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日本の小説家 (1930-1989) ウィキペディアから
開高 健(かいこう たけし/かいこう けん[2]、1930年〈昭和5年〉12月30日 - 1989年〈平成元年〉12月9日)は、日本の小説家。組織と人間の問題を扱った『パニック』『裸の王様』や、ベトナム戦争取材の体験をもとにした『輝ける闇』などがある。また趣味の釣りについて世界各地での体験を綴ったエッセイ『フィッシュ・オン』『オーパ!』などでも知られる。
開高 健 (かいこう たけし) | |
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扶桑社『週刊サンケイ』2月16日号(1958)より | |
誕生 |
1930年12月30日 日本 大阪市天王寺区 |
死没 |
1989年12月9日(58歳没) 日本 東京都港区三田(東京都済生会中央病院)[1] |
墓地 | 円覚寺 |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(法学) |
最終学歴 | 大阪市立大学法文学部 |
活動期間 | 1957年 - 1989年 |
ジャンル | 小説・随筆 |
代表作 |
『裸の王様』(1957年) 『日本三文オペラ』(1959年) 『輝ける闇』(1968年) 『夏の闇』(1971年) 『破れた繭』(1986年) 『夜と陽炎』(1986年) |
主な受賞歴 |
芥川龍之介賞(1958年) 毎日出版文化賞(1968年) 川端康成文学賞(1979年) 菊池寛賞(1981年) 日本文学大賞(1987年) |
デビュー作 | 『パニック』(1957年) |
ウィキポータル 文学 |
大阪市天王寺区で父・正義、母・文子との間に長男として生まれる。7歳の時に住吉区北田辺(現・東住吉区)へ転居。子供時代は、紙芝居と本が好きで、江戸川乱歩、山中峯太郎、海野十三などを読んでいた[3]。1943年4月に旧制天王寺中学校(現・大阪府立天王寺高等学校)へ入学、勤労動員の合間に内外の文学作品を乱読した。5月に国民学校教頭であった父が死去する。
第二次世界大戦後に旧制大阪高等学校文科甲類(英語)に入学するが、学制改革により1年で旧制高校を修了し、大阪市立大学法文学部法学科(現・法学部)に入学した。リルケ『マルテの手記』や、サルトル『嘔吐』を読んで衝撃を受け、『嘔吐』はその後も繰り返し愛読し[4]、戦後の作家では大岡昇平や武田泰淳をよく読んだ。当時の文学論の仲間に高原慶一朗がおり、大学在学中、谷沢永一主宰の同人誌『えんぴつ』に参加。1951年に処女長編小説『あかでみあ めらんこりあ』を私家版として友人間に配った[5]。またパン焼き工や旋盤見習い工として町工場を転々とした[6]。1952年1月、同人仲間だった詩人牧羊子(壽屋勤務)と結婚。同年7月13日に、長女開高道子が誕生。1953年2月、大学在学中に洋書輸入商の北尾書店に入社。1953年12月1日に大阪市立大学卒業。
1954年(昭和29年)2月22日、洋酒会社壽屋(現サントリー)社員であった羊子が育児のため退社するのに伴い、後任者として壽屋宣伝部に中途採用。 1956年(昭和31年)には東京支店に配属[7]、文案家(コピーライター)として働き、PR誌『洋酒天国』の編集やウイスキーのキャッチコピー(トリスウイスキーの「人間らしくやりたいナ」が有名)を手がける。『洋酒天国』は開高の編集した4年間で発行部数が1万部から13万部になった[8]また1954年から「円の破れ目」などの習作を『近代文学』誌に発表。自然主義、心理主義、アナキズムといった潮流に限界を感じ始め、1957年に「シチュエーションの文学」を意図して、野ネズミの大発生を題材にした「パニック」を執筆、佐々木基一の計らいで『新日本文学』に発表され商業誌デビュー、寓話作家とも呼ばれた[9]。続いて伊藤整に始まる「組織と人間」論のモデル作品とも見られる「巨人と玩具」「裸の王様」を発表[10]、「裸の王様」で1958年芥川賞を受賞。これを機に壽屋を退職し(1963年まで嘱託契約)、執筆業に専念する。
遅筆で知られ、受賞後第一作となる「文學界」から依頼された原稿を、締め切り間近になっても上げることができなかった。開高は先に 講談社の『群像』に提出していた原稿を持ち帰り「文學界」に提出してその場を凌いだ。しかし、講談社の怒りを買って絶縁状を叩き付けられ、16年もの間講談社から干されてしまう[11]。大阪の軍需工場跡から鉄屑を持ち出す”泥棒部落”、”アパッチ族”とも呼ばれた集落を取材し、『日本三文オペラ』を発表。
1960年、中国訪問日本文学代表団(野間宏団長)の一員として大江健三郎らとともに中国を訪れ、毛沢東、周恩来らと会見。随筆『地球はグラスのふちを回る』では当時の大江とのエピソードが記されている。帰国後またヨーロッパを訪問し、大江健三郎とともにパリでサルトルと面会。
1964年11月15日、朝日新聞社臨時特派員として戦時下のベトナムへ。サイゴンのマジェスティック・ホテルを拠点にベトナム共和国軍(南ベトナム軍)に従軍して最前線に出た際、反政府ゲリラの機銃掃射に遭うも生還。総勢200名のうち生き残ったのは17名であった。このとき一時は「行方不明」とも報道された。この時のルポルタージュ『ベトナム戦記』を発表、その後3年をかけて凄烈な体験をもとに小説『輝ける闇』を執筆。『夏の闇』『花終わる闇(未完)』とともに3部作となる。
帰国(1965年2月24日)後は小田実らのベ平連に加入して反戦運動をおこなったが[12]、ベ平連内の反米左派勢力に強く反発し脱退、過激化する左派とは距離を置くようになる。その後は保守系の立場をとり、後に谷沢永一や向井敏などの右派系文化人を世に出した。
熱心な釣師でもあり、日本はもちろんブラジルのアマゾン川など世界中に釣行し、様々な魚を釣り上げ、『フィッシュ・オン』『オーパ!』など釣りをテーマにした作品も多い。現在では浸透している「キャッチ・アンド・リリース(釣った魚を河に戻す)」という思想を広めたのも開高だといわれている。また食通でもあり、食と酒に関するエッセイも多数ある。
1974年から神奈川県茅ヶ崎市に居住。1982年から『週刊プレイボーイ』の読者からの人生相談コーナー「風に訊け」を連載。この中で、開高健という名前について「一切名詞が入っていない珍しい名前で気に入っている」と綴り、開高健を「かいた、かけん=書いた?書けん!」と変読みした読者からの投稿を非常に気に入り、度々サインの際に引用していた。
1989年、食道癌の手術後、『珠玉』を脱稿するも東京都済生会中央病院に再入院、食道腫瘍に肺炎を併発し死去[1][13]。58歳没。墓所は鎌倉・円覚寺塔頭、松嶺院にある。死後、開高の業績を記念して、1992年から2001年までTBSブリタニカ(現阪急コミュニケーションズ)が開高健賞を、2003年から集英社がノンフィクションを対象に開高健ノンフィクション賞を創設した。2000年1月に羊子夫人が没し、その妹により16年間を過ごした邸宅が茅ヶ崎に寄贈され、開高健記念館として開設された。
『パニック』は、笹の開花と野ネズミの大量発生に関する新聞の科学記事を見て、関連資料を調べて執筆した。『パニック』では自然界の物理的エネルギー、『裸の王様』では個人を圧殺する組織のメカニズムに対して、それらに対抗できる人間の生命力を求めた作品となっている。平野謙が「『組織の中の人間』というかつての逃亡奴隷が思ってもみなかった運命にまず着目すること、それ以外に私どもの生き抜く道はあるまい」という発見を述べたのが1955年だったが、これは「開高健のような戦後世代には自明の前提だったのではないか」と佐々木基一は評している[10]。『片隅の迷路』では、徳島ラジオ商殺し事件を取り上げて小説化したが、新聞連載中にアイヒマン裁判が起きたためエルサレムに裁判の傍聴にも行った。
『ベトナム戦記』連載の後、東西に分裂した架空の国を舞台にした寓話の形の『渚から来るもの』を『朝日ジャーナル』で連載し、ルポルタージュ作家としてではなく、開高健が「人間にある闇を見なければならなかった作家」として「決定的に変化し、その作用的結果として書かれた作品」とも評されるが(中田耕治[14])、自身でこれを「惨敗」として、再度1年かけて書き下ろし、ハイデッガーが現代を表した言葉をタイトルにした『輝ける闇』を執筆した[15]。『輝ける闇』に三島由紀夫は「すべてを想像力で描いたのなら偉いが、現地に行って取材してから書くのでは、たいしたことではない」と評したが、秋山駿はこれを「旧世代の文学観」とし、「現実を見れば見るほど、凝視すればするほど、反って現実の形が解からなくなり、同時に、視ている自分という主体までが混乱し、解体し、訳の分からぬものになってくる」のであり、この作品がそういう認識の変貌を示す新世代の現代文学だと述べている[16]。『ニューヨーク・タイムズ』では『輝ける闇』について「ベトナム戦争の風景が、音が、においが、名手の手で初めて作品化された」「これほどいきいきしたベトナム報道を、私はみたことがない」と書かれ、『夏の闇』の英訳版について英米では安部公房とともに日本で最も重要な作家とも評された[17]。ベトナムにはその後1968年と1973年にも取材に行き、また中東やビアフラ戦争に取材し、それらを題材にした短編は『歩く影たち』に収められている。
『新しい天体』は、「純粋に食べることの快楽を描くのみで長編小説を構築するという破天荒な試み」の「巧緻極まる独創的な文学作品」である「食味小説」といわれる(谷沢永一)[18])。
1963年から『週刊朝日』連載のルポルタージュ『日本人の遊び場』『ずばり東京』の評判が高かったため、『週刊朝日』はベトナム戦争の取材を依頼し、『ベトナム戦記』として連載した。『輝ける闇』執筆の頃から、運動不足解消のために少年時代以来の釣りを始め、日本各地を回るようになり、1968年のヨーロッパ訪問時にボンの釣具店主にルアーフィッシングの手ほどきを受ける[19]。その後の戦争取材を含む海外取材先では釣りも計画に組み込み、カメラマン秋元啓一を同行し、アラスカでの鮭釣りからスウェーデンなどの北欧、ナイジェリア、中東、東南アジアなどを巡り、タイのライ島で桟橋から落ちた時に右足の甲を骨折して帰国、これらの釣りの経験をルポルタージュにして『フィッシュ・オン』として刊行。この『フィッシュ・オン』をサンパウロ大学教授・人文研究所長であった斉藤広志が読み、日本語学校講師をしていた醍醐麻沙夫を通じてアマゾン川での釣りを誘われ、『PLAYBOY』誌の企画として、カメラマン高橋曻を同行してツアーを敢行し、『オーパ!』として連載した。これらは釣りを通じて各土地における「自然を語り、人間を語るすぐれたレポート」(菊谷匡祐)となっている。『オーパ!』は2年間に10万部の売り上げを記録し、高橋曻はこれにより木村伊兵衛写真賞候補となった[17]。
その後『週刊朝日』で南北アメリカ大陸をアラスカからフエゴ島まで9ヶ月かけて縦断し、『もっと遠く!』『もっと広く!』の2冊として刊行。この時はサントリーの佐治敬三にスポンサーになってもらい、テレビCMにも出演した。このCMはアラスカ鉄道の線路で旗を振って列車を止める(フラッグ・ストップ)というもので、これを見て日本の若者たちがアンカレッジにおしかけて真似をしたため、アラスカ鉄道では一時時刻表を変更することになった。それからまた『PLAYBOY』で『オーパ!』のPARTⅡを最後の釣り旅行としてやることになり、『オーパ、オーパ!!』として刊行した。[20]
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