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株式会社エンドーチェーンは、宮城県仙台市に本社を置き不動産業を営む株式会社。仙台駅前で商業ビル「EBeanS」を管理運営するほか、不動産賃貸業を行っている。かつては東北地方を中心にスーパーマーケットチェーン「エンドーチェーン」を展開しており、西友と業務提携し東北西友として西友の店舗を展開していた時代もあった。
EBeanS(エンドーチェーン本社) | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
本社所在地 |
日本 〒980-0021 宮城県仙台市青葉区中央四丁目1番1号 |
設立 | 1951年(昭和26年)1月24日[1][2][3] |
業種 | 不動産業 |
法人番号 | 6370001007258 |
事業内容 |
仙台駅前ビル「E BeanS」の運営管理 その他不動産賃貸業 |
代表者 | 代表取締役社長 遠藤 映子 |
資本金 | 1億円 |
純利益 |
1億8,100万円 (2024年2月期)[4] |
純資産 |
21億6,500万円 (2024年2月期)[4] |
総資産 |
26億6,000万円 (2024年2月期)[4] |
関係する人物 |
遠藤養吉(創業者) 遠藤養一(2代目社長)[5] |
外部リンク | https://www.e-beans.jp/ |
1928年(昭和3年)12月に遠藤養吉(えんどう ようきち)が志田郡鹿島台町で衣料品・雑貨の店を創業したのが始まりである[6]。 1935年(昭和10年)5月に衣料品専門店を開店した[2]。
1951年(昭和26年)1月24日に[1]資本金150万円で「株式会社 遠藤養吉商店」を設立して法人化した[2][8]。 1952年(昭和27年)4月1日に宮城県黒川郡吉岡町(現:黒川郡大和町吉岡)に「遠藤養吉商店」を開店した[9]。
1961年(昭和36年)11月に「株式会社 遠藤屋」に商号を変更した[2][3]。 1962年(昭和37年)11月1日に[10]当社初のSSDDS(セルフ・サービス・ディスカウント・デパートメント・ストア、つまり現在のスーパーマーケット)宮町店を仙台市宮町に開店した[8]。 出店先の宮町は当時の仙台では場末で立地に恵まれていなかったことから、毎週土曜日と日曜日には仙台駅前など市内の中心街から15分毎の送迎バス(今でいうシャトルバス)を運行して集客を図ったほか、価格を市価の30%から50%安くするなど価格競争で他店に優位に立つ戦略を採り、仙台市内全体から集客することに成功した[11]。
この宮町店の成功を受けて伊藤忠商事と提携して仙台駅前により大規模で本格的なSSDDSを作って進出することになり[11]、1964年(昭和39年)3月20日には仙台駅前店を開店した[12]。 同年9月に「株式会社エンドー」に商号を変更した[2][3]。 1972年には新館をオープン、10階建で吹き抜けを有する大きな建物であった。この店舗は仙台市民・宮城県民に受け入れられ「エンドーチェーン」の代名詞となる。[要出典]
1980年(昭和55年)には、日経流通新聞調べの『日本の小売業200社ランキング』でエンドーチェーンが41位にランクされ注目を集めた。また、創業者は『モーニングショー』(テレビ朝日・東日本放送)内の名物コーナー「宮尾すすむのああ日本の社長」で取り上げられた。[要出典]
全盛期の1980年代には、当時の仙台市周辺の消費文化や芸能をリードした。当時のCMで流れていたキャッチコピーには「絵になるファッションの仲間たち エンドーチェーン」や「(プラスアルファの)生活感動店」[注 1] などがあった。[要出典]
サンシが中心となってすかいらーくと第一産業(後のエディオン)などが出資して設立された「フレッシュシステムズ」のフランチャイズに加盟して宅配事業に参入することになり、その事業会社として1983年(昭和58年)9月に「株式会社フレッシュエンドー仙台」を設立した[13]。 1985年(昭和60年)2月から会員募集を開始し、同年4月15日にサービスを開始した[14]。 しかし、採算ラインの月商2億円を大きく下回る月商約5000万円ほどに留まったことから、1990年(平成2年)に同事業から撤退して生産することになった[15]。
しかしエンドーチェーン全体としては、仙台市中心部では1975年に仙台店を開業したダイエーやジャスコなど他県資本の大手チェーン、仙台市郊外では藤崎スーパーマーケット、トーコーチェーン、岡崎スーパーマーケット(後のオカザキスーパー。2018年に自己破産し営業終了[17][出典無効])などの地元資本のチェーンとの競争が激化し、徐々に体力を消耗していった。
さらに仙台市以外の宮城県内や岩手県・福島県でも、イトーヨーカ堂グループ(イトーヨーカドー、ヨークベニマル)、ニチイなどの他県資本や、ジョイスやベルグループなどの地元資本のスーパーなどが駐車場を備えた店舗を展開していくと、駅前立地で駐車場が少ないエンドーチェーンの店舗は対抗しきれず客足が減少した。そのため1986年頃から、商業界を中心にエンドーチェーンの経営を不安視する声が聞こえはじめた[18]。
1989年4月、エンドーチェーンは3ヵ年計画で、不振店を全面的に業態転換するか、または増床・改装する方針を固め、当時の総店舗47店のうち不振店16店を3年かけてテコ入れする決定を下した。また、同年5月には取引銀行であった日本債券信用銀行からの最終答申を受け、社長をトップとする総合経営企画委員会を設け、1年程度をかけて経営上の諸課題を洗い出し、改善処置を執る体制を敷いた[19]。
1991年(平成3年)2月21日に株式会社西友から10%程度の資本参加を受け、経営、人事、商品施策など全般にわたる業務提携の調印を発表した[20][21]。当時、東北地方における西友の店舗は、百貨店業態で運営していた郡山西武店(福島県郡山市)のみであったが、この提携により西友は東北における本格進出への端緒を得た[22]。これに基づき、同年3月20日には会社分割により経営を引き継ぐ新法人としてエステートエンドーを発足させた。[要出典]
1991年5月に最初の再建計画が明らかとなり、当時運営していた44店舗(宮城県36店舗、岩手県6店舗、福島県2店舗)中、仙台駅前店とそれ以外の店舗の運営を分離することとなり、仙台駅前店は西友本体が運営し、30店舗(宮城県28店舗、岩手県は花巻店のみ、福島県は保原店のみ)はエステートエンドーの運営で存続することになった。残る13店舗(宮城県は7店舗、岩手県は盛岡市内4店全店と北上店の5店舗、福島県は福島駅前店)は1991年中に閉店することになった[18]。同年8月にはエステートエンドーの社長に西友元常務が、会長に遠藤養一がそれぞれ就任した[23]。同年9月1日、エンドーチェーンが「エステートエンドー」に、新会社のエステートエンドーが「エンドーチェーン」にそれぞれ商号を変更した[24]。
西友の資本参加と同時に、西友のノウハウを取り入れマーチャンダイジングの強化、取引改善、物流システムの再構築に当たったほか、若手社員を西友に2年間にわたりトレーニーとして派遣する制度も実施された[25]。 また、1991年(平成3年)10月に西友と共同で「宮城野センター」を開設し、チルド・生鮮食品・グローサリー・非食品の順に西友のノウハウを取り入れた物流体制に切り替え、物流の合理化を図った[26]。
1992年(平成4年)には2度目の再建計画が発表され、宮城県内では駅前に立地する店舗を中心に半数近い店舗が閉鎖、岩手県では花巻店の閉店に伴い完全撤退し、食品スーパー専業へ転換した。これにより総合スーパーの店舗は西友に譲渡された[27][28]。 また、生鮮食品の強化のため、西友フーズと当社が共同出資で「西友フーズ東北」も設立された[27]。
1991年(平成3年)11月3日、西友[注 2] が基幹店であった仙台駅前店を、1991年(平成3年)9月1日付で賃借・営業譲渡した上で「SEIYO(セイヨー)仙台店」として営業を開始した[29]。 これによって8階以上は閉鎖され、ファッション部門以外では、ゲームセンター、地下一階の食料品売場を残しを売り場を減床した。また、この名称変更の際、仙台駅前店の一室に保存されていたエンドーチェーンとしてのイベント・宣伝等の貴重な資料は、その大部分が散逸してしまった。[要出典]なお、SEIYOは1997年9月19日にザ・モール長町が開業するため、西友がそちらの運営に傾注したいとの意向から[30]、1997年(平成9年)7月31日に閉店した[31]。
1993年(平成5年)3月1日付で、西友がスーパー部門を分離した子会社の「株式会社エンドーチェーン」(後の株式会社東北西友)の全株式を取得すると共に、総合スーパー4店舗(荒巻・佐沼・富谷・古川中央)の営業権を西友に譲渡し、本体は不動産管理部門となり「株式会社エステートエンドー」と社名変更した[32]。
跡地には1997年(平成9年)11月28日にエステートエンドーが運営するテナントビル「EBeanS(イービーンズ)」として衣替えて再オープンした[33]。
2001年(平成13年)6月1日、株式会社エンドーチェーンは株式会社東北西友に社名変更し、同年4月25日に開店した宮城野原店で店名も全店西友へ統一された[34]。なお、西友本体の直営店であるザ・モール仙台長町店と区別するため、東北西友の店舗にはその後「THE FOOD FACTORY」のロゴを併記している。[要出典]
2003年(平成15年)6月1日に「株式会社エステートエンドー」は「株式会社エンドーチェーン」へ社名を戻した[35]。 また、EBeanSの屋上看板もお色直しされ、「EBeanS」の下に「エンドーチェーン」というロゴが設置され、9年ぶりに表記が復活し話題を呼んだ。[要出典]
2006年(平成18年)4月29日には「一日限りの屋上開放」と題して、EBeanSとなってから初めて正式に屋上を開放し、フリーマーケットを試行開催した。これが好評であったため、同年9月17日に「復活エンドーチェーン 屋上フリマ」と銘打ち本格的にフリマを実施した[24]。さらに2008年8月16・17日および23・24日の4日間、「エンドー創業80周年記念」として「屋上復活祭」を開催。THE ポッシボー、ザブングルほかをゲストに長年放送していた『エンドーミュージックショーウィンドー』の復刻版を含むTBCラジオの公開生放送、縁日、キャラクターショーなどが行われた。このイベントを契機に夏期は屋上が連日開放されることとなり[36]、その後も不定期にイベント開催時などには開放されるようになった。また、この屋上開放の再開と前後して、EBeanSとしてもかつての「エンドーチェーン」の頃を思わせる催事・イベント等を活発に行うようになっている。[要出典]
2008年(平成20年)1月、「エンドーチェーン」は不動産賃貸業としての業績復調を背景に、西友に売却していた自社株約172万株 (16%) を買い戻して西友との資本関係を解消。経営再建計画が完遂し[37]、仙台の地場資本へと戻ることになった。 一方、東北西友は同年7月1日にエス・エス・ブイなど他地域の子会社5社と共に西友へ吸収合併された[38][39]。
エンドーチェーンのロゴマーク(社章)は「レインボーマーク」という。長年親しまれてきたが、全店舗が東北西友になった後は見かけることはほとんどなくなった。[要出典]
しかし、2006年(平成18年)1月1日付『河北新報』朝刊に掲載されたEBeanSの初売り広告にはエンドーチェーンのロゴマークが使用され、その後もEBeanSの広告やテレビCMなどにエンドーのロゴマークが登場している。テレビCMでは「エンドーチェーン・EBeanS」とアナウンスされることもある。また、EBeanSの屋上看板(ネオンサイン)および1階・2階の各出入り口の上部などに設置された看板にも、エンドーチェーンのロゴマークが復活している。
創業者の遠藤養吉から『遠藤チェーン』の「エンドーチェーン」『エンドウ豆』から『E(エンドウ) - Beans(豆)』という流れで「イービーンズ」という名前の由来となっている[40]。
イービーンズ EBeanS | |
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「エンドーチェーン」の商標が付加されたEBeanS (2023年12月撮影) | |
店舗概要 | |
所在地 |
〒980-0021 宮城県仙台市青葉区中央四丁目1番1号[41] |
座標 | 北緯38度15分30.9秒 東経140度52分47.1秒 |
開業日 | 1964年(昭和39年)3月20日[12] |
正式名称 | 仙台駅前エンドーチェーン E BeanS |
施設所有者 | 株式会社エンドーチェーン |
施設管理者 | 株式会社エンドーチェーン |
商業施設面積 | 16,775[42] m² |
中核店舗 | ソフマップ |
店舗数 | 約70店舗 |
営業時間 | 10:00 - 20:00 |
駐車台数 | 2397台(契約駐車場)台 |
前身 |
エンドーチェーン仙台駅前店 → SEIYO |
外部リンク | https://www.e-beans.jp/ |
1991年(平成3年)9月1日付で西友[注 3]が仙台駅前店を賃借・営業譲渡し、同年11月3日に「SEIYO(セイヨー)仙台店」[注 4]として営業を開始した[29]。
「SEIYO仙台店」の閉店後、1997年(平成9年)11月28日にカテゴリーキラーの都市型集積店舗を標榜する複合商業施設「EBeanS」として新装開店した[44]。 この新装開店時から、2階には渋谷109や新宿アルタなどに出店していた[33]10代の女性向け渋谷系ファッションテナントを集めたフロアとし[45]、その珍しいテナント構成で10代から20代の女性から高い支持を集めた[33]。 また、「さくらや」が地下1階と1階の3,300m2で出店していたほか[45]、スポーツ用品店ヒマラヤ(売場面積約2,922m2)や[46]6階と7階には[47]ジュンク堂書店(売場面積約2,795m2)などの大型専門店が入り[46]、全体では34店の店舗で構成されていた[44]。 [48] しかし、1997年(平成9年)3月8日にヨドバシカメラ仙台店(売場面積約2400坪、約40万品目、駐車台数約1,000台)が仙台駅東口に出店しており[49]、1998年(平成10年)11月26日にラオックス仙台店(売場面積約9,600m2)が同じく仙台駅東口に出店し[50][注 5]、激しい家電商戦を繰り広げたあおりを受けて業績が低迷した[51]、「さくらや」が1999年(平成11年)9月20日に閉店[52][注 6]。 同年11月27日には、1階のセシルマクビーなど渋谷109系ファッションのテナント39店が出店して新装開店した[45]。
また、その間の1998年(平成10年)に8階に「喜久屋書店仙台漫画館」が出店した[53]。
しかし、2011年の東日本大震災で被災し営業不可能な状況となったことから、エンドーチェーンが旧館(1964年竣工)と称する仙台駅側の4階より上の階を解体し、同社が新館(1972年竣工)と称する裏側の建物全体を含む残す部分についても耐震補強やリモデルを行い、屋上と化した旧館の旧4階は公開空中庭園となった。そして2011年11月18日に1階・2階フロアを除き一部が営業再開、2012年3月24日に全フロアが営業再開に至った。[要出典]
6階と7階に出店していた[47]ジュンク堂書店仙台店が2014年(平成26年)10月末に閉店[53]。
その後の改装で、1階に[53]同年11月21日にソフマップ仙台駅前店が出店し[54]、同年12月5日に喜久屋書店が5階と6階に移転して売り場面積を約300坪から約480坪へ増床すると共にコミック専門店から一般書も扱う総合書店へ業態転換して店名も「喜久屋書店仙台店」へ変更して新装開店した[53]。また同じ日には東北初出店となった紳士服店「洋服のサカゼン」もオープンした[55]。
2015年(平成26年)1月に7階と8階を改装して[53]、同月24日にそれまで仙台アメ横ビルに店舗を構えていたアニメショップ「アニメイト」がEBeanSに移転・出店したほか[55]、同ジャンルの店舗である「ゲーマーズ」「らしんばん」も移転・出店してサブカル系の店舗を集めて相乗効果を狙った[53]。
2022年(令和4年)12月16日、長らく社長を務めた遠藤養一氏が93歳で死去する。[56] 後任に妻の映子(えいこ)氏が社長に就任する。
現在の「EBeanS」は、かつて「エンドーチェーン仙台駅前店」として、仙台の消費文化の中心の役割を担っていた。[要出典] 1963年(昭和38年)11月23日開店[57]。 当時のエンドービルは、地下2階・地上6階建てであった[58]。ちなみに開業時点では、地下1階を「大吉」に、2階を「エコー」、3階を「陽光」に賃貸して、各々が別の店舗として営業していた[59]が、これは当時存在した「百貨店法」の規制から逃れるために各フロアを自社系列の別会社による出店とする手法で、同業他社でも一般化していたものである。[要出典]
1階正面入口に[58]東北放送と提携して東北地方初のサテライトスタジオを開設し[60]、12時15分から13時までのTBCラジオの『エンドーミュージックショーウィンドー』という番組の生放送を行い[60][61]、店内放送とラジオの放送エリア全域への宣伝を兼ねた[60]。 当初は仙台駅前の大通りに面した場所に、ガラス張りで店舗の外からも見えるスタジオがあり、1972年の新館オープン後は1階中心部に移動した。開店直後の1964年(昭和39年)3月23日から1991年(平成3年)8月10日まで、TBCラジオの『エンドーミュージックショーウィンドー』」という番組の生放送が行われた。この番組には石原裕次郎が映画『黒部の太陽』のプロモーションのために出演するなど、若手からベテランまで数多くの歌手・俳優・スポーツ選手らが連日出演し、全盛期には2階の吹き抜けからの見物客もたくさんいた。[要出典]「EBeanS」になってからも引き継がれていたが、2017年(平成29年)9月24日をもって53年の歴史に幕を閉じた[62]。また同時期にはTBCテレビでも『エンドーサテライトスタジオ』が放送されていた。[要出典]
駅前立地型の大型総合スーパー(GMS)である。ボウリング場、おもちゃ売り場、レストランなどがあった。荒井由実はデビュー当時の1974年(昭和49年)、サテライトスタジオや屋上広場ではなくフロアで拡声器を持ってプロモーション活動をしたことを本人が述懐している[63][64]。
「屋上スカイランド」とも呼ばれた。松田聖子、南野陽子、SMAPなどが来仙し、ミニコンサートが開催された。また、東映・東映動画とのタイアップによるキャラクターショーも、1980年代初め頃までは毎週末に行われていた。冬にはミニスケートリンク、夏場は「ジャブジャブ広場」と名付けられた足をつけるだけのプールなどを開いていた。勝つと4本セットのクルクル鉛筆、負けても4本セットの内の1本がもらえたジャンケン大会などが行われた。エンドーからSEIYOへの名称変更後は、屋上は基本的に開放しない状態が続いていたが、2008年の夏以降は期間を区切って限定的に開放し、再びイベントなどを開催するようになり、2011年11月18日の営業再開からは屋上が開放されるようになった。また、屋上へ向かう階段付近に過去のエンドーチェーン時代の写真が飾られている。[要出典]
店舗の北側の細道(仙台市道1247号「中央三丁目1号線」)は、仙台駅から仙台朝市に繋がる道であるため、行商がテントや板で簡便な露店を並べていた。[要出典]
東北新幹線開業(1982年)に合わせて1977年に仙台駅の新駅舎が完成し、1978年にはS-PALも開業したが、丸光隣の新東北ビルにあった緑屋やエンドーに対抗してS-PALにもサテライトスタジオが作られた。[要出典]
宮城県と岩手県では企画ネット番組『エンドーミュージックショーウインドー』が放送されていた[60][61]。TBCラジオでは、前述のように仙台駅前店に置かれたサテライトスタジオから毎日12時15分 - 13時00分に公開生放送を放送していた[60][61][注 7]。IBCラジオでは、後述のように盛岡駅前通店に置かれたサテライトスタジオから公開生放送をしていた。
TBCラジオでは他にも一社提供番組『ジャンボリクエストAMO[61](AMO東北ヒットパレード)』が放送されており、各地のラジオ局が休止する日曜深夜の放送ということもあってか、全国各地からリクエスト葉書が寄せられる人気番組となっていた。[要出典]
また、全盛期には、エンドーチェーン一社提供のテレビ番組が複数放映されていた。[要出典]
ミヤギテレビにて日曜の朝に放映された子供番組『ザ・ドッチラチン』では、ローカルタレントのヨースケくんや工作の「Q六先生」などを輩出し、毎週のように各地の小学校でドッジボール大会や相撲大会を開催して放送していた。番組内では当日にエンドーチェーンの各店舗で行われるイベントの告知も行われた。[要出典]
仙台駅前店の屋上で1973年(昭和48年)末から1年間ショーに出ていた『レインボー・アタックエース』は当社のオリジナルのローカルヒーローで[65]、ステージショー独自のものとしては元祖とされる[66]。 3分間のテレビの広告番組も制作され、番組内では『怪人ピラニアンと戦って助け、最後に「エンドーチェーンに行こう!」の決め台詞』というパターンで放映されていた[65]。
その他、1980年代頃までは東北放送(TBCテレビ)、仙台放送、テレビ岩手[注 8]、福島テレビなどで放送されていた日曜朝のアニメ・特撮枠のスポンサーとなっていた。[要出典]
東日本放送にて祝日の午前を中心に放送されていた『宮尾すすむの探検ショッピング』では、エンドーチェーンの店内を宮尾すすむが走り回り、目に止まった商品を無理やり値引きをするといった様子を放送していた。[要出典]
1980年代前半のテレビCMには、モデル事務所であるオスカープロモーションに所属する3人の女性によって結成されたパンジーがキャンペーンガールとして出演していた。[要出典]
エンドーが仕掛けたわけではないが、2007年5月24日に発売された本『ジミ都市仙台の本―杜の都へのナビゲーション』(大内順著、しののめ出版)には当時のエンドーが伝説として紹介され、現社長の遠藤養一が感激したという逸話がある。[要出典]
石原プロ制作テレビ朝日系で放映されたテレビドラマ『西部警察 PART-III』の宮城ロケ(第32話「杜の都・激震!!-宮城・前編-」1983年12月18日放映と、第33話「仙台爆破計画-宮城・後編-」1983年12月25日放映)で仙台市内各地でロケが行われ、その中で「エンドーチェーン」も登場した[67]。
劇中、渡哲也演ずる大門団長のセリフに「『エンドーチェーン店』です」(この時、通常のような「チェーン」の「ン」のみ下がる発音とは異なり、「エン」と「チェーン」の部分にアクセントの力点がおかれていた)というものもあり、当時の仙台駅前店でロケが行われ、サテライトスタジオ、ロゴマーク、店舗内などが映し出されていた。[独自研究?]
後編のクライマックスシーンでは、当時の仙台駅前店の駐車場(店舗に隣接したものとは別)に立てたステージと給水塔が使われた。同敷地は現在、SS30が建設されている。このエピソードは全国のテレビ朝日系列局やCS放送のファミリー劇場で再放送され、当時の様子を窺い知ることができる。また2012年、DVD-BOX『西部警察 PART-III セレクション 木暮BOX 1』に収録され発売された(レンタル版では第6巻に収録)。2014年1月には『西部警察 全国縦断ロケコレクション 福島・宮城篇』として単品でも発売された。[独自研究?]
2015年12月公開のアニメ映画『Wake Up, Girls! 続・劇場版後編 Beyond the Bottom』では、現在のエンドーチェーンのロゴの入ったEBeanSの建物(震災復旧後)館内でのイベントのシーンが静止画で映し出された。なお本作にはエンドーチェーンも協力しており、エンドロールには「仙台駅前 イービーンズ」名義でクレジットされている。また、同作品のメインキャストを演じる声優ユニットのWake Up, Girls!のメンバーである永野愛理(宮城県出身)と奥野香耶(岩手県出身)が、開館と閉館のアナウンスを行っている。この館内アナウンスの収録の模様は、2015年にテレビ東京で放送されたバラエティ番組『わぐばん!』で放映された。[独自研究?]
ピンキーとキラーズ、ジミー・オズモンド、森田公一とトップギャラン、チェリッシュなどといった有名アーティストを次々に起用し、オリジナルのCMソングを制作して前述の提供番組を中心にオンエアされていた。[要出典]
『黄金のファラオ展』(1984年(昭和59年)12月23日[68]~1985年(昭和60年)1月27日[68])、『大ヴァチカン展』[69]、『ツタンカーメン展』[要出典]、『大恐竜展』(1980年(昭和55年)9月12日から10月12日まで盛岡中央店で開催[70])、『大マンモス展』、『ザ・シーラカンス展』、『栄光のインカ帝国展』[要出典]、『大エジプト展』(1989年(平成元年)1月29日閉幕[71])、『プロ野球展』、『山下清展』、ほか多数。[要出典]
これらの催事では、触るのが可能な特定の展示物に触ると「○○タッチ証明書」(恐竜の化石では「サウロタッチ証明書」)なるものがもらえた。触れるものは化石の他、金の延べ棒などがあった。[要出典]
1970年7月25日には、仙台都市圏北部にある遊園地「富谷グリーンパーク[注 9]」を会場として『第1回エンドー夏まつり』が開催された(主催は東北放送)。当時の人気ドラマ「柔道一直線」の桜木健一・吉沢京子、同じく「サインはV」の岡田可愛・范文雀・中山麻里、それにフォーリーブス、金井克子、竹脇無我といった、当時の人気タレントを招いての大規模なイベントだった。[要出典]
1980年前後には東映・東映動画とのタイアップによる、当時の人気声優らを招いてのイベントも多く行われた。仙台東映(現在は閉館)を会場に、東映動画が製作した長編アニメーション映画の連続上映会(入場無料)も開催した。[要出典]
1984年(昭和59年)5月29日から6月4日まで、仙台駅前店駐車場で東宝映画「零戦燃ゆ」の為に復元された「零戦」が映画公開に先行して公開された[72]。
1991年に西友と業務提携したことに伴い、西友がセゾングループであった時代は、エンドーチェーンでも西武ライオンズ優勝セールを行っていた。
この節の加筆が望まれています。 |
かつて存在した店舗。現在は他店舗や別会社になっているもの、更地になっているものも含む。×印は、建物が解体された店舗。
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