最終官位は前右大臣正二位。
国家の昔のことをよく知っている老臣であり、朝廷の儀式について多くを諳んじかつ熟練していた。高位の官職にあって政務を見るにあたって、年老いても精勤で怠ることがなかったという[2]。
当時としては異例の87歳という長寿を保ち、文武朝から桓武朝の九朝に亘って生き、聖武朝から桓武朝の六朝に仕えた。
歌人として『万葉集』に5首が採録されている。
注記のないものは『続日本紀』による。
「中臣氏系図」(『群書類従』巻62所収)による。
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