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都を移すこと ウィキペディアから
遷都(せんと)は、都 [注釈 1](みやこ)を他所へうつす(遷す)こと[1]、都を替えること[1]を意味する漢字文化圏の語。日本語では古くは都遷り[2]/都移り[2](みやこうつり)とも言った[1]。反対に、かつて都であった場所に都を戻す(還す)ことは還都(かんと)と言い[2](cf. #還都の一覧)、日本語では古くは都還り(みやこがえり)とも言った。ただし、日本語に限っては、還都は遷都と同義で用いられる[2]こともある。現代では、首都機能の全部もしくは重要な一部を他に遷すことを指して首都機能移転という語も用いられる(後述)。
新しい都は新都(しんと)[2][3]、過去の都(一代前の都やそれ以前の都)は旧都(きゅうと)と言う[2][3]。旧都は「古い都」を意味する古都/故都(こと)と類義ではあるが[2][3]、強調点はそれぞれに異なり、前者は「過去」を、後者は「時の積み重ね」を含意する。廃された都(廃される都も同じく)、および、廃墟と化した都は、廃都(はいと)と言う[4]。
都をさだめる(奠める、定める)こと[2][3]、都を建設すること[2]は、初であるか以前がどうであったかとは別義に、奠都(てんと)と言う[2][3]。都を定めることは定都(ていと)とも言う[5](用例:北京定都[4])が、鴨長明が『方丈記』のなかで「嵯峨の御時 都定まりける(解釈:〈平安京に遷都した桓武天皇より2代後の〉嵯峨天皇治世下のこの時〈すなわち、平城還都派最後の抵抗を制圧した薬子の変の事後〉になって都は定まった。cf. #平城還都の詔)」と述べているように、法的に都が決められたり遷されたりした後も都づくりは続けられ、都として政治的に安定を見たときにようやく「都が定まる」という概念でもってこの語が用いられることもある[5]。都を建設する、そのこと自体は建都(けんと)と言う[2][4]が、「時と人が都を育んでゆく」などといった抽象的な意味を含めて「都を形づくってゆくこと」を指す場合もある(用例:平安建都1200年)[5]。
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遷都や首都移転の例としては、主として以下のパターンがある。
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長距離の首都移転としては、ポルトガル王国が行政首都(宮廷)をリスボンから大西洋を渡ったブラジルのリオデジャネイロへ移転させた1808年の例と、その後、リオデジャネイロからリスボンに帰還した1821年の例がある(cf. #ポルトガル王国)。
紀元前11世紀以前に興った著名な国家における首都の変遷。
紀元前10世紀からキリスト紀元までに興った著名な国家における首都の変遷。
現代の日本では、「遷都」は、「首都の移転」や「政府の場所をうつす」や「国会が開催される場所を移す」などの意味で使われることがある。ただし、日本の歴史上の「都」がそのまま、現代の「首都」と同義であるかについては議論もある。
古墳時代以後、『日本書紀』によれば大化元年(645年)6月、中大兄皇子らが政変を起こし、新たな政治体制が構築された(乙巳の変)。新政府は同年12月9日に難波長柄豊碕宮に遷都を行い、翌大化2年(646年)元日、孝徳天皇は改新の詔を発しその第2条で「初修京師」と初めて首都を定め、難波長柄豊碕宮を日本初の首都とした。
斉明天皇元年(655年)1月、斉明天皇は難波長柄豊碕宮遷都以前の宮である板蓋宮で即位、都は飛鳥に戻った[8]。その後、同年冬には川原宮に、翌斉明天皇2年(656年)には後飛鳥岡本宮と飛鳥の中で首都が営まれた[9]。天智天皇は白村江の戦い敗北後の天智天皇6年(667年)、内陸部の近江大津宮に遷都を行ったが、壬申の乱の後の天武天皇元年(672年)、飛鳥浄御原宮に遷都。都は再び飛鳥に戻った[10]。
天武天皇12年(683年)12月17日、天武天皇は「複都制の詔」を発した。まず難波長柄豊碕宮廃絶後も外交拠点として存続していた難波宮を副都とし、更に畿内と信濃国に副都を設けるために使節を派遣した[11]。しかし畿内と信濃への副都設置は実施されることなく終わった。
藤原京遷都は難産だった。『日本書紀』の藤原京遷都に関する最初の記述は天武天皇5年(676年)の「新城」建設に関するものである[12]。その後、遷都計画は中断と再開を重ねた後[13]、持統天皇8年(694年)12月に藤原京への遷都が行われた[14]。
藤原京は日本で初めて条坊を整備した画期的な都であったが、その地勢の悪さから破棄され[15]、和銅3年(710年)3月10日、元明天皇は平城京に遷都を行った。平城遷都に関しては「大宝律令」の制定を契機に、中央集権国家にふさわしい首都を建設しようとしたともされている[16]。平城京は藤原京に続いて条坊を備えた本格的な都城として造営された。
天平12年(740年)、聖武天皇は伊勢国、美濃国と関東を行幸後、平城京へ帰途の途中の同年12月15日、恭仁京に遷都を行った[17]。その後、天平16年(744年)2月26日に難波京 [18]、更に天平17年(745年)1月には紫香楽宮へと目まぐるしく都を移転させた後、同年中に平城京へ帰還した[19]。
延暦3年(783年)11月11日、桓武天皇は長岡京遷都を行った[20]。しかし延暦13年(794年)に6、8月と続けて水害に見舞われ同年中に平安京に都を移した[21]。
延暦13年(794年)10月22日、桓武天皇は新たに平安京を都に定めた[22]。
それから約四百年後の治承4年(1180年)6月2日、平清盛は福原京遷都した[23]。しかし福原京は短命に終わり、同年11月25日には平安京に再遷都された[24]。その後京都は千年以上日本国の首都であり続けたが、維新政府は明治時代になって江戸を東京と改め、ここを首都とした。
遷都先 | 施行日 | 備考 |
---|---|---|
板蓋宮 | 斉明天皇元年(655年)1月 | |
川原宮 | 斉明天皇元年(655年)冬[9] | |
後飛鳥岡本宮 | 斉明天皇2年(656年)[9] | |
近江大津宮 | 天智天皇6年(667年)3月19日[25] | |
飛鳥浄御原宮 | 天武天皇元年(672年)冬[26] | 天武天皇12年(683年)12月17日、詔により難波宮を副都とする[11]。 |
藤原京 | 持統天皇8年(694年)12月6日[14][13] | |
平城京 | 和銅3年(710年)3月10日[27] | |
恭仁京 | 天平12年(740年)12月15日[17] | 聖武天皇「彷徨5年」の始まり。 |
難波京 | 天平16年(744年)2月26日[18] | |
紫香楽宮 | 天平17年(745年)1月[19] | |
平城京 | 天平17年(745年)9月11日[19] | |
長岡京 | 延暦3年(784年)11月11日[20] | 複都制終了。 |
平安京 | 延暦13年(794年)10月28日[22] | |
福原京 | 治承4年(1180年)6月2日[23] | |
平安京 | 治承4年(1180年)11月25日[24] | |
東京 | 慶応4年/明治元年(1868年)? | 施行日不明。 |
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