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1904-1951, 小説家 ウィキペディアから
林 芙美子(はやし ふみこ、1903年〈明治36年〉12月31日 - 1951年〈昭和26年〉6月28日)は、日本の小説家[1][2][3][4]。本名フミコ[5]。身長140cm少々[6]。
林 芙美子 (はやし ふみこ) | |
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『花のいのち 小説・林芙美子』(1958年)より | |
誕生 |
林フミ子 1903年12月31日 日本・山口県下関市、福岡県門司市 |
死没 |
1951年6月28日(47歳没) 日本・東京都新宿区下落合 |
墓地 | 萬昌院功運寺 |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 尾道市立高等女学校 |
活動期間 | 1928年 - 1951年 |
ジャンル | 小説・随筆・詩 |
代表作 |
『蒼馬を見たり』(1929年、詩集) 『放浪記』(1928年 - 1930年) 『風琴と魚の町』(1931年) 『清貧の書』(1933年) 『晩菊』(1948年) 『浮雲』(1951年) 『めし』(1951年) |
主な受賞歴 | 女流文学者賞(1948年) |
デビュー作 | 『放浪記』 |
ウィキポータル 文学 |
幼少期からの不遇の半生を綴った自伝的小説『放浪記』(1928年)で一躍人気作家となる[1][2][5][7][8]。詩情豊かな文体で、暗い現実をリアルに描写する作風[5][9]。一貫して庶民の生活を共感をこめて描き[1][2]、流行作家として明治・大正・昭和を駆け抜けた[3]。作品に『風琴と魚の町』(1931年)、『晩菊』(1948年)、『浮雲』(1951年)などがある[1][5]。
著書『放浪記1 林芙美子文庫』の後書きでは山口県下関市生まれ[4]となっている。尾道市立高等女学校(現・広島県立尾道東高等学校)卒[5][6]。私生児として生まれ、養父・実母と共に行商を営みながら日本の各地を放浪する生活の中で、露天商やカフェの女給等の様々な職業を経験している[6]。実際につけていた日記をもとにした『放浪記』がベストセラーとなり、以後も詩集『蒼馬を見たり』や、『風琴と魚の町』『清貧の書』などの自伝的作品で文名を高めた[9]。その後、『牡蠣』などの客観小説に転じ、戦中は大陸や南方に従軍して短編を書き継いだ。戦後、新聞小説で成功を収め、短編『晩菊』や長編『浮雲』『めし』(絶筆)などを旺盛に発表[9]。貧しい現実を描写しながらも、夢や明るさを失わない独特の作風で人気を得た。1951年、心臓麻痺により急逝[2]。
当人は、生まれは下関と言い、生年は明治37年、誕生日は5月5日などとも書いて語っていたが、没後20年余り経って、誕生の地は門司市小森江(現、北九州市門司区)との説が発表された[3][4][10][11][12]。(ただし出生届は叔父の家の現・鹿児島市に明治36年12月31日誕生として翌1月に出ている[4][13])。
麻太郎は下関で競り売りやテキ屋をやって当て、1907年若松市(現・北九州市若松区)へ移って繁盛したが、浮気して、母子は1910年、番頭の沢井喜三郎と家を出た[5][14]。 養父と母は北九州の炭坑町を行商して回り、芙美子の小学校は長崎・佐世保・下関と変わった[5][4]。 喜三郎は下関で古着屋を営んで小康を得たが1914年倒産し、11歳の芙美子は本籍地の鹿児島に預けられたのち、旅商いの両親に付いて山陽地方の木賃宿を転々した[6]。
1914(大正3年)年10月(11歳)、石炭産業で栄えていた現在の福岡県直方市に移り住む[6]。 『放浪記』の冒頭で、直方での日々を赤裸々に記している。 <砂で漉した鉄分の多い水で舌がよれるような町であった> <門司のように活気あふれる街でもない。> <長崎のように美しい街でもない。> <佐世保のように女のひとが美しい町でもなかった>
1916年(大正5年)(13歳)、3人は広島県尾道駅に降り立ち、海運の要衝として栄えた活気ある尾道に落ち着く[2][3][10]。以来、19歳までの多感な6年間尾道に暮す[5][6][7][15][16]。1918年、尾道第二尋常小学校(現・尾道市立土堂小学校)を2年遅れで卒業した[3][10]。
夕暮時に陸橋「うずしお橋」にもたれて本を読みふけっていた芙美子に旧制中学生・岡野軍一がたまらず声をかけた[6]。岡野は因島の荷役船の船主でミカン栽培も兼業する素封家の長男で、憧れの中学生だった岡野の出現は、読書家で大人びていた思春期の芙美子のプライドを昂らせた[6]。男女の交際が一般的でなかった時代に岡野と堂々と恋を育くむ[7][14]。1918年(大正7年)(15歳)、文才を認めた訓導の勧めと、周囲の支援もあって[3]、尾道市立高等女学校(現・広島県立尾道東高等学校)へ進学した[3]。裕福な良家の子女しか通えなかった女学校に、行商を生業とする貧しい家の娘が入ることなど、当時は分不相応な愚行[6]。高等女学校に進学したのは、岡野と釣り合いの取れる女になり、恋愛を成就させたいと渇望したのではないかという説もある[6]。人目をはばかりながら渡船に乗り、向島の帆布工場で学費を稼ぐアルバイトに精を出す[5][6]。夏休みには神戸で女中奉公までした[5][6]。岡野の両親は当然ながら、家柄のあまりにも違う二人の交際に猛反対した[6]。明治大学に進学した岡野は、ひたすら結婚を願って追いすがるように上京した芙美子と同棲までしたが、大学を卒業すると、両親の説得に屈して、宛がわれた縁談で結婚してしまう[6]。『放浪記』の報われない悲恋の連鎖は、ここから始まり、初恋の破局は、芙美子を、満たされることのない愛欲の飢餓に突き落とした[6]。図書室の本を読み耽り、夜や休日は働いた。女学校の教諭も文才を育んだ。18歳のときから『秋沼陽子』の筆名で、『山陽日日新聞』や『備後時事新報』に詩や短歌を投稿、『土の香』『廃園の夕』『カナリヤの歌』『命の酒』が掲載され、後の作家としての礎を築く[3][10]。安住の地となった[6]尾道では親友たちに恵まれ、後年もしばしば「帰郷」する[3][6]。
1922年(大正11年)(19歳)、女学校卒業直後、遊学中の恋人岡野を頼って上京[2][6][14]。当時、岡野が住んでいた小石川区雑司ヶ谷に移り住み[10]、最初は小説家に住み込み女中として雇われるが、二週間で暇を出される[6]。その後は銭湯の下足番、しおりの絵付け内職、株屋の事務員など職を転々[3][8][14]。間もなく義父・実母も上京、道玄坂や神楽坂に露店を出しそれを手伝う。翌1923年9月の関東大震災で、3人はしばらく尾道や四国に避けた[10]。尋常小学校の恩師、小林正雄に筆名を「芙美子」にするように勧められ[10]、つけ始めた「歌日記」と題する日記が『放浪記』の原型になった[5][10]。大学を卒業した岡野は因島に帰郷して婚約を取り消した[4][10]。初恋は女を憧れの高みへ昇らせ、やがて奈落へ突き落とした[6]。芙美子は、なりふりかまわぬ文学の鬼と化した[6]。
1924年(大正13年)(20歳)、親を残して再び上京[10]。この時代、たった一人で都会に出て来た地方出身者の金もコネもない女性が得られる職など知れていた[8]。セルロイド人形に色塗りする工場での女工、毛糸店の売り子、牛鍋屋・カフェの女給など職を転々[3][8][14]、多くの職に就いて微々たる給金を得ながら最底辺の暮らしを生きる[8]。1日休めば、宿を無くし、飢えと向き合わなければならない文字通りその日暮らし。マッチの燃え差しで眉を描き、木賃宿から出撃した[8]。へこたれることがあっても意気軒昂だった[8]。童話や詩を書いては出版社に売り歩き、徐々に文学社会へと近付いていく[3][10]。
ダダイストやアナーキストの巣窟になっていた本駒込の「南天堂書房」で出会い、意気投合した平林たい子は「芙美子は初恋に破れた痛苦を味わってから、男女関係が行き当たりばったりになった」と述べている[6]。反骨の精神に凝り固まった「南天堂」グループの人々は、愛欲のアナーキストでもあった[6]。不倫を戒めるモラルなどないに等しく、カップルの組み合わせは変わり放題だった[6]。ここで壺井繁治、岡本潤、高橋新吉、小野十三郎、辻潤らを知る[2][10]。同棲しては別れることを繰り返した。詩のパンフレット『二人』を、友谷静栄と3号まで出した。原稿を雑誌社・出版社に売り込んで回り、ときに拾われた。
1926年(大正15年)(23歳)、画学生の手塚緑敏(まさはる、通称りょくびん)[17]と内縁の結婚をし[14]、落ち着いた[2]。緑敏は実直で、妻の執筆を助ける人であった。
1928年(昭和3年)2月(25歳)、長谷川時雨主宰の女人芸術誌が芙美子の詩『黍畑』を載せ、10月から翌々年10月まで20回、自伝的小説『放浪記』を連載した[2][14]。その間の1929年6月には友人の寄金を受けて、初の単行本の、詩集『蒼馬を見たり』を自費出版した。『放浪記』は好評で、1930年改造社刊行の『放浪記』と『続放浪記』とは、昭和恐慌の世相の中で売れに売れ、芙美子は一躍流行作家になった[2][8][10]。印税で中国へ一人旅した。講演会などの国内旅行も増えた[10]。
1931年(昭和6年)(28歳)11月、朝鮮・シベリヤ経由でパリへ一人旅した[10]。既に満州事変は始まっていた。金銭の余裕があれば旅に出て、向こう見ずな単独行を怖じなかった。ロンドンにも住み、1932年6月に帰国した。旅先から紀行文を雑誌社に送り続けた。「共産党にカンパを約した」との嫌疑で、1933年に中野警察署に留置された。
1935年(昭和10年)(32歳)の短編『牡蠣』は、私小説的な作風を離れた本格的な小説として、評価された[10]。
1937年(昭和12年)の南京攻略戦には、毎日新聞の特派員として現地に赴いた[18]。1938年(昭和13年)の武漢作戦には、内閣情報部の『ペン部隊』役員に選出(女性作家は林と吉屋信子の2人のみ)、同年9月11日、陸軍班第一陣の13人とともに大陸に向かった。出発時、東京駅で行われたセレモニーを避け、途中の横浜駅から乗車する気配りを見せたが[19]、 戦地では同年10月28日、男性陣を尻目に陥落後の漢口へ一番乗りを果たした。漢口への従軍記は同年10月31日の東京朝日新聞に「美しい街・漢口に入るの記」として掲載された[20]ほか、後日、『戦線』、『北岸部隊』として出版された。
「おもな文業」の項からうかがえる活発な文筆活動を続けながら、1940年(昭和15年)5月からは、全国各地をめぐる「文芸銃後運動大講演会」に参加。久米正雄、横光利一らとともに時局に応じた熱弁をふるった[21]。さらに同年には北満州と朝鮮半島にも出かけた。
1941年(昭和16年)には、「ついのすみか」となった自宅を下落合に新築し[10]、飛行機で満州国境を慰問した。 同年8月には情報局により風俗壊乱の恐れのある小説として『放浪記』『泣虫小僧』などが発売禁止処分(当時は対象小説の題名は秘匿されていた)を受けた[22]。
太平洋戦争前期の1942年10月から翌年5月まで、陸軍報道部報道班員としてシンガポール・ジャワ・ボルネオに滞在した。戦局が押し詰まって出版界も逼塞し、1944年4月から、綠敏の故郷に近い長野県の上林温泉、次いで角間温泉に疎開した[10]。疎開の間二階を借りた民家(長野県下高井郡山ノ内町角間)が、林芙美子文学館 になっている。
下落合の自宅は空襲を免れ、1945年(昭和20年)10月に帰京した。自由に書ける時代を喜んだ。用紙事情は厳しかったものの、人は活字に飢えていて、翌1946年から新旧の出版社が動き始めた。
かって原稿の売り込みに苦労したが故に人気作家になってからも執筆依頼を断らなかった芙美子はジャーナリズムに便利だった。書きに書いた。その中に『晩菊』や『浮雲』などの名品もあった。1948年の女流文学者賞は『晩菊』で受賞した。私用や講演や取材の旅も繁くした。1950年(昭和25年)屋久島旅行に出たが、流行作家としての酷使に身体衰弱[2]。1949年から1951年に掛けては、9本の中長編を並行に、新聞・雑誌に連載した。
1951年(昭和26年)、6月27日の夜分、『主婦の友』の連載記事のため料亭を2軒回り、帰宅後に苦しみ、翌28日払暁心臓麻痺で急逝した。47歳没。死の数時間前まで取材をしていた[3]。最後まで作家として駆け抜けた人生だった[3]。『ジャーナリズムに殺された』と、世間は言った。
なお、急逝の直前、6月24日には、NHKラジオの生放送「若い女性-会ってみたい人の頁」にゲスト出演し、女子大生数人に対し質疑応答をおこなっている[1]。この中で芙美子本人が「すでに晩年であると思い、むだな球は投げない」とも語っていた。この放送時の一部が当時の番組広報用として映像保存されており、NHKアーカイブスのサイト「NHK放送史-若い女性」で動画公開されている[1]。(外部リンク参照)放送音声は録音保存され、直近では2016年1月26日にNHK第1ラジオ、2023年12月3日にはNHK-FM『伊集院光の百年ラヂオ』の中で当時の録音が放送された。
7月1日、自宅で告別式が執り行われた。近在の市民が大勢参列した。葬儀委員長の川端康成[注 1]は、『故人は、文学的生命を保つため、他に対して、時にはひどいこともしたのでありますが、しかし、後二、三時間もすれば、故人は灰となってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人を許して貰いたいと思います』と弔辞の中で述べた[8][23]。芙美子が、自身を優先させるあまり、他の作家を排斥した故の「罪悪」だといわれる[8]。葬儀には市井のおばちゃんたちが数多押しかけ、大衆作家にとってはその方が名誉であった[8]。
戒名は『純徳院芙蓉清美大姉』。萬昌院功運寺に埋葬された。生前、色紙などに好んで、『花の命は短くて苦しきことのみ多かりき』と書いた。
1943年に新生児を貰い受けて養子にした泰は、1959年、事故死した。芙美子を支え続けた夫緑敏は、彼女の文業の整理に長く協力して、1989年物故した。
生涯最後の10年を暮した旧宅が新宿区立林芙美子記念館になっている[6]。
井上ひさしによる林芙美子の評伝劇『太鼓たたいて笛ふいて』が2002年に上演された。劇中、エピローグの場面で男声のアナウンスが流れるが、生前の芙美子を評して次のようなセリフを語らせている[24]。
田辺聖子が「若いときから林芙美子のファンであった」と公言している[26]。自著『花狩』の刊行で初めて上京した際、まっさきに芙美子の墓に参詣したという[26]。芙美子の作品を読んでみたいという人にすすめる初めの一冊に『風琴と魚の町』を挙げる[26]。また、芙美子の最高到達点にある作品を長編『浮雲』とし、ユニークな「敗戦文学」の傑作と評価する[26]。
桐野夏生は『放浪記』を「たいせつな本」に挙げ[8]、「若い人にぜひ読んでもらいたい」と薦めている[8]。「近代の女性が孤独な思いで生きていく姿を林芙美子は最初に書きました。今も色褪せないし、私のテーマにも通じます」と同じ小説家としての敬意を込め[9]、2010年に林の評伝小説『ナニカアル』を上梓している[8][9][27]。
1948年(昭和23年)の『主婦と生活』6月号に「林芙美子のトマトのすき焼き」が紹介されている。「6ミリくらいの輪切りにしたもぎたてトマトをバターかラードを溶かしたフライパンで焼き、煮えたところで牛肉を乗せ、火が通ったら醤油と甘味料を入れる」としており、戦後3年しか経っていない当時は配給制の砂糖は貴重品であり、ズルチンやサッカリンなどの人工甘味料を代用したと思われる。品種改良した現代のトマトと違い、当時のトマトは甘味を加えた方が美味だったものか「初夏には格べつおいしいものです」と載せている。
急逝した翌日の朝、担当編集者が原稿を取りに邸宅を訪れた。お手伝いは逝去を伝えたが、編集者は締め切りを誤魔化す嘘だと思い、林の部屋に踏み込んだ。林の遺体は布団に寝かされて面布がかけられていたが、編集者は声をかけて面布を剥がし、ようやく林の死を知ると思わず合掌したという[28]。
多作で、また組み合わせを変えた短編集も出ており、書誌は膨大である[注 2]。
作者は、ほとんどの場合、作品をまず雑誌に掲載し、その後に単行本を刊行している。その初出の雑誌名は、全集「年譜」[33]に詳しい。
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