- ふたりの兄(常見昇、常見茂)もプロ野球に進んだ野球人で、桐生の常見三兄弟と呼ばれた。
- 銀山湖に初めて持参したルアーは1966年2月に日本橋三越の釣り具売り場で買ったもの。当時進駐軍の兵士のために置かれていたもので、店のスタッフはまったく知識がなく、同時にすすめられたタックルは、スピニングロッドにスピンキャスティングリールであった。当時誰もルアーを知らず、銀山湖に同行した釣友はそんなブリキのオモチャで釣れるはずがないと笑った。
- 1970年ごろルアーブームでスプーンが手に入らなくなり、さらには舶来信仰への反骨精神からスプーンの手作りに着手。銅板を金切りバサミで切り、木で作ったオスメス型でカーブを付けて試作を繰り返し、のちのスプーンメーカー立ち上げにつながっていく。
- 開高健との交友で知られる。出会いのきっかけは1967年に「つり人」に書いた銀山湖の記事を、1968年に欧州でルアーフィッシングをおぼえて帰ってきた開高健が目にしたこと。開高健は速達で釣りの教えを請う手紙を送ってきた。翌1969年3月29日丸沼に初めて共に釣行し開高はここで65cmのニジマスを釣る。その魚はスウェーデンの釣り具会社ABUのタイトライン・コンテスト金賞となった。
- 開高健の釣りの師匠と紹介されることがあるが、本人はこれを否定「親友でありライバル」と語っていた。
- 開高健のビデオ『河は眠らない』のロケでは開高を上回る69ポンドのキングサーモンを釣っている。
- アラスカへの釣行は1977年から2003年まで25回に及んだ。
- 1987年、ベースボール・マガジン社の顧問となり、8年にわたりシベリアへ積極的に遠征する。1987年にはクール川で2m級のタイメンを掛けるも仕留めるために放ったガイドのピストルの弾がラインに当たり逃がす椿事が発生した。1989年には同社社長池田恒雄の紹介で元読売巨人軍の川上哲治との釣行が実現。1992年には日本では幻のサクラマスをトゥムニン川で開拓した。
- シベリアの次は1993年にカムチャツカへ遠征隊を組んで釣行。現地受け入れ態勢が整っておらず、成果は上がらなかったが、当地の釣り開拓の道筋になった。
- キングサーモンはアラスカで釣れるサケの王様と見ていたが、アラスカ遠征の初期にフロック的に釣れたのと『河は眠らない』のロケでエサで釣ったのみだった。そのため、1996年1997年とスプーンでの釣行に再挑戦し、その模様をビデオ『鮭王よ、永遠に』に収めた。スプーンの神様との異名を持つ。
- 『最新ルアー釣り場集』つり人社(1975年)
- 『ルアー野郎の秘密釣法』廣済堂出版(1979年)
- 『ルアー・フィッシング』平凡社カラー新書(1981年)
- 『ルアー・テクニック』西東社(1982年)
- 『忠さんのルアー・フィッシング』ベースボール・マガジン社(1992年)
- 『忠さんのスプーン人生』地球丸(2012年)
- 『河は眠らない』(1984年)開高健と出演。
- 『鮭王よ、永遠に』(1998年)