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日本の女性作家 ウィキペディアから
神奈川県横浜市出身[2]。幼稚園時代は、他の子ども達よりも小柄でうまく話せず、失禁や鼻水を垂らすなどの行動があった。そのため周りからおかしい子どもと勘違いされ、それがコンプレックスであった。このコンプレックスが自身を本好きにさせた理由と角田は自己分析している[3]。当時は、まだ字が読めなかったので、絵本から入ったという[3]。昔のコンプレックスは未だ残っていると角田は感じており、「いい加減忘れたいのに忘れられない、恨んでいる」「今でもちゃんと喋れている気がしない」「何かできているとしても、普通の人よりはできないという思いがある」と語っている[3]。
作家を志したのは小学校1年生の時であった。他には特になりたい職業がなかったという[4]。大学2年の時、初めて小説を書く。角田によれば失恋した直後であり、それを主題としたという[4]。初めての作品を秦恒平に褒められたため、角田は「いい気になって次々書き始めた」と語っている[4]。角田は一途に作家になることだけを夢見ており、大学を「職業訓練所」という施設として見ていた[5]。
捜真小学校[2][6] から捜真女学校中学部・高等学部を経て[7]早稲田大学第一文学部文芸専修卒業[8]。大学では学生劇団『てあとろ50'』に所属[9]。大学在学中の1988年、彩河杏名義で書いた『お子様ランチ・ロックソース』で上期コバルト・ノベル大賞受賞。ジュニア小説というジャンルでのデビューだったが、これは自分が望んでいたジャンルでは無かったとのちに語っている[10]。
大学卒業から1年後の1990年、『幸福な遊戯』で第9回海燕新人文学賞を受賞し、角田光代としてデビュー[8]。このとき、同時に受賞した松村栄子に注目が集まり、松村の作品が芥川賞候補になったのを見て、角田は非常に強い羨望を抱いた[11]。角田曰く、20代後半に差し掛かり「書いても書いてもあるサイクルから抜け出せない」状態に陥った[11]。その後、純文学の文芸誌以外の物書きを始め、それが転機となる[11]。
海燕の当時の編集長からは、「作品が厭世的すぎる。もっと希望のある内容を書け」と長年指摘されていた。角田はそれに薄々理解をしていたが認めたくなかったと語っている[12]。『空中庭園』に対して、久世光彦がBRIOに書いた書評も転機となったという。久世は『空中庭園』を褒めながらも、最後に「だから何なの?」と指摘しており、角田は衝撃を受けた[12]。そして、「薄々理解をしていたが認めたくなかった」ことが、この久世の指摘で一気に分かった、と語っている[12]。
1996年に『まどろむ夜のUFO』で野間文芸新人賞を受賞したほか、数度芥川賞の候補に挙がった。2005年、『対岸の彼女』で第132回直木三十五賞受賞[13]。『キッドナップ・ツアー』など児童文学も手がけている。
2006年、芥川賞作家である伊藤たかみとの結婚発表がなされたが、2008年には一部雑誌で離婚が報じられる[14]。2009年10月、ロックバンドGOING UNDER GROUNDのオフィシャルウェブサイトにてドラマーの河野丈洋との再婚が発表された[14][15]。
「」内が角田光代の作品
文・エリック・サンヴォワザン / 絵・マルタン・マッジェ
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