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露店や興行を営む業者 ウィキペディアから
的屋(てきや)とは、縁日や盛り場などの人通りの多いところで露店や興行を営む業者のこと。
香具師(やし)、三寸(さんずん)とも呼ばれる[1]。また、職業神として元々は中華文明圏より伝わり、神道の神となった「神農の神」「神農炎帝」を祀ることから、神農(しんのう)とも呼ばれる。
警察では、的屋を暴力団の起源の一つと定義しており[2]、戦後の混乱期に的屋は、博徒・愚連隊と同様に闇市を縄張として、覚せい剤の密売などの違法行為を行っていたと警察白書に記されている[2][3]。平成以降の定義では「博徒、的屋等組織又は集団の威力を背景に、集団的に又は常習的に暴力的不法行為を行うおそれがある」としており、的屋も暴力団の経済活動の一つとしている[3][4]。
祭りや市や縁日などが催される、境内・参道・門前町において屋台や露店で出店して食品や玩具などを売る小売商や、射幸心を伴う遊技として射的やくじ引などをする。街商や、大道芸にて客寄せをし商品を売ったり、芸そのものを生業にする大道商人(だいどうしょうにん)などが含まれる。「当たれば儲かる」ことから的矢[注釈 1]に準えて言われるようになった言葉である。
前述の「祭礼(祭り)や市や縁日などが催される、境内、参道や門前町」を庭場といい(以下庭場と記述)、その庭場において御利益品や縁起物を「売を打つ(販売する)」商売人でもある。商売人といっても、祭礼時などは町鳶、町大工などの冠婚葬祭の互助活動と同じで、いわゆる寺社普請と呼ばれる相互扶助の一環でもあり、支払われるお金は祝儀不祝儀であるともいう。同時に寺社などとの取り交わしによって、縁起物を売る時は神仏の託宣を請けた者ともいえる。
的屋は「露天商や行商人」の一種であり、日本の伝統文化を地域と共有している存在である。それゆえ、的屋は価格に見合った品質の商品を提供するというよりも、祭りの非日常(ハレ)を演出し、それを附加価値として商売にしている性格が強い。
日本は古くから様々な生業において「組」という徒弟制度や雇用関係があり、的屋も噛み砕いて表現すれば、親分子分(親方子方・兄弟分・兄弟弟子)の関係を基盤とする、企業や互助団体を構成する人々でもある。的屋は零細資本の小売商や、雇用されている下働きの人々の団体というイメージもあるが、これに該当しない地域に密着した形や、個人経営や兼業の的屋も多くある。地勢的・歴史的・人的・資本的要素が複雑に絡み合って、発生し成り立ってきた背景から、単に的屋として一括りに定義することは難しいと言われて、後述する猿楽、香具師、的屋、蓮の葉商い、鳶職ないし植木職の5つが源流とされる。
小沢昭一などの文化人は的屋の啖呵を“昭和の風物”として文献や音源に残している。また映画『男はつらいよ』の主人公、“フーテンの寅”車寅次郎の生業として知られる。
「寺社などの託宣」とは具体的には寺社普請といい、現在でも残存している。特に明治時代以前の人々の暮らしは政(まつりごとが自治権として地域で認められていた)の中心として寺や神社があり、定期的な修繕や社会基盤の拡張や一新を図るに当たり、莫大な費用が必要になった。寄付を直接募るよりは、的屋を招き祭りを開催して非日常的な演出で、的屋の売り上げの一部を場所代として請求し、普請の資金とした。技術を持った商売人としての的屋は、生活が成り立ったという背景がある。ちなみに宝くじの起源である「富くじ」も、寺社普請のために設けられた、非日常を演出する資金収集の手段であった。
有縁が縁日に変化し、庶民の生活習慣に深く根ざすようになったことや、各地域での経済の発展と市(定期市)の発生が、的屋を中心とする露天商の発展を促した。また会日を根源とすることが、縁起と神事や、祓いや占いなどの価値観が、商売としても商品にも反映されている。江戸時代には祭り文化と相俟ってますます栄え、この勢いは昭和初期まであり、第二次世界大戦前の東京都内では、年間に600を超える縁日が催されており、忌日をのぞいて日に2・3ヶ所で縁日が行われていた。しかし戦争による疲弊から縁日は祭りとともに消えていった。祭りは住民参加型であれば復活するものも多いが、縁日は職業人としての的屋が担う部分が多く、時代錯誤に感じる世間の風潮もあり、成り手の不足からその総数は減少の一途をたどった。
的屋(まとや)が営む「懸け物の的場(景品交換式遊技場)」は、現在の温泉場や宿場町に残る射的場の起源であり、スマートボールやパチンコの源流でもある。また法律の成立においても懸け物の的場(景品交換式遊技場)が基本にあるので、「遊技」という言葉が「遊戯」ではないのは、弓矢は技術が伴うことに由来し、法律の根拠としても偶然性のみのくじ引きである、「富くじ(宝くじ)」との区別の根拠となっている。また、的屋や宿場町で営まれる射的場は文化や時代の背景があり、現在のパチンコなどは利害だけの産業といえる。
遊廓は一説に因れば「結界の意味を持つ」とする民俗学や民間信仰論もあり、政治的な治安維持としての役割と管理の面から、地域を特定したともいわれるが、一般の「定」から外れた部分を持つ治外法権でもあった。また、遊廓や遊女は古くは禊(みそぎ)や祓い(はらい)といった神事でもあり、それは「渡り巫女」などの存在からも窺い知ることができる。これらを背景として、遊廓は庭場(寺社や縁起に係わる場所)と同じ意味合いを持ち、的屋が生業を営む場所であった。そして的屋の源流とされる職種も遊女との関連を持つものも多く存在している。
伊勢詣(御伊勢参り)や富士詣などは途中の旅路も過程も含めて「詣で」であり、宿場町に遊女(飯盛女)が存在し、客が遊興することは、禊や祓いであった。この宿場町の風俗習慣と的屋(まとや)の営業する的場(景品交換式遊技場)が結びついて、宿場町や温泉街に矢場(射的場)が設けられた。これが現在の射的場(スマートボールなども含め)の原形であり、昭和30年代頃まで俗に「矢場の女」といわれる遊女が射的場に存在した理由である。
時代の経過や売り物によっても、事細かに名称が存在するが、ここでは現在に受け継がれている代表的な種別を表すものを取り上げる。
分類では他に口上により、口上のある啖呵売(たんかばい)と泣き売(なきばい)と、口上のない飲食販売や技だけで客寄せする音無(おとなし)などがある[5]。
元々の流浪の民や旅芸人を発祥とすることから縁日や祭礼の場所を求めて旅回りをし、明治時代には日本統治となった台湾まで足を延ばすものもいた[9]。平安時代から続く縁日だけでなく定期市も同時に発生したため市も縁日も一括りにされ、出店の知らせも縁日、朝市、昼店、夜店と時間により分かれ案内がされていた[10]。
近年までは旅回りの的屋の相互扶助を目的とした「神農会」や「街商組合」が機能していたとされる。 旅においての不便や苦労を、互いに助け合うという精神の発露から、このような組織ができたといえる。
一般的には数軒の店が一つのグループを作り、地方の縁日などを回っているが、都心の古くからある地域では一と六、二と八、三と七、五と十(四と九は縁起が悪いのと休みは的屋にも必要)の付く日で縁日を主要な町々で分けており、夏場や正月や花見など年中行事以外の限られた日数だけ地方に赴く団体もある。また、移動や宿泊の経費が大きくなり遠隔地に出かけずにいる的屋の団体も多いとされる。
現在は祭礼や縁日に人出が減ったのに比べ、自治体が管理する公園や遊技場において各種団体が主催するフリーマーケットなどが多くなっている。 このため、地元の商店や店舗を持たない者が、副業や趣味または企業として露天での販売を行う姿も多くなっている。例えば寺社が主催し的屋という専門職が演出し庶民による伝統的な祭りとは違う、自治体や企業が主催し地域住民が参加する「手作り」の日曜マーケットなどの蚤の市が全国的に広く開催されている。的屋と呼ばれる人々が「祭り」だけで成り立つのか、マーケットという新しい商圏に取り込まれ、伝統、文化的背景を無くしていくのか今後の時代の変遷が見守られる。
下記の分類が重複している場合もある。その他は縁日を参照。
的屋は神農とも呼ばれ、また的屋を稼業人、博徒を渡世人とも呼び分ける。「無宿渡世・渡世人」とは本来は生業を持たない流浪する博徒を指し的屋について言われることはなかった。生業とする縄張りも的屋では「庭場」といい、博徒では「島」と表現する。古くは江戸時代の寺社奉行の「庭場」と町奉行の「町場」と郊外や埋立地などの「野帳場」の管轄の違いから来ているともいわれ、現在も地図上でその生業とする地域分けも江戸時代の名残が多く見られる。また、上記概要にも記述があるが、個々の信仰は別として的屋は職業神として神農を祀り博徒は職業神として天照大神を祀っている。
暴力団排除の機運がたかまっているものの、暴力団関係者への名義貸しを黙認(推進)している団体もある。
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