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戦国時代から安土桃山時代の武将 ウィキペディアから
中川 清秀(なかがわ きよひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
本姓は源氏。家系は清和源氏嫡流摂津源氏の流れを汲む多田行綱の子・明綱(あるいは河内源氏傍系石川源氏)の後裔と称した。子に秀政、秀成、池田輝政先室(池田利隆母)・糸姫。妹は古田重然(織部)の正室。
中川氏は摂津国の小さな武士だったが清秀は優れた武勇で立身し、中川の家を最大で12万石を領する大名家へ導いた。その武勇は鬼瀬兵衛と讃えられた。
天文11年(1542年)、摂津国旧福井村中河原(現:大阪府茨木市)で生まれた[1](『寛政重修諸家譜』は山城国で生まれたとする[2])。父は中川重清、母は中川清村の娘[3][注釈 1]。幼名は虎之助。通称は瀬兵衛[2](せひょうえ)。
はじめ摂津の国人であった池田勝正に属し[2]、織田信長が上洛してくるとそれに従った。
元亀元年1月(1569年)、本圀寺の変では摂津衆として明智光秀に加勢し、5日に桂川で三好三人衆と戦うも敗走。清秀の提案により、6日早朝に奇襲を掛ける。三好三人衆は不意を突かれ敗走、清秀は執拗に追撃し三好方に多大な被害を与えた。
後に主家の池田氏で内紛が起こり、勝正が追放され池田知正が当主となると一時信長と敵対する。元亀2年(1571年)8月、同じく池田氏の部将・荒木村重と共同して織田方の和田惟政を敗死させた[4](白井河原の戦い)。戦後はこの戦いで滅んだ茨木氏の居城であった茨木城の城主となった[注釈 2]。
摂津の和田氏や茨木氏、伊丹氏、池田氏が相次いで衰退・没落すると、村重や高山右近と共に摂津にて独立勢力となる。後に信長が村重を摂津の国主に据えると清秀もそれに従った。旧領を合わせて4万400石を領した[2]。
天正6年(1578年)10月、村重が信長に対して反旗を翻すと[5](有岡城の戦い)、共に信長に敵対した。同年11月、織田勢に茨木城を包囲され、降伏した[6]。その後は、丹羽長秀や池田恒興の旗下で転戦する。
天正10年(1582年)、本能寺の変後は羽柴秀吉につき、右近と共に山崎の戦いで先鋒を務めた[1]。清秀は3,000の兵を率いて参戦し、天王山占領では兵600を派遣している。松田政近が攻め寄せた際は堀尾吉晴と共に鉄砲隊で迎撃している。敵将・三牧三左衛門某や伊勢貞興を討ち取った[2]。しかし相次ぐ戦いで疲弊し、追撃戦には参戦できなかった。
天正11年(1583年)4月20日、賤ヶ岳の合戦で戦死した[7][2]。42歳[2]。清秀は大岩山砦を守備していたところ、同日早朝、柴田勝家方の佐久間盛政が急襲した[7][2]。応戦し、余呉湖岸まで押し返すが力尽きた[7]。
行誉荘岳浄光院と号す[2]。墓所は、梅林寺(現・大阪府茨木市)[1]、大岩山砦跡[2](現・滋賀県長浜市)[7]。
家督は長男の秀政が相続、秀吉から清秀の功をから13万石に加増され、重用されたが、朝鮮出兵にて鷹狩の最中に戦死したため改易を恐れた家臣達がこれを隠蔽したことに秀吉から激怒され、播磨6万石に減封される。次男の秀成は関ヶ原の戦いで東軍に付き、戦後豊後岡藩初代藩主となり、中川家は藩主として幕末まで存続した。なお、秀成は秀吉の命令によって父・清秀を討った佐久間盛政の娘を娶ることになった。
『中川氏年譜(付録)』によると天正8年(1580年)の内誓紙がある。
秀吉と御取遣の内誓紙
公儀無御疎略体、中々無申計候条、向後兄弟之契約申定候、然者本知之儀者不及申、
河内国、摂津国、かけの郡之儀申上可進之候。
如斯申談上者聊以表裏抜公事有之間敷候者也。
右之旨若偽於有之者、忝日本国中、大小之神祇、八幡大菩薩、愛宏、白山御罰可罷蒙者也。
仍如件。
六月五日
羽柴藤吉郎
中川瀬兵衛 殿 — 中川氏年譜
これにより秀吉と清秀は兄弟の契りを結んだことになり、両者の親密さをうかがわせる。
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