余呉湖
日本の滋賀県長浜市にある湖 ウィキペディアから
余呉湖(よごこ、よごのうみ[1])は、滋賀県長浜市にある湖。「大江」(琵琶湖)に対して「伊香小江(いかごのおえ)[1]」と称されたほか、湖面が穏やかなことから「鏡湖」とも呼ばれる[2][3]。

国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
概要
琵琶湖の北側に位置し、琵琶湖とは賤ヶ岳(標高422m)で隔てられている[1][2]。東西1.2キロメートル (0.9km[1])、南北2.3キロメートル (1.8km[1])[4]、周囲6.4キロメートル(6.2km[5])、面積1.97平方キロメートル、最大水深13.5メートル(14.5m[4]、13.0m[5])、平均水深7.4メートル[3][6]。総貯水量1470万立方メートル[5]。水面の標高は133メートル (132.8m) で、琵琶湖よりおよそ50メートル(約47.0m[5])高い位置にある[3][6]。琵琶湖と同じ断層湖で、形成は約100-200万年前と見られ、古い琵琶湖の一部であったものが約3万年前に分かれたとされる[6]。
余呉湖にはイワトコナマズ(余呉湖・琵琶湖にのみ生息)、ワカサギ、フナ、コイ、ウナギ、ナマズ、テリブナなどの魚類が生息する[2][7]。冬季はワカサギ釣りが行われるほか、多くの水鳥も飛来する[2][7]。近年は外来魚の生態系への影響が問題になっている。オオクチバスおよびブルーギルの捕獲駆除量は年間2トン前後となり、今後の駆除方法が模索されている[8]。
治水・開発
- 安土桃山時代(1573-1603年) : もともとは閉鎖湖であったが、湖の氾濫防止のための排水路として、北東部に江土川(現在の高田川)が掘削される[9]。
- 1956年(昭和31年)-1959年(昭和34年) : 余呉川総合開発事業の一環として、周辺地域の洪水対策と用水確保のため、湖の北東を流れる余呉川から余呉湖までの導水路を開削、並びに湖東岸から余呉川への放水路トンネルが掘削される[9][10][11]。
- 1964年(昭和39年)-1969年(昭和44年) : 湖北地方への水供給安定化のため、琵琶湖からの揚水トンネルが造られる[9][11]。
- 1971年(昭和46年)- : 滋賀県の余呉湖総合開発事業により、湖周辺に国民宿舎、野外活動センター、湖岸緑地、遊歩道などが造られる[9][11]。
浄化
- 1975年(昭和50年)- : 赤潮が発生するようになったため[12]、富栄養化対策が行われている[7]。
- 1988年(昭和63年)- : 周辺集落の農業集落排水処理施設を整備し、以前は各戸から個別に排出されていた生活排水を、処理場に集めて一括浄化して放水するようになる[13]。
- 1993年(平成5年)- : 余呉湖水質保全対策事業により、湖内に間欠式空気揚水筒を設置(1993年〈平成5年〉に2基稼働、1996年〈平成8年〉に3基稼働)[13]。低層水を持ち上げて循環させ、低層水の無酸素状態を解消し、植物プランクトンの異常増殖を抑制する[13]。
- 2002年(平成14年) - : 深層曝気装置を設置[13]。湖底近くにコンプレッサーで送気し、湖水の上昇・下降や横への広がりにより、深層水の酸素を増やし、アオコの増殖を防ぐ[13]。
伝説
→「近江国風土記 § 余呉湖の羽衣伝説」も参照
JR余呉駅に近い湖北岸には、羽衣伝説で天女が羽衣を掛けたといわれる「天女の衣掛柳」があったが[3][14]、2017年〈平成29年〉10月、台風により倒壊[15]。日本最古の天女伝説の地といわれ、ほかの地域の羽衣伝説では、羽衣を掛けるのは松や岩などが多いが、余呉では柳といわれている[3]。なお、2017年(平成29年)に倒壊した柳(マルバヤナギ[14])は[16]、伝説にまつわる北野神社から移植された2代目であった[7]。
湖に入水した菊石姫の龍伝説もあり、菊石の投げた龍の目玉の跡がついたという「目玉石」があるほか[17]、付近には蛇身の菊石姫が休んだといわれる「蛇の枕石」も知られる[18]。
余呉の詩歌
衣手に余呉の浦風さえさえて己高山(こだかみやま)に雪降りにけり (源頼綱 「近江百人一首」『金葉和歌集』)[1][19]
交通アクセス
余呉湖の風景
![]() |
![]() | ||
北から望む余呉湖 | 北の緑地から望む余呉湖 | 南から望む余呉湖 | 賎ヶ岳から望む余呉湖と横山岳 |
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.