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奈良県斑鳩町にある仏教寺院 ウィキペディアから
法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内にある聖徳宗の総本山の寺院。山号はなし。本尊は釈迦如来。創建当時は斑鳩寺(鵤寺 = いかるがでら)と称し、後に法隆寺となった。法隆学問寺としても知られる[1]。
法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートル。西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物群である[2]。
法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年(平成5年)に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。
法隆寺がある斑鳩の地は、生駒山地の南端近くに位置し、大和川を通じて大和国(現・奈良県)と河内国(現・大阪府南部)とを結ぶ交通の要衝であった。付近には藤ノ木古墳をはじめとする多くの古墳や古墳時代の遺跡が存在し、この地が古くから一つの文化圏を形成していたことをうかがわせる[3]。
『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。明治時代の半ば(19世紀末頃)まで、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来1度も火災に遭わず、推古朝に聖徳太子の建立したものがそのまま残っていると信じられていた。しかし、『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したという記事のあることから、現存する法隆寺の伽藍は火災で1度失われた後に再建されたものではないかという意見(再建論)が1887年(明治20年)頃から出されるようになった(菅政友、黒川真頼、小杉榲邨ら)。これに対し、『書紀』の記載は信用できず、西院伽藍は推古朝以来焼けていないと主張する学者たちもおり(平子鐸嶺、関野貞ら)、両者の論争(法隆寺再建・非再建論争)はその後数十年間続いた(論争の詳細については後述)[4][5]。
石田茂作らによる1939年(昭和14年)の旧伽藍(いわゆる若草伽藍)の発掘調査以降、現存の法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時の建築ではなく、1度焼亡した後に再建されたものであることが決定的となり、再建・非再建論争には終止符が打たれた。現存の西院伽藍については、持統7年(693年)に法隆寺で仁王会が行われている(『法隆寺資財帳』)ことから、少なくとも伽藍の中心である金堂はこの頃までに完成していたとみられる。同じく『資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成しているので、この頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していたとみられる[6][7][8]。
現・西院伽藍の南東に位置する若草伽藍跡が焼失した創建法隆寺の跡であり、この伽藍が推古朝の建立であったことは、発掘調査の結果や出土瓦の年代等から定説となっている[9]。また、1939年(昭和14年)、東院の建物修理工事中に地下から掘立柱建物の跡が検出され、これが斑鳩宮の一部であると推定されている[10]。
聖徳太子の実像については、20世紀末頃から再検討がなされており、『書紀』などが伝える聖徳太子の事績はことごとく捏造であるとする主張もある。ただし、こうした聖徳太子非実在論に対しては根強い反論もある。また、聖徳太子非実在論説を唱える大山誠一も、厩戸皇子という皇族の存在と、その人物が斑鳩寺(創建法隆寺)を建立したことまでは否定していない[11]。
金堂の「東の間」に安置される銅造薬師如来坐像(国宝)の光背銘には「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。しかし、正史である『日本書紀』には(前述および後述の670年の火災の記事はあるが)法隆寺の創建については何も書かれていない。
前述の金堂薬師如来像については、1933年(昭和8年)、福山敏男により、
という疑問が提出された。この説はおおむね支持を得ており、薬師像は文字通り607年まで遡る製作とは見なされていない。また、金堂の中央に安置される本尊は「623年に聖徳太子の冥福のため止利が造った」という内容の光背銘を持つ釈迦三尊像であり、これより古い薬師如来像が「東の間」に安置されて脇仏のような扱いをされている点も不審である[5]。
皇極天皇2年(643年)、蘇我入鹿が山背大兄王を襲った際に斑鳩宮は焼失したが、法隆寺はこの時は無事だったと考えられる。
なお、八角堂の夢殿を中心とする東院伽藍は、天平11年(739年)、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立したものである。
養老2年(718年)に県犬養橘三千代(橘夫人)が西円堂を建立したとする伝承がある。また、娘の光明皇后が多額の寄進を行い、孫娘の橘古那可智(聖武天皇夫人)の居所が寄進されて伝法院になったのも、彼女たちの法隆寺への信仰も三千代の影響と考えられる[12]。
その後、聖徳太子の弟来目皇子の子孫と伝えられる登美氏の支配下に置かれていたが、平安時代初頭には登美氏からの自立への動きが強まった。この過程で法隆寺側と登美氏との間で発生したのが、善愷訴訟事件である。
延長3年(925年)には西院伽藍のうち大講堂、鐘楼が焼失し、大講堂が再建されたのは数十年後の正暦元年(990年)のことであった。以後、永享7年(1435年)に南大門が焼失するなど、何度かの火災に遭ってはいるが、全山を焼失するような大火災には遭っておらず、建築、仏像をはじめ各時代の多くの文化財を今日に伝えている。
近世に入って、慶長年間(17世紀初頭)には豊臣秀頼によって、元禄 - 宝永年間(17世紀末 - 18世紀初頭)には江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院によって伽藍の修造が行われた。
明治時代になると神仏分離が行われ、鎮守社であった龍田明神(現・龍田神社)と天満宮(現・斑鳩神社)が法隆寺から独立している。1869年(明治2年)には天満宮に法隆寺境内にあった総社明神、五所明神、白山権現が移された。
しかし、廃仏毀釈の影響で寺の維持が困難となると、1878年(明治11年)には管長千早定朝の決断で、聖徳太子画像(唐本御影、いわゆる聖徳太子二王子像)をはじめとする300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された[2]。これらの宝物は「法隆寺献納宝物」と呼ばれ、その大部分は現在、東京国立博物館の法隆寺宝物館で保管されている。
明治の初め頃には真言宗に所属するようになっていたが、1882年(明治15年)には興福寺と共に法相宗として独立する。
1934年(昭和9年)から「昭和の大修理」が開始され、金堂、五重塔をはじめとする諸堂宇の修理が行われた。この間、1936年(昭和11年)2月21日には、河内大和地震により金堂の基壇に亀裂が入るなどの被害が生じている[19]。
「昭和の大修理」は第二次世界大戦を挿んで半世紀あまり続き、1985年(昭和60年)に至ってようやく完成記念法要が行われた。この間、1949年(昭和24年)には修理解体中の金堂において火災が発生し、金堂初層内部の柱と壁画を焼損した。このことがきっかけとなって、文化財保護法が制定されたことはよく知られる。昭和の大修理の際に裏山に築堤(ちくてい)して貯水池を建設、そこから境内に地下配管して自然水利による消火栓を建設した。1949年(昭和24年)の金堂火災に際して、初期消火に活用された。
1950年(昭和25年)に法相宗から独立し、聖徳宗を設立している。
1981年(昭和56年)からは「昭和資財帳調査」として、寺内の膨大な文化財の再調査が実施され、多くの新発見があった。調査の成果は『法隆寺の至宝-昭和資財帳』として小学館から刊行されている。
明治時代の半ば(19世紀末頃)まで、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来一度も火災に遭っておらず、飛鳥時代に聖徳太子の建立したものがそのまま残っていると信じられていた。しかし、歴史学や建築史学の進歩とともに、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建されたものではないかという意見(再建論)が1887年(明治20年)頃から出されるようになった[20]。
焼失と再建が疑われる時代には壬申の乱という大きな内乱が起きており、第38代天智天皇の息子である第39代弘文天皇の朝廷が天智天皇の弟とされる大海人皇子に敗北し、大海人皇子が第40代天皇になっている。その大海人皇子は鮮卑の建てた北魏(帝国)の文化の影響を大きく受けていた人物であるという説もある[21]。
『日本書紀』天智天皇9年(670年)4月30日条には「夜半之後、災法隆寺、一屋無余」(夜半之後(あかつき)、法隆寺に災(ひつ)けり、一屋(ひとつのいえ)も余ること無し)との記述があり、これを信じるならば、法隆寺の伽藍は670年に一度焼失し、現存する西院伽藍はそれ以後の再建ということになる。最初に再建論を唱えたのは旧水戸藩士で歴史家の菅政友とされ、黒川真頼(国学者・東京帝国大学教授)は天智9年(670年)4月に創建法隆寺は焼亡し、現在の西院伽藍は和銅年間(708年 - 715年)に再建したものという説を唱えた[22]。小杉榲邨(国学者)も明治20年代に再建論を唱えている。一方、『書紀』の当該記述は信用できないとして、現存する西院伽藍は推古朝のもので、焼けてはいないとの主張(非再建論)が関野貞(建築史家)と平子鐸嶺(美術史家)により、1905年(明治38年)に相次いで発表された。建築史の研究者である関野は、建築様式や建築に用いた尺度などの観点から、西院伽藍は推古朝のものであるとした。関野によると、法隆寺西院伽藍の建築には、古い尺度である高麗尺が使用されているが、大化元年(645年)を境として以後は唐尺が使用されるようになった。したがって、西院伽藍は大化以前のものでなければならないとする。平子は「干支一運錯簡説」を唱えた。『書紀』は干支による紀年法を採用しているが、干支は60年で一巡するため、『書紀』の法隆寺火災の記事は実年代から60年ずれているとする説である。『聖徳太子伝補闕記』(ふけつき)という書物に「庚午年四月三十日夜半有災斑鳩寺」という記載があるが、平子はこの「庚午」を西暦670年ではなく聖徳太子在世中の610年のことであるとし、『書紀』の編者は、推古天皇18年(610年)の庚午年に起きた火災の話を誤って60年後の天智9年(670年)の庚午年の条に入れてしまった。また、610年の火災は小規模なもので、現存する西院伽藍は推古朝から焼けていないと主張した[23][24]。
これにただちに反論したのが歴史家の喜田貞吉である。喜田は、焼失した伽藍が元の礎石を用いて再建されたのなら、尺度も古い高麗尺が使われているのは当然だとして関野説を批判した。平子説については、『補闕記』には信用できない記述が多く、これをもって『書紀』の670年法隆寺火災の記事を否定することはできないとして、これをも退けた。こうした再建論者・非再建論者の論争(法隆寺再建非再建論争)は昭和期まで続いた[25]。
昭和期になると、関野貞、足立康らが「二寺説」あるいは「新非再建論」と呼ばれる新説を唱える。関野は従来の自説を改め、「二寺説」を発表した。法隆寺の境内、現・西院伽藍の南東に位置する空地には「若草伽藍跡」あるいは「若草寺跡」と呼ばれる場所があり、塔跡の古い礎石が残されていた。関野は、用明天皇のために造られた薬師如来を本尊とする伽藍(西院伽藍)と、聖徳太子のために造られた釈迦如来を本尊とする伽藍(若草伽藍)とは別の寺であり、670年に焼けたのは後者であるとした。二寺説は、古くは北畠治房(法隆寺村出身の元天誅組志士)という人物が唱えていたが、論文として公刊されたものでなかったため、一般には知られていなかった。足立康の「新非再建論」(1939年)は、用明天皇のために造られた薬師如来を本尊とする仮称「用明寺」と、聖徳太子のために造られた釈迦如来を本尊とする釈迦如来を安置する仮称「太子寺」とがあり、670年に焼けたのは前者であるとする。後に足立は、2つの寺院が対立していたのではなく、一つの法隆寺の中に釈迦像を祀る「釈迦堂」があって、その後身が現・西院伽藍であるとした[26][27]。
1939年(昭和14年)に、石田茂作らによって若草伽藍跡の発掘調査が行われた。その結果、この伽藍は現存する西院伽藍(塔と金堂が東西に並ぶ)とは異なり、南に塔、北に金堂が南北方向に配置される「四天王寺式伽藍配置」であること、堂塔が真南に面しておらず、伽藍配置の中心軸が北西方向へ20度ずれていることがわかった。一方、現存する西院伽藍の堂塔は南を正面とし、伽藍の中心軸はほぼ地図上の南北に一致している(正確には北東方向へ3度ずれている)。したがって、仮に「若草寺」と「法隆寺」の2寺が同時に存在していたとすると、中心軸の方角が大きく異なる伽藍が近接して建っていたことになり、不自然である。また、若草伽藍跡から出土した瓦は、単弁蓮華文の軒丸瓦と手彫り忍冬唐草文の軒平瓦を組み合わせた、古い様式のものであった[28]。こうしたことから、若草伽藍跡こそが創建法隆寺であり、これが一度焼失した後にあらためて建てられたものが現存する法隆寺西院伽藍であるということは定説となっている[29]。
『資財帳』によれば、持統天皇7年(693年)、法隆寺にて仁王会が行われ、天蓋等が施入されていることから、現・西院伽藍のうち、少なくとも金堂はこの年までには建立されていたとみられる。同じく『資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群と、中門安置の金剛力士(仁王)像が完成しており、同年頃までには五重塔、中門を含めた西院伽藍が建立されていたとみられる。以上のように、「再建非再建論争」に関しては再建論に軍配が上がった形である。ただし、創建法隆寺の焼失は『書紀』のいう670年であったのか否か、皇極天皇2年(643年)の上宮王家(聖徳太子の家)滅亡後、誰が西院伽藍を再建したのか、現存の西院伽藍が創建法隆寺とは別の位置に建てられ、建物の方位も異なっているのはなぜか(現存の西院伽藍がほぼ南北方向の中軸線に沿って建てられているのに対し、旧伽藍の中軸線はかなり北西方向に傾斜している)、金堂、五重塔などの正確な建立年はいつか、現・西院金堂安置の釈迦三尊像と薬師如来像は本来どこに安置されていたのかなど、未解明の謎はまだ残っている。現・西院伽藍のある土地は、かつて存在した尾根を削り、両側の谷を埋めて整地した後に建てられたことがわかっており、なぜそのような大規模な土木工事をしてまで伽藍の位置を移したのかも謎である[30][31]。
非再建論の主な論拠は建築史上の様式論であり、関野貞の「一つの時代には一つの様式が対応する」という信念が基底にあった。一方、再建論の論拠は文献であり、喜田貞吉は「文献を否定しては歴史学が成立しない」と主張した。論争は長期に及びなかなか決着を見なかったが、1939年(昭和14年)、石田茂作によって聖徳太子当時のものであると考えられる前身の伽藍、四天王寺式伽藍配置のいわゆる「若草伽藍」の遺構が発掘されたことで、再建であることがほぼ確定した[32]。また「昭和の大修理」で明らかになった新事実(現在の法隆寺に礎石が転用されたものであること、金堂天井に残されていた落書きの様式など)もそれを裏付けている。
2004年12月、若草伽藍跡の西側で、7世紀初頭に描かれたと思われる壁画片約60点の出土が発表された[33]。この破片は1,000℃以上の高温にさらされており、建物の内部にあった壁画さえも焼けた大規模な火事であったと推察される。壁と共に出土した焼けた瓦は7世紀初頭の飛鳥様式であり、壁画の様式も線の描き方が現・法隆寺のものより古風であるという。出土した場所は、当時深さ約3メートルほどの谷であったところで、焼け残った瓦礫としてここに捨てられたと見られている。実際に焼失を裏付ける考古遺物が多数発見された。
2004年(平成16年)、奈良文化財研究所は、仏像が安置されている現在の金堂の屋根裏に使われている木材の年輪を高精度デジタルカメラ(千百万画素)で撮影した。その画像から割り出した結果、建立した年の年輪年代測定を発表した。それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀後半の再建であることが改めて裏付けられた。問題は、金堂の部材が年輪年代からみて650年代末から669年までの間の伐採で、日本書紀の伝える法隆寺炎上の年である670年よりも前の伐採とみられることである[34]。伐採年が『日本書紀』における法隆寺の焼失の年(670年)を遡ることは、若草伽藍が焼失する以前に現在の伽藍の建築計画が存在した可能性をも示唆するものであるが、これについては、若草伽藍と現在の伽藍の敷地があまり重なり合っていないことから、現在の伽藍は若草伽藍が存在している時期に建設が開始されたのではないかと考える研究者も存在する[35]。
なお、五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって確認できる最も外側の年輪が594年のものであり、この年が伐採年に極めて近いと発表されている。他の部材に比べてなぜ心柱材のみが特に古いのかという疑問が残った[36]。心柱材については、聖徳太子創建時の旧材を転用したとも考えられている。
1972年(昭和47年)に梅原猛が発表した論考『隠された十字架』は、西院伽藍の中門が4間で中央に柱が立っているという特異な構造に注目し、出雲大社との類似性を指摘して、再建された法隆寺は王権によって子孫(山背大兄王ら上宮王家)を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じるための寺なのではないかとの説を主張した。歴史学研究者の間では、一般的な怨霊信仰の成立が奈良時代末期であることなどを指摘し、概ね梅原説には批判的であった。
梅原は、夢殿本尊の救世観音には背中がなく、体は空洞であるとした上で、この像は「前面からは人間に見えるが、実は人間ではない」「人間としての太子でなく、怨霊としての太子を表現」したものだとした。しかし、これは事実誤認で、実際には救世観音像は丸彫り像であり、背中の部分も造形されている。これはアーネスト・フェノロサの『東亜美術史綱』中の救世観音に係る記述に「背後は中空なり」とあり、フェノロサの誤記をそのまま引き継いだための誤解であろうと指摘されている[38][39][40]。
また梅原は救世観音の光背が「直接、太い大きな釘で仏像の頭の真後ろにうちつけられている」としたうえで、「釘をうつのは呪詛の行為であり、殺意の表現なのである」とした。実際は、救世観音の後頭部にあるのは「太い釘」ではなく、単なる光背取り付け用の金具である。このように、仏像の後頭部に設けた金具や枘によって光背を固定している例は、法隆寺金堂四天王像、法隆寺献納宝物の四十八体仏(東京国立博物館蔵)などに例が見られ、「呪詛の行為」等の解釈は当たらない[38][41]。このように、梅原の『隠された十字架』の所説は基本的な事実誤認に基づいて推論を重ねている部分が多いため、美術史家からは厳しい評価を受けており、ほとんどの美術史家はあえて正面から反論しなかった[38][42]。
とはいえ、本書が与えた影響は大きなものがあり、山岸凉子は本書に直接のインスピレーションを得て『日出処の天子』を発表したという。また建築家の武澤秀一は、中門の中心にある柱が怨霊封じのためであるという梅原の説は退けつつも、梅原の問題提起を高く評価し、イーフー・トゥアンなど現象学的空間論を援用しながら、法隆寺西院伽藍の空間設計が、それ以前の四天王寺様式が持つ圧迫感を和らげるために考案されたものであり、先行する百済大寺(武澤は吉備池廃寺を百済大寺に比定して論を展開している)や川原寺で試みられた「四天王寺様式を横にした」空間構築の完成形であったのではないかと論じている[43]。
国宝。入母屋造の二重仏堂。桁行五間、梁間四間、二重、初層裳階付。上層には部屋はなく、外観のみである。二重目の軒を支える四方の龍の彫刻を刻んだ柱は構造を補強するため修理の際に付加されたものであるが、その年代については諸説ある。金堂の壁画は日本の仏教絵画の代表作として国際的に著名なものであったが、1949年(昭和24年)、壁画模写作業中の火災により、初層内陣の壁と柱を焼損した。黒こげになった旧壁画(重要文化財)と柱は現存しており、寺内大宝蔵院東側の収蔵庫に保管されているが、非公開である。なお、解体修理中の火災であったため、初層の裳階(もこし)部分と上層のすべて、それに堂内の諸仏は難を免れた。この火災がきっかけで文化財保護法が制定され、火災のあった1月26日が文化財防火デーになっている(金堂壁画については別項「法隆寺金堂壁画」を参照)。堂内は中の間、東の間、西の間に分かれ(ただし、これらの間に壁等の仕切りがあるわけではない)、それぞれ釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来を本尊として安置する。
1949年(昭和24年)に焼損した壁画については「法隆寺金堂壁画」を参照。金堂の焼損した壁画と内陣の部材は、大宝蔵殿裏の収蔵庫に保管され、長年非公開となっている。収蔵庫の耐震性に問題がないことが判明したことから、法隆寺では焼損壁画を将来公開する方向であり、2021年(令和3年)を目途に公開の時期と方法が検討されている[46]。
国宝。木造五重塔として現存世界最古のもの。裳階付きで、高さは32.55mであり、初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である。初層から四重目までの柱間は通例の三間だが、五重目のみ二間とする。初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置する(計80点の塑像が国宝)。この塑像に使用された粘土は、寺の近くの土と成分がほぼ等しいことから近くの土で作られたと推測される。東面は『維摩経』(ゆいまきょう)に登場する、文殊菩薩と維摩居士の問答の場面、北面は釈迦の涅槃、西面は分舎利(インド諸国の王が釈尊の遺骨すなわち仏舎利を分配)の場面、南面は弥勒の浄土を表す。北面の釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像が特に有名である。その弟子集団の中の3体は、耳の無い、口先のとがった、眼のつりあがった頭部をしており、それぞれ馬頭形、鳥頭形、鼠頭形とよばれる。これらは十二支をかたどっているとも、薬師如来をまもる十二神将であるともいわれる。五重塔初層内部にも壁画(現在は別途保管、重要文化財)があったが、漆喰が上から塗られたことなどが原因で剥落してしまっている。心礎(心柱の礎石)は、地下3メートルにあり、心礎内からは1926年(大正15年)にガラス製の舎利壺とこれを納める金製、銀製、響銅製の容器からなる舎利容器が発見された。なお、舎利容器は、調査後、元の場所に納められている。
百済観音像をはじめとする寺宝を公開している。百済観音堂および東宝殿、西宝殿からなる建物で1998年(平成10年)に完成した。
また、仏画、仏具、舞楽面、経典なども随時展示替えをしつつ公開されている。保存上の理由から常時公開されていない寺宝として四騎獅子狩文錦(唐時代、国宝)、黒漆螺鈿卓(平安時代、国宝)などがある。
諸堂に安置される仏像についての詳細は「法隆寺の仏像」を参照。
西院伽藍は南大門を入って正面のやや小高くなったところに位置する。向かって右に金堂、左に五重塔を配し、これらを平面「凸」字形の廻廊が囲む。廻廊の南正面に中門(ちゅうもん)を開き、中門の左右から伸びた廻廊は北側に建つ大講堂の左右に接して終わっている。廻廊の途中、「凸」字の肩のあたりには東に鐘楼、西に経蔵がある。以上の伽藍を西院伽藍と呼んでいる。金堂、五重塔、中門、廻廊は聖徳太子在世時のものではなく7世紀後半頃の再建であるが、世界最古の木造建造物群であることは間違いない。金堂・五重塔・中門にみられる建築様式は、組物(軒の出を支える建築部材)に雲斗、雲肘木と呼ばれる曲線を多用した部材を用いること、建物四隅の組物が斜め(45度方向)にのみ出ること、卍くずしの高欄(手すり)、それを支える「人」字形の束(つか)などが特色である。これらは法隆寺金堂・五重塔・中門、法起寺三重塔、法輪寺三重塔(焼失)のみにみられる様式で、飛鳥様式とされる。
東院伽藍は聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。『法隆寺東院縁起』によると、天平11年(739年)、斑鳩宮が荒廃しているのを見て嘆いた僧行信により創建された。廻廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿が建ち、廻廊南面には礼堂、北面には絵殿及び舎利殿があり、絵殿及び舎利殿の北に接して伝法堂が建つ。
詳細は「法隆寺献納宝物」を参照。
明治維新以後の廃仏毀釈により民衆による破壊にさらされ、さらに幕政時代のような政府による庇護がなくなった全国の仏教寺院は、財政面で困窮の淵にあった。また多くの寺院は堂塔が老朽化し、重みで落ちそうな屋根全体を鉄棒で支えるような状況に至っていた。文明開化の時代に古い寺社を文化遺産とする価値観はまだなく、法隆寺はじめ多くの寺院が存続困難となり、老朽化した伽藍や堂宇を棄却するか売却するかの選択を迫られた。
法隆寺は、1878年(明治11年)に貴重な寺宝300件余を皇室に献納し、一万円を下賜された。この皇室の援助で7世紀以来の伽藍や堂宇が維持されることとなった。皇室に献納された宝物は、一時的に正倉院に移された後、1882年(明治15年)に帝室博物館に「法隆寺献納御物」(皇室所蔵品)として収蔵された。第二次世界大戦後、宮内省所管の東京帝室博物館が国立博物館となった際に、法隆寺に返還された4点と宮中に残された10点の宝物を除き、全てが国立博物館蔵となった。さらにその後、宮中に残された宝物の一部が国に譲られ、これら約320件近くの宝物は東京国立博物館法隆寺宝物館に保存されている(有名な『聖徳太子及び二王子像』や『法華義疏』などは現在も皇室が所有する御物である)。
建造物
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美術工芸品
建造物
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絵画
彫刻
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工芸品
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書跡典籍・古文書
考古資料・歴史資料
出典:2000年までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
西円堂・聖霊院等は無料で拝観可。その他の諸堂および子院は原則として非公開。ただし、下記の諸堂は期日を限って公開。
2024年9月11日、法隆寺は、「昨今の物価、人件費の上昇の中、文化財の保存修理や設備改修を進めるため」拝観料を2025年3月1日から値上げすると発表した。値上げは2015年1月以来。西院伽藍(がらん)、大宝蔵院、東院伽藍の拝観料を現在の「中学生以上1500円」から「中学生1700円、高校生以上2千円」に変え、小学生は750円から1千円に上げる[61]。
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