ビアフラ戦争

ナイジェリアのイボ人を主体とした東部州がビアフラ共和国として分離独立を宣言したことにより起こった戦争 ウィキペディアから

ビアフラ戦争(びあふらせんそう、英語: Nigerian Civil War)は、1967年から1970年にかけて勃発したナイジェリア内戦であり、同国旧東部州イボ人ビアフラ共和国として分離独立を行った事で勃発した独立戦争である。独立を認めないナイジェリアによる封鎖で多くのビアフラ国民の民間人餓死した事で知られる。別名「ナイジェリア戦争」とも呼ばれる[1]

概要 ビアフラ戦争, 交戦勢力 ...
ビアフラ戦争
戦争:ビアフラ戦争[1]
年月日1967年5月30日1970年1月15日[1]
場所:ナイジェリア、旧東部州(ビアフラ共和国)[1]
結果:ナイジェリア連邦政府側の勝利。ビアフラ軍は無条件降伏し、ビアフラ共和国は崩壊[1]
交戦勢力
交戦当事国
ナイジェリア
支援国
イギリス
ソビエト連邦
アメリカ合衆国
アラブ連合共和国
コンゴ民主共和国
カメルーン
ニジェール
セネガル
シエラレオネ
エチオピア帝国
アルジェリア
ソマリア
シリア
サウジアラビア
イスラエル
ブルガリア
交戦当事国
ビアフラ共和国
支援国
フランス
中華人民共和国
コートジボワール
ガボン
タンザニア
ローデシア
南アフリカ共和国
西ドイツ
スペイン
ポルトガル
チェコスロバキア
バチカン
イスラエル(1968年から)
ハイチ
指導者・指揮官
当事国指導者
ヤクブ・ゴウォン
ハッサン・カツィナ英語版
モハンメド・シュワ英語版
ベンジャミン・アデクンレ英語版
テオフィルス・ダンジュマ英語版
シェフ・ムサ・ヤラドゥア英語版
ムルタラ・ムハンマド
オルシェグン・オバサンジョ
ムハンマド・ブハリ
イブラヒム・ババンギダ
サニ・アバチャ
支援国指導者
ハロルド・ウィルソン
レオニード・ブレジネフ
リンドン・ジョンソン
リチャード・ニクソン
ガマール・アブドゥル=ナーセル
モブツ・セセ・セコ
アマドゥ・アヒジョ
アマニ・ディオリ
レオポール・セダール・サンゴール
デイビッド・ランサナ
シアカ・スティーブンス
ハイレ・セラシエ1世
ウアリ・ブーメディエン
アブディラシッド・アリー・シェルマルケ
モハメド・シアド・バーレ
サラーフ・ジャディード
ファイサル・ビン・アブドゥルアズィーズ
レヴィ・エシュコル
トドル・ジフコフ
当事国指導者
チュクエメカ・オジュク
フィリップ・エフィオン英語版
アルバート・オコンクォ英語版
ロルフ・シュタイナー英語版
タフィー・ウィリアムズ英語版
ヤン・ズムバッハ
カール・グスタフ・フォン・ローゼン
リン・ガリソン英語版
ロジェ・フォルク英語版
支援国指導者
シャルル・ド・ゴール
ジョルジュ・ポンピドゥー
毛沢東
フェリックス・ウフェ=ボワニ
レオン・ムバ
オマール・ボンゴ・オンディンバ
ジュリウス・ニエレレ
イアン・スミス
バルタザール・フォルスター
クルト・ゲオルク・キージンガー
ヴィリー・ブラント
フランシスコ・フランコ
アントニオ・サラザール
マルセロ・カエターノ
アントニーン・ノヴォトニー
アレクサンデル・ドゥプチェク
グスターフ・フサーク
パウロ6世
レヴィ・エシュコル
ゴルダ・メイア
フランソワ・デュヴァリエ
戦力
ナイジェリア軍
120,000人(1970年時点)[2]
ビアフラ軍
30,000人(1970年時点)[2]
損害
35,000人-50,000人戦死[2] 10,000人-25,000人戦死[2]
民間人2,000,000人餓死[1]
冷戦
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また当時は冷戦中であったためイギリスソビエト連邦などがナイジェリア連邦政府側を支援し、フランス中華人民共和国などがビアフラ独立運動側を支援するなど大国がそれぞれの思惑に基づいて両勢力を支援し支えた事で戦争は長期化し、多くの犠牲者を生んだ事は批判の対象となった[1]

概要

要約
視点
Thumb
ビアフラの封鎖によって引き起こされた飢饉のため、栄養失調となった子供。ビアフラに対する世界的な同情を喚起した。

厳しい飢餓と、栄養不足から来る病気北部州における虐殺により、少なくとも150万人を超えるイボ人が死亡した。

ナイジェリアには北部のイスラム教徒主体のハウサ人、西部のイスラム/キリスト教混合のヨルバ人、東部のキリスト教主体のイボ人の三大民族が、その他の多くの少数民族ともに存在した。イギリス植民地時代には、イボ人は比較的教育レベルが高く、下級の官吏軍人を多く輩出し、また商才もあり「黒いユダヤ人」と呼ばれることもあった。

1960年にナイジェリア連邦として独立後は、東部に原油が発見され、イボ人地域は工業化が進み他地域との経済格差は広がっていた。北部のハウサ人政治家はヨルバ人の一部政治家と連携し、連邦を支配しようとした。

1966年、軍のイボ人主体の中堅将校が、クーデターを起こし、北部系の政治家、高級軍人を殺害したが、同じイボ人出身の軍司令官であるジョンソン・アグイイ=イロンシ将軍に鎮圧された。イロンシ将軍は、臨時政府を作り、イボ人を多く登用した。しかし、臨時政府が連邦制廃止を打ち出した後、北部ではイボ人に対する反発が強まり、数千人のイボ人が殺害され、イロンシ将軍も、ハウサ人の下級将校の襲撃を受けて殺害された。北部出身のゴウォン中佐軍事政権を握り、イボ人出身の軍人を殺害・追放した。北部におけるイボ人への迫害は一層強くなり、1万を越えるイボ人が殺害され、100万人近い難民東部州に逃れてきた。東部州の軍政知事だったチュクエメカ・オドゥメグ・オジュク中佐は、州内の連邦資産を接収し、税収を全て東部州で管理することにし、独立性を強めた。これに対し、連邦は東部州の分割を狙ったため、1967年5月30日オジュク中佐は、「ビアフラ共和国」として東部州の独立を宣言した。

直ちに、連邦軍は攻撃を開始したが[3]、ビアフラ軍の士気も高く、戦況は膠着状態を示した。ビアフラにはフランス南アフリカ等が支援したが、大部分の国はビアフラに同情する一方で消極的ながら正規政府である連邦を支持。特に旧植民地の分割化を望まないイギリスと、アフリカへの影響力強化を狙うソ連は、積極的に連邦を支援した。また、ビアフラ側で戦った少数の白人傭兵が、後々のアフリカ各地の紛争にも顔を出しており、勇名をはせた者も悪名で鳴らした者もいる。また、連邦軍でも東ドイツから派遣されたパイロットや、西欧からの傭兵が採用されていた。

1968年に入ると、連邦軍がビアフラを包囲し、食料、物資の供給を遮断したため、ビアフラは飢餓に苦しむことになった。各国の記者がさかんに報道したため、赤十字などの支援は行われたが、早期決着を目指す連邦側がそれらの救援も妨害し、ビアフラの飢餓は危機的な状況に陥った。

弾薬、装備の不足も深刻になり、1970年1月9日、ついにオジュク将軍はコートジボワールに亡命し、ビアフラは降伏し、そのまま崩壊に向かった。

他のアフリカ内戦の例と比較して、ハウサ人による報復や虐殺は少なく、国民和解の方針が採られた。しかし、少なくとも150万人以上の人間が、飢餓、病気、戦闘によって死亡したとされている。当時、各国の新聞に掲載された「骨と皮にやせ細っているが、お腹だけが異様に膨らんでいる子供達」の姿は世界中に衝撃を与え、ビアフラという言葉は飢餓と同義語として使われるようになった。

脚注

関連項目

外部リンク

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