薬師寺
奈良市にある仏教寺院 ウィキペディアから
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薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町にある法相宗の大本山の仏教寺院。山号はなし。本尊は薬師三尊。南都七大寺の一つ。開基は天武天皇。
1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の構成資産の一つとして、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)により世界文化遺産に登録されている。
薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城京への遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺、北緯34度29分33.88秒 東経135度48分0.95秒)の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。
『日本書紀』天武天皇9年(680年)11月12日条には、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させたとある。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔檫銘」(とうとうさつめい、「さつ」は木偏に「察」)にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。
「東塔檫銘」には、「清原宮に天の下を統治した天皇(天武)の即位八年、庚辰の歳、中宮(後の持統天皇)の病気のため、この伽藍を創り始めたが、完成しないうちに崩御したので、その意志を継いで、太上天皇(持統)が完成したものである」旨が記されている。ここでいう「天皇即位八年、庚辰之歳」は、『書紀』の「天武天皇9年」と同じ年を指している。すなわち、『書紀』は天智天皇の没した翌年(壬申年、西暦672年にあたる)を天武天皇元年とするが、天武が正式に即位したのはその翌年(西暦673年にあたる)であり、「天皇即位八年」とは即位の年から数えて8年目という意味である[1]。
持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(かぎりなきおがみ)という行事が行われたことが『書紀』に見え、この頃までには伽藍がある程度整っていたものと思われる。『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698年)には寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせている。この創建薬師寺は、藤原京の右京八条三坊の地にあった。大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿町に寺跡が残り、「本薬師寺跡」として特別史跡に指定されている。
その後、和銅3年(710年)の平城京遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した右京六条二坊(現在地)に移転した。移転の時期は長和4年(1015年)成立の『薬師寺縁起』が伝えるところによれば養老2年(718年)のことであった。ただし、平城薬師寺境内からは霊亀2年(716年)の記載のある木簡が出土していることから、造営は養老2年よりも若干早くから始まっていたとみられる。『扶桑略記』天平2年(730年)3月29日条に「始薬師寺東塔立」とあり、東塔(三重塔)が完成したのがその年のことで、その頃まで造営が続いていたものと思われる。
なお、平城京への移転後も、飛鳥の薬師寺(本薬師寺)はしばらく存続していた。史料や発掘調査の結果からは平安時代中期、10世紀頃までは存続していたようだが、後に廃寺となった。本薬師寺跡には金堂[要曖昧さ回避]・東塔の礎石、西塔の心礎が残っている。本薬師寺の伽藍配置は「薬師寺式伽藍配置」と称されるもので、中央に金堂、その手前に中門[要曖昧さ回避]、背後に講堂を配し、金堂の手前東西に塔を置く。そして、中門左右から出た回廊が講堂の左右に達し、金堂、東西両塔は回廊で囲まれている。この伽藍配置は平城薬師寺においても踏襲されている。本薬師寺、平城薬師寺双方の発掘調査により、両伽藍の建物の規模、位置関係などはほぼ等しく、本薬師寺の伽藍を平城薬師寺に再現しようとしたものであることがわかる。ただし、平城薬師寺では中門の規模が拡大され、回廊も幅が広げられている。
平城京の薬師寺は天禄4年(973年)の火災によって金堂、東塔、西塔を残し、講堂、僧坊、南大門など多くの建物が焼失した。発掘調査によって、西僧坊の跡地からは僧たちが使用していたとみられる奈良時代や、中国の唐時代の陶磁器が多数出土しており、天禄4年の火災の際に棚から落ちて土中に埋もれたものとみられる。
戦国時代の享禄元年(1528年)9月7日には、興福寺の衆徒・筒井順興による兵火で東塔や東院堂を残し全山焼失した。現在、奈良時代の建物は東塔を残すのみである。
金堂は、慶長5年(1600年)に郡山城主の増田長盛によって再建され、大講堂は嘉永5年(1852年)に再建される(以前は慶長5年(1600年)再建説や延宝4年(1676年)再建説などもあった)が、往時の大伽藍とは比ぶべくもなかった。
1967年(昭和42年)、名物副住職として知られた高田好胤(たかだこういん)が管主に就任すると、翌1968年(昭和43年)から百万巻お写経勧進による白鳳伽藍復興事業が開始された。これにより、1976年(昭和51年)に金堂が再建されたのを始め、1981年(昭和56年)に西塔、1984年(昭和59年)に中門、1995年(平成7年)に東西回廊の一部、2003年(平成15年)に大講堂、2017年(平成29年)には
2017年(平成29年)5月24日に龍谷大学と、こうした文化財の保護・活動のほか、仏教についての研究・教育、僧の人材育成などで連携する協定を結んでいる[3]。
平城京の薬師寺にある東塔および本尊薬師三尊像が飛鳥の本薬師寺から移されたものか、平城京で新たにつくられたものかについての論争が明治時代以来ある。21世紀の現在、東塔は平城京での新築とするのがほぼ通説となっているが、論争は完全に決着したわけではない。
11世紀成立の『薬師寺縁起』に引用される奈良時代の『流記資財帳』に「薬師寺には塔が4基あり、うち2基は本寺にある」という趣旨の記載があり、ある時期までは平城京と飛鳥の両薬師寺にそれぞれ2基の塔があったと解釈されることから、足立康、町田甲一らはこれを非移建説の根拠の1つとしている。現存する東塔に、他所から解体移築した痕跡の見られないことからも[5]、東塔については『扶桑略記』の記述どおり、平城京移転後の天平2年(730年)新築と見る説が通説となっている[6]。ただし、平城薬師寺の境内からは本薬師寺から出土するのと同様の古い様式の瓦も出土しており、西塔は飛鳥からの移築だったとする説もある[7]。
発掘調査の結果、平城薬師寺の廻廊は当初単廊(柱が2列)として計画されたものが、途中で複廊(柱が3列、通路が2列)に設計変更されたことが判明している。このことから、当初は本薬師寺の建物を一部移築しようとしていたものを、途中で計画変更したのではないかとする説もある。
金堂本尊薬師三尊像については、既述の「持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(かぎりなきおがみ)が行われた」との『書紀』の記述を重視し、この年までには造立されて、後に平城薬師寺に移されたとする説がある。一方、主に様式や鋳造技法の面から平城京移転後の新造とする説もあり、決着はついていない。
国宝。現在寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)に遡る唯一のもの。総高34.1メートル(相輪含む)。日本に現存する江戸時代以前に作られた仏塔としては、東寺五重塔、興福寺五重塔、法観寺五重塔、醍醐寺五重塔、仁和寺五重塔に次ぎ、6番目の高さを誇る。屋根の出が6か所にあり、一見六重の塔に見えるが、下から1・3・5番目の屋根は裳階(もこし)であり、構造的には三重の塔である。仏塔建築としては他に類例のない意匠を示す。塔の先端部の相輪にある青銅製の水煙(すいえん)には飛天像が透かし彫りされており、奈良時代の高い工芸技術を現代に伝えている。
相輪の中心部の柱の最下部には「東塔檫銘」(とうとうさつめい、「さつ」の漢字は木偏に「察」)と称される銘文が刻まれており、薬師寺の創建と本尊造立の趣旨が漢文で記されている。塔の建築年代については飛鳥の本薬師寺から移築されたとする説(移建説)と、平城京で新たに建てられたとする説(非移建説)とがあったが、『扶桑略記』の記述のとおり、天平2年(730年)に平城京にて新築されたとする説が通説となっている。当初、東塔・西塔の初層内部には釈迦八相(釈迦の生涯の8つの主要な出来事)を表した塑像群が安置されていたが、現在は塑像の断片や木心が別途保管されるのみである。
本塔は、建築様式の点では、飛鳥様式の法隆寺五重塔や法起寺三重塔よりは進んだ形式を取り入れつつ、當麻寺東塔(奈良時代末期)や醍醐寺五重塔(平安時代初期)ほどには進んでいない、過渡期的様相を示している。柱上の組物に着目すると、雲肘木と雲斗(くもと)を用いた飛鳥様式の塔と異なり、薬師寺東塔の組物は後世の仏堂や仏塔と同様の肘木と斗(ます)を用い、壁面から3段に持ち出した三手先(みてさき)である。二手目の肘木と斗の上に尾垂木が掛かり、尾垂木の先端近くに三手目の斗が乗る。垂木は地垂木と飛檐垂木(ひえんたるき)からなる二軒(ふたのき)で、地垂木を円形断面、飛檐垂木を角形断面とした、「地円飛角」と呼ばれる形式である。このように、組物を三手先とする点、垂木を二軒とする点は飛鳥様式より進んだ要素である。一方で、支輪(壁面と軒裏を斜めに繋ぐ材)を用いず、軒天井を張ること、二手目の肘木は先端に1個の斗しか乗らないこと(後世の塔では2個の斗が乗る)、丸桁(がぎょう、垂木を支える軒桁のうち最も外側のもの)の断面を円形でなく方形とすること、鬼斗(隅肘木上に用いる特殊形状の斗)を用いないことなどは、後世の塔とは異なる、古い要素である。奈良時代末期建立の當麻寺東塔は、支輪と鬼斗を用い、丸桁は円形断面となり、二手目の肘木には2つの斗が乗っている。一方、海龍王寺五重小塔は、支輪と鬼斗は用いないが、丸桁は円形断面となり、二手目の肘木には2つの斗が乗るなど、薬師寺東塔と當麻寺東塔との過渡期的な形式をもっている。このほか薬師寺東塔の建築様式の特色としては、尾垂木が直線形であり、先端を垂直方向に断ち切っていること、三手目の斗と丸桁の間に実肘木を用いないこと、高欄の架木(ほこぎ)や平桁に反りがなく、かつ、これらの両端を垂直に断ち切っていることなどが挙げられる[9]。
骨組み部分は鉄の釘で接続されていたが、各階の間などでは釘は用いられず木組みだけで構成されていた。解体修理にあたり、9割の木材は再利用され、残りは補修または新材を用いた[10]。基壇は後世改修されているが、2009年から開始された東塔の解体修理工事の際に基壇の発掘調査が行われている。その結果、創建当初の版築による基壇が良好に遺存していることが確認された。また、裳階柱の礎石は明治時代に据え直された可能性があるものの、心礎、四天柱、側柱の礎石は当初位置から動いていないことも確認された[11]。基壇の下から和同開珎4枚が出土した[12]。創建当時の基壇は保護され、それを鉄筋コンクリートで覆って新たな土台とした。また心柱の内側は根元から2mほどが蟻害にあっており、不要な部分を取り除き新材で埋めた[13]。天井画の調査においては、木材の陰になった部分の顔料が非常に良い状態で残っていた[14]。
前述のような特徴的な姿から、この塔を評してしばしば「凍れる音楽」という表現が用いられる。なお、明治時代に本寺を訪れたアーネスト・フェノロサが、この塔を指して「凍れる音楽」と表現したと説明されることが多いが、複数の文献が「凍れる音楽」をフェノロサの言葉とするのは誤りだと指摘している[注 1]。佐佐木信綱と会津八一はそれぞれ東塔を題材にした短歌を残しており、両人の歌碑が薬師寺境内に建立されている。
地震や台風での損傷を修理するため、幾度も修理が行われている[15]。 主な修理を以下に挙げる。
主要伽藍の北側にあり、1991年(平成3年)に建てられた。
金堂に安置される薬師寺の本尊。国宝。飛鳥時代後期(白鳳期) - 奈良時代(7 - 8世紀)の作。国宝指定名称は「銅造薬師如来及両脇侍像 3躯」。中尊は薬師如来、左脇侍(向かって右)に日光菩薩(にっこうぼさつ)、右脇侍に月光菩薩(がっこうぼさつ)を配している。像高は薬師如来254.7センチメートル、日光菩薩317.3センチメートル、月光菩薩315.3センチメートル。日本の仏像彫刻が、中国の六朝や唐の影響を受けつつ、独自の古典様式を完成した7 - 8世紀の作品のなかでも最高傑作の一つとして古来名高いものである。
中尊は「東塔檫銘」に「巍巍蕩蕩(ぎぎとうとう)たり薬師如来、大いに誓願を発し、広く慈哀を運(めぐら)す」とある薬師如来である。「巍巍」とは高い峰のように大きく堂々としている様子、「蕩蕩」は大河のように広くゆったりとした様子で、この表現のとおり、中尊像は男性的な堂々たる像容を表す。両脇侍像は首と腰を軽くひねり、頭部、上半身、下半身がそれぞれ異なった角度を表す「三曲法」と呼ばれるポーズを示す。これはインドのグプタ朝における彫刻様式の影響が、唐時代の中国を経て日本へ伝わったものである。
各像の面貌や体躯は、飛鳥時代前期彫刻のような観念的表現を離れ、人体の正確な把握に基づいた自然な肉付けがみられる。一方、衣文は深く明瞭に表され、鋭角に切り立った面を構成している。総じて中国の初唐様式の影響がみられる。
中尊の掌には輪宝を線刻し、足裏には輪宝のほか、指に卍花を刻むなど、吉祥文が表されている。これらは仏の三十二相に基づく表現である。中尊像の台座は宣字座の上に裳を広げた裳懸座である。この宣字座には古代ギリシャ、ペルシャ、インド、中国などに淵源をもつ葡萄(ぶどう)唐草文、異国風の人物像、四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)などの意匠があしらわれており、奈良がシルクロードの終着地点といわれる所以となっている[注 2]。
制作年代については、「歴史」の項で述べたように持統天皇2年(688年)無遮大会実施までには完成していたとする説、『日本書紀』に持統天皇11年(697年)、薬師寺にて公卿百寮が仏像を造り開眼法会を行った旨の記録があることから、この時に制作されたとする説、平城京移転後の新造とする説があり、決着をみていない。685年頃の制作である旧山田寺仏頭(現・興福寺蔵)と比較すると、薬師寺像は鋳造技法の点で進歩がみられる。すなわち、山田寺像では鋳造の際に中型と外型のずれを防止するための「型持」と「笄」(釘)がずれてしまっているが、薬師寺像では「型持」と「笄」を一体化してずれを防止しており、銅厚も一定である。こうした鋳造技法の進歩を制作年代の下降と見る説がある一方で、天皇発願の寺である薬師寺と、私寺である山田寺を同一視はできず、技法の違いは即年代の違いではないとする説もある[25]。
東院堂本尊。国宝指定名称は「銅造観音菩薩立像」。像高188.9センチメートル。飛鳥時代後期(白鳳期)または奈良時代(7 - 8世紀)。蓮華座上に直立する菩薩像で、右腕は体側に垂下し、左腕は曲げ、手は肩の辺まで上げて掌を正面に向ける。蝋型鋳造による銅像で、右手先や天衣遊離部などを別鋳とする。像表面の鍍金はほとんど剥落する。光背は木造の後補で近世の作。『薬師寺縁起』(護国寺本『諸寺縁起集』)によれば、東院堂は養老年間(721年頃)、元明太上天皇の病気平癒のために建立されたとされるが、本像の中世以前の所在は明らかでなく、当初から東院堂の本尊であったとする確証はない(現存する東院堂の建物は鎌倉時代のもの)。
本像には自然な人体把握が見られ、中国の初唐末期から盛唐初期(7世紀末)の様式の影響がみられる。その一方で時代の遡る様式も見られ、製作年代については飛鳥時代後期(白鳳期)から奈良時代(7 - 8世紀)まで諸説ある。薬師寺金堂の日光・月光菩薩像と比較すると、本像には様式的には古い要素が見られるが、実際の制作時期の先後については定かでない。日光・月光菩薩像が胴部に「くびれ」の線を明瞭に刻むのに対し、本像にはそれがなく、体部の抑揚は自然なカーブで表現されている。左肩から右体側にかけては、日光・月光像にはない条帛を着する。腰から下には天衣が上下3段にU字形に掛かる。さらに、両脚部の図式的に整えられた衣文、脚部左右に鰭状に広がる裳裾の表現など、全体に左右相称性が強調されている。面相部に着目すると、口元にはアルカイック・スマイルを思わせるかすかな笑みを浮かべ、人中線を鎬立てて刻み、鼻梁が鋭角的に表される点などが古様である。腰部中央や裳裾の左右に見られる「品」字状を呈する衣文、裳裾の左右端に垂れる紐や両脚の間に見られるジグザグ状の衣文などは、前述の鰭状の衣端の表現とともに、飛鳥時代前期様式を思わせる古い要素である。頭部には飛鳥時代後期(白鳳期)の菩薩像にしばしばみられる三面頭飾を付さず、髻の側面から背面にかけて唐草文を表すのは珍しい[26]。
典拠:2000年までの指定物件については『国宝・重要文化財大全 別巻』(毎日新聞社、2000年)の所有者別総合目録、名称総索引、統計資料による。
薬師寺では、クラシック系の音楽[32]や高校生の吹奏楽[33]から、ポピュラー音楽まで、様々な機会に多様なジャンルの音楽家による奉納コンサートが開催されている。2001年には、さだまさしが「薬師寺玄奘三蔵院伽藍総供養記念さだまさし薬師寺奉納公演」を行い、その模様は『瑠璃光 薬師寺ライヴ2001』としてライブ盤となった。その後、2003年に大講堂が再建されてからは大講堂前特設舞台をステージとし、金堂との間に席を設けた屋外コンサート形式が多くとられている。2024年6月には、世界遺産・薬師寺東塔落慶記念奉納「SYMPHONIC CONCERT in 薬師寺」(主催:RENAISSANCE CLASSICS)と題して、工藤静香、岩崎宏美&岩崎良美、麻倉もも、絢香がオーケストラとともに奉納公演を披露する[34][35][36][37]。これまでに奉納コンサートを行なった中には、安全地帯[38][39]、AKB48[38]、石井竜也[38][40]、甲斐バンド[41]、スターダストレビュー[42]、堂本剛[43][44]、徳永英明[45]、南こうせつ[46][47]などが含まれている。
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