多賀城市
宮城県の市 ウィキペディアから
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多賀城市(たがじょうし)は、宮城県のほぼ中央に位置する市である。1971年(昭和46年)市制施行。
旧宮城郡の範囲に当たる。仙台市の北東側に隣接するため、そのベッドタウンとしての性格も持ち合わせている。仙台市への通勤率は43.2パーセント(平成22年国勢調査)。
仙台市の北東に位置し、市街地は丘陵地帯上にある。市名の由来は古代国府の多賀城よりとられている。1942年(昭和17年)に海軍工廠が設置されて以降、市南部に工業立地が進んだ。仙台港の開港もこれに拍車をかけている。町は街道(国道45号)沿いに発展してきたため、商店はロードサイド店が多く、市の中心部が存在しないという特徴をもつ。仙台市中心部より鉄道をはじめアクセスが良好であることから、仙台都市圏の一角をなすベッドタウンとしても位置付けられ、市西部の水田地帯では住宅地の造成が進められている。1960年代には仙台市や多賀城町(当時)を含む広域合併を目指す仙塩合併議論もあったが、多賀城町が合併協議会から離脱してこの時の合併計画はなくなった。
平成27年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、1.53パーセント減の62,096人であり、増減率は県下35市町村中12位。40行政区域中17位。
多賀城市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 多賀城市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 多賀城市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
多賀城市(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
縄文時代前期には金堀貝塚があり[1]、晩期には松島湾に近い橋本囲貝塚などで盛んに製塩土器を使った塩作りが行なわれた[2]。 後の多賀城市域に限らず、松島湾沿岸は貝塚と製塩土器・遺構が集中して分布する地域であった。
弥生時代には、市内の五万崎地区から石包丁が出土している[3]。枡型囲貝塚で見つかった籾の痕跡を残した土器は、山内清男の論文「石器時代にも稲あり」を生み、考古学史上著名である[4]。市内の低地で水田稲作が営まれたと考えられるが、住居は見つかっていない。
古墳時代から竪穴建物の集落が確認できる。山王遺跡と隣接する新田遺跡は一続きの大きな集落で、他に高崎遺跡があり、後に多賀城廃寺が造られる場所にも小さな集落があった[5]。 付近には水田跡も見つかっている[6]。海岸の大代地区には漁業に従事する人々が暮らしていたようである[7]。
古墳時代の前期には、五万崎地区に方形周溝墓が営まれた[8]。古墳としては小型の円墳である稲荷殿古墳や丸山囲古墳が築かれたが、前者は7世紀後半、後者は年代不明である[9]。稲荷殿古墳が作られた時期には、崖に大代横穴墓群、橋本囲横穴墓群、田屋場横穴墓群といった横穴墓が盛んに作られた[10]。
それまで郡山遺跡にあった陸奥国府は、神亀元年(724年)に造営なった多賀城に移ったと推定されている[注釈 1]。しかし、720年代末期には石背国・石城国・陸奥国は合併され、現在の福島県から宮城県に及ぶ広い陸奥国が復活したが、多賀城はその広い陸奥国の国府であり続けた。
多賀城には9世紀初めまで鎮守府も置かれ、出羽国まで含めた東北地方の政治・軍事の中心都市であった。日本全体の中でも、西の大宰府に対応する東の政治都市として重要な位置にあった。
城郭の南には町が広がり、当時七北田川が合流して流量が多かった砂押川に橋がかけられ、舟による運送があった。
奈良時代から平安時代はじめまで断続的に続いた蝦夷との戦いの中で、宝亀11年(780年)には伊治呰麻呂の反乱で攻め寄せてきた軍勢により略奪放火されたが、すぐに再建された[13]。
多賀城は平安時代の10世紀半ばまで機能したが、発掘調査ではその後国府にあたるような規模の痕跡が見つかっていない。にもかかわらず多賀国府は南北朝時代まで依然として史料に現われるので、国府は多賀城のそばで中世都市の遺跡がある仙台市宮城野区岩切あたりに移動したと考えられている。
文治5年(1189年)、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすと、頼朝は伊沢家景と葛西清重を奥州惣奉行に任命した。伊沢家景は陸奥国留守職となり、多賀国府の留守所長官となった。その子孫は留守氏を称するようになり、現在の多賀城市を含む近隣を支配した。市域の南部には、在庁官人系の陸奥介氏(後に八幡氏)が所領を持った。
留守氏、八幡氏など国府付近の武士は、規模としては小さく、南北朝時代、戦国時代の争乱の中で自ら奥州の覇を争うことはできなかった。八幡氏は戦国時代に留守氏の家臣になり、留守氏は伊達氏に服属した。
伊達氏はおおよそ現在の山形県南部、福島県、宮城県南部を領土としていたが、伊達政宗が扇動した葛西大崎一揆の後、豊臣秀吉の仕置きによっておおよそ宮城県、岩手県南部へと北へ追いやられ、天正19年(1591年)に政宗は岩出山城を居城とした。 慶長5年12月24日(1601年1月28日)より伊達政宗は仙台城を居城として仙台藩62万石を築いた。
これ以降明治4年(1871年)の廃藩置県まで、現在の多賀城市域を含む宮城郡は仙台藩の一部となる。尚、現在の多賀城市八幡地区に当たる八幡村には伊達家の準一家である天童氏が居館を置き、一帯を治めた。
市内に集配拠点はなし。市内全域の集配業務は、塩竈市にある塩釜郵便局が担当している。
市外局番は仙台市などと同じ「022」である。多賀城市で利用されている市内局番は次のとおり。
この他、東北新幹線が仙台駅 - 古川駅間で当市を通過しており、新幹線総合車両センターの一部が当市にかかっている。
以前は全ての路線が宮城交通によって運行されていたが、多賀城東部線(ユーアイバス)を皮切りに宮交バスシステム(現:ミヤコーバス)への移管を進め、2008年8月に全ての路線がミヤコーバスでの運行となった。宮城交通が運行するのはイベント時の多賀城駅 - 夢メッセみやぎ間の臨時バスのみである。「ユーアイバス」は、現在塩竈市・多賀城市・七ヶ浜町の委託により運行。
奈良・平安時代に陸奥国府・多賀城がおかれていたため、多くの文化財や名所が残る。
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