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日本と台湾の関係 ウィキペディアから
日台関係史(にったいかんけいし)は、日本と台湾の関係の歴史。
日本 |
台湾 |
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在外公館 | |
日本台湾交流協会 | 台北駐日経済文化代表処 |
日本では、戦国時代から江戸時代初期にかけての台湾を「高山国」、「高砂国」と称し、そのいずれもが「タカサグン」からの転訛という。これは、商船の出入した西南岸の打狗山(現・高雄市)が訛ったものと思われる。
1593年(文禄3年)、豊臣秀吉が原田孫七郎に「高山国」へ朝貢を促す文書を届けさせようとしたが、当時の台湾は統一的な政府が存在しなかったため交渉先を見つけることができずその試みは失敗した。
1609年(慶長14年)、江戸幕府を通じ肥前有馬藩が台湾視察のために家臣を派遣。
1616年(元和2年)、長崎代官村山等安が子の村山秋安、臣下明石道友を台湾征討のため13隻の船団と共に台湾に派遣するが、暴風雨のため明国に漂着する[1]。
1628年(寛永5年)、台湾貿易をめぐり、オランダの植民地政府との間に紛争発生(タイオワン事件)、江戸幕府が平戸のオランダ商館を閉鎖。
1639年(寛永16年)、将軍の徳川家光と老中が、江戸に参府した平戸のオランダ商館長であるフランソワ・カロンと会談。幕閣は、明朝渡航許可証を与えられた中国人が台湾に渡航していることをカロンから確認できたことで、マカオから渡航していたポルトガル渡航禁止を決定する。
1662年、「反清復明」を唱えて清朝に抵抗していた中国人と日本人の混血である鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保する為に台湾のオランダ東インド会社を攻撃し、オランダを台湾から駆逐した。鄭成功は「反清復明」を果たす事なく死去したが、台湾独自の政権である鄭氏政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたことから、今日では台湾人の不屈精神の支柱・象徴「開発始祖」「民族の英雄」として社会的に極めて高い地位を占めている[2]。なお、鄭成功は中国や台湾では英雄と見なされており、福建省廈門市の鼓浪嶼では、鄭成功の巨大像が台湾の方を向いて立っているが、「中国で英雄視されている鄭成功が日本と中国のハーフであり、その弟が日本人として育ち日本で商売をしていたというのは、中国人からすると複雑な感情なのかもしれない」という指摘がある[3]。
1871年(明治4年)12月17日、琉球・那覇を出帆した宮古島船が遭難し台湾東南の海岸に漂着、上陸した乗組員が台湾原住民に襲撃され、うち54人が殺害される事件が発生した。
1874年(明治7年)5月、陸軍中将西郷従道率いる征討軍3000名が台湾に上陸し、原住民居住地域を武力で制圧し、占領(台湾出兵)。清国政府が日本軍の出兵に賠償金50万両支払うことと引き換えに、日本軍が撤兵した。
1895年(明治28年)4月、日清戦争後の講和会議で調印された下関条約(日清講和条約)により、清国が台湾・澎湖諸島を日本に割譲。その直後、台湾人らによる台湾民主国の建国宣言がなされる。台湾民主国軍は、上陸した日本軍と武装闘争するも、初代総統唐景崧、第2代総統劉永福が相次いで大陸に逃亡し、約5か月後には完全制圧される。
日本は、1895年5月、台湾総督府を設置、樺山資紀海軍大将を初代総督に任命し、植民地統治を開始した。児玉源太郎第4代総督(1898年 - 1906年)のもとで後藤新平が民政長官に就任し、土地改革、ライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成を行うことにより台湾の近代化を推進。一方で植民地統治に対する反逆者には取り締まりをするという「飴と鞭」の政策を有効に用いることで植民地支配の体制を確立した。台湾巡撫の劉銘伝が日清戦争より前の1891年に敷設を開始した縦貫線は、1895年10月に全線開通したときには日本に接収されていた。1922年(大正11年)には台湾事業公債が発行され、摂政の皇太子裕仁親王は台湾行啓を行った。
日本の敗戦により、488,000余りの在台日本人(軍人166,000人を含む)の大半が本土に引き揚げ、28,000人余りが国民党政権の「留用者」として残った。最後の台湾総督安藤利吉は、戦犯として上海に送られ自害。1946年(昭和21年)5月の勅命により台湾総督府は正式に廃止された。
日本の降伏後、台湾に進駐し実効支配した中華民国政府は、日本資産の接収を実施した(接収された資産総額は、当時の貨幣価値で109億9090万円。土地を除く)。その後、ほぼ同時期に中国大陸で勃発した第二次国共内戦で中国共産党に敗れた中華民国政府は、1949年に台湾に政府機関を移し、台湾島とその周辺の島々(台湾地区)の実効支配を維持するにとどまる。日本は、1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約で台湾・澎湖諸島の権利、権原及び請求権を放棄したが、この講和条約には中華人民共和国、中華民国のいずれも参加しなかった[4]。その後、日本は、アメリカの仲介により、台湾のみを実効支配する中華民国政府との二国間講和条約の交渉を開始。1952年4月28日、日華平和条約に調印、日本と台湾(中華民国)との国交が回復した[5](なお、サンフランシスコ平和条約および日華平和条約では台湾の主権の帰属先は未定であるという台湾地位未定論がある)。また、日本からは白団と呼ばれる有志の軍事顧問団が台湾に渡り、金門砲戦などを指導して中華人民共和国からの台湾防衛を支援した。
1957年、外相兼任のまま内閣総理大臣に就任した岸信介は、同年5月に台湾などのアジア6カ国を歴訪[6]。蒋介石との会談では、大陸回復に理解を示した[7]。
1963年9月7日、中国の通訳周鴻慶が帰国直前に台湾への亡命を求めようとして逮捕され、その後亡命意思を翻意したとして、翌年1月に中国に強制送還される事件が発生した(周鴻慶亡命事件)。中華民国政府は日本側の対応・措置を「親中共行為」として激しく非難し、両国関係は緊張した[8][9]。
関係修復を図るべく、1964年2月、吉田茂元首相が池田勇人首相の意を受けて台湾を訪問、蔣介石総統と会談した。これを契機に「日華共同反共」などが盛り込まれた「中共対策要綱」なる文書(いわゆる吉田書簡)が極秘に交わされた。さらに同年3月には、日本外務省が、中華民国政府との断絶は国益に反する等の「中国問題に関する見解」を発表。同年7月には大平正芳外相が訪台し、「日本は中華民国が反攻復国に成功することを非常に望んでいる」と表明した。
1967年9月、佐藤栄作首相は、中国側の激しい批判キャンペーンにもかかわらず、台湾を訪問し、蔣介石総統と会見。同年11月には、後に総統を世襲することになる蔣経国国防部長が日本を公式訪問した。
これまで戦後から国連の常任理事国を務めた台湾は、中国と比べて国際的に認知されていた。しかし、1970年頃からベトナム戦争を背景とした中国と米国との接近、西側主要国(英仏伊加)と中国との国交正常化など、国際社会の中で中国が立場を顕示しはじめた。また、日本国内でも一部の親中派議員による「日中国交回復促進議員連盟」発足等の動きも見られるようになる。
こうした国際情勢の中で、1971年の第26回国際連合総会のアルバニア決議(2758号決議)により常任理事国の権限が中国側に傾き、中国の常任理事国入りが決定され、台湾は国連を追放された。日本は、中国の国連加盟に賛成であるが、台湾の議席追放反対を政府方針とし、アルバニア決議に反対票を投じた。また、二重代表制決議案の共同提案国となり提出したが表決されず、佐藤首相は国内のマスコミや野党から激しく追及された。これを受け、佐藤首相は中国との国交正常化を目指す意向を表明した[10]。
翌年1972年のニクソン訪中は日本に衝撃を与えた。 1972年8月、田中首相は椎名悦三郎副総裁を日台断交を伝えるために台湾に特使として派遣したが椎名は”台湾との外交を維持する”と台湾側へ伝えた[11]。 しかし、同年9月29日、田中角栄政権は、中国大陸を支配する中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」と承認し、国交を樹立した(日中国交正常化)。その際、日本は、日中共同声明に日華平和条約の遡及的無効を明記することに応じない代わりに、大平正芳外相が「日華平和条約は存続の意義を失い、終了した」との見解を表明。これに対し、中華民国外交部は、「狼を部屋に引き入れ、敵を友と認め、中共匪団の浸透転覆活動を助長する」と日本政府を強く非難、即日、対日断交声明を発表した(日台断交)。[12]
日本と台湾(中華民国)は、国交断絶から間もない1973年初頭、民間交流を従来通り維持させるため、実務的な窓口機関を相互に設置した(日本側は「財団法人交流協会」。台湾側は「亜東関係協会」。1992年、亜東関係協会東京弁事処は台北駐日経済文化代表処に改称)。続いて同年3月には、日本の国会議員150名余りが参加して日華関係議員懇談会(日華懇)が発足(1997年、超党派の日華議員懇談会に改組)。こうして、日台間の非公式実務交流の基本的枠組みが形成された。
国交断絶直後の台湾の中華航空の航空機にある「青天白日満地紅旗」を「国旗」として認めないなどとする見解を表明したことに抗議し、即日、日台間航空路線停止を宣言した。
その後、日華懇の働きかけと青天白日満地紅旗を国旗と認めた日本外相宮澤喜一の国会答弁もあって、1975年8月、約1年3ヶ月ぶりに日台航空路線が再開された[13]
1994年5月、中華民国総統の李登輝は、『週刊朝日』に掲載された小説家の司馬遼太郎との対談で、日本統治時代を「日本が残したものは大きい。批判する一方で科学的な観点から評価しないと歴史を理解することはできない」と評した。李が1999年日本語で出版した『台湾の主張』はベストセラーとなって山本七平賞を受賞した。
一方、1994年10月、広島で開催されたアジア競技大会において、日本政府は、李総統の代理として徐立徳・行政院副院長らの入国を認めた(行政院副院長=副首相クラスの訪日は初めて)ものの、1995年10月のAPEC大阪会議では、台湾代表として、形式的には民間人である辜振甫海峡交流基金会董事長の出席しか認められなかった。
1999年9月の台湾大地震では日本が国際緊急援助隊を一番手で送り、最大規模の援助活動を実施した。2000年8月には、石原慎太郎東京都知事の提唱で、アジア大都市ネットワーク21が発足、北京市と台北市が同時に加盟した(北京市は2005年に脱退、2014年からネットワークは活動を休止[14])。2000年12月、台湾高速鉄道計画で、日本企業連合による「新幹線システム」導入が決定した(2007年開通)。李登輝元総統来日の支援運動が契機となって、2002年12月には日本李登輝友の会が設立され、ここで発祥した台湾正名運動は台湾本国にも波及した。
1995年から1996年にかけて台湾海峡ミサイル危機の勃発など台湾情勢が緊迫したことを契機に、日本政府は「直接対話による平和的解決」を中国に求める立場を明確化させるようになった。1996年5月16日、参議院外交委員会の小委員会は、「中台問題の平和的解決に関する提言」を決議[15]。1996年から1997年にかけて日米安保条約に基づく日米防衛協力のための指針を改訂した際には(いわゆる「新ガイドライン」)[16]、「周辺事態」に中台紛争が含まれるか論争が起こり、1997年8月17日、梶山静六官房長官は「周辺事態は中台紛争を含む」と明言した。さらに1998年11月に江沢民国家主席(党総書記)が来日した際、小渕恵三首相はクリントン米大統領が表明した「三つのノー」(台湾独立反対、「二つの中国」反対、台湾の国連加盟不支持)の表明を拒絶した。
2001年10月、APEC上海会議の際、平沼赳夫経産相と林義夫経済部長が会談し、「日台FTA」の検討開始で合意した(未実現)。2002年末、外務省の内部規則が改訂され、日台間の政府当局間接触が課長補佐から課長レベルに引き上げられた。小泉純一郎首相の私的懇談会が発表した「21世紀日本外交の基本戦略」(2002年11月)では「日台関係強化の研究」の必要性を指摘。2004年以降、日本政府は台湾の世界保健機関(WHO)へのオブザーバー参加を支持する立場をとり、2005年2月には、日米政府当局が日米安全保障協議委員会(2プラス2)で合意した「共通戦略目標」で、初めて台湾海峡問題に明確に言及した[17]。当時の町村信孝外相も、日米安保は台湾地域も対象に入ると言明した。
一方で、2003年12月、日本政府(小泉政権)は、交流協会を通じ、台湾政府(陳水扁政権)に対し、公民投票の実施について、中台関係を徒に緊張させるものであり、台湾海峡周辺の平和と安定のために慎重に対処することを希望する旨、断交後初めて台湾政府に対する「申入れ」を行った。同様の懸念表明は、2006年2月、陳水扁政権が国家統一委員会及び国家統一綱領の運用停止を発表した際にもなされた。
台湾に対する関心の高まりを反映して、日本のマスコミ各社は1998年10月以降、台北に相次いで支局を開設した。
1999年11月、石原慎太郎東京都知事が都知事として初めて訪台したことを契機に、要人の相互往来が相次いで実現するようになった。まず、2001年4月、日台関係者双方の念願であった李登輝元総統の来日が初めて実現した(その後も4回の訪日が実現)。同年12月には、連戦国民党主席が、国民党のトップとしては戦後初めて訪日した。2003年12月、交流協会台北事務所の主催で、台北で断交以来32年ぶりに天皇誕生日祝賀会が開催。同じ頃、森喜朗元首相が台湾を訪問し、陳水扁総統と会談した。
2004年8月25日、中米の友好国訪問を終えた游錫堃行政院長の専用機が台風接近のため那覇空港に緊急着陸した際には、游行政院長に72時間滞在可能なビザを発給され、牧野浩隆沖縄県副知事らとの会談が実現した[18]。
2005年4月には、断交後初めて台湾人に対する叙勲を授与。2005年8月、台湾住民への査証免除(ノービザ)を可能とする議員立法が成立し、2007年9月には運転免許証の日台相互承認も実現した。2008年3月には、日本アジア航空(JAA)とエアーニッポン(ANK)がそれぞれ完全親会社の日本航空(JAL)と全日本空輸(ANA)に統合され、日台航空路線が約32年ぶりに「正常化」した[19]。さらに、2009年7月の出入国管理法改正で、外国人登録証に代わって新たに導入される在留カードにおいて、台湾出身者は「台湾」と正確に表記されることも決まった(2012年施行)[20]。
2008年5月の馬英九総統の就任に際し、日本政府(福田康夫政権)は交流協会を通じて公式の祝電を手交(断交後初めて[21])。馬は、同年7月末に主要閣僚定例会議「台日関係報告会議」を設置し、同年秋に台日特別パートナーシップ構想により対日関係強化を図る方針を打ち出した。陳水扁政権が新設した外交部の「日本事務会」は解消したものの、亜東関係協会会長に李登輝元総統の側近を登用。2009年を「台日特別パートナーシップ促進年」と定め、自由貿易協定(FTA)ないし投資協定の締結(2011年日台民間投資取決めを締結[22])、ワーキングホリデー制度の導入、国立故宮博物院の日本展覧会開催(2014年開催[23])などを提唱した。馬は、日本統治時代に台湾の水利事業で大きな功績を残した日本人技師八田與一をたたえる記念公園の建設も実現した。
2011年3月11日発生の東日本大震災に際しては台湾がいち早く救援隊派遣を表明。人口が約13倍の米国を大きく上回る義捐金が集まり(同年9月現在200億円超)、菅直人首相からの台湾向けに特別の謝意メッセージを台湾側に寄せた[24]。野田佳彦首相も国会で「菅直人前首相のメッセージで馬英九・総統をはじめとする台湾当局者に謝意を伝えた。ホームページや新聞広告でも謝意を表明している。しかし、あらためて私としても台湾からの友情あふれる破格の心からの支援に対して、深く心から感謝申し上げたい」と答弁した[25][26]。
尖閣諸島(台湾名:釣魚台)問題は、台湾側が領有を主張し始めた1969年頃から、漁業権益や海底資源権益も絡んで日台間の最大の懸念事項となっている。台湾船による領海侵犯事件が繰り返し発生している。2010年5月には、日本防衛省が日本最西端の与那国島の防空識別圏拡大を決定した[27]ことに対し、台湾側が強く反発した[28][29]。
2012年の日本の尖閣諸島国有化に対しては中華民国行政院海岸巡防署の巡視船12隻と宜蘭県蘇澳鎮から出港した漁船約40隻が同時に尖閣諸島の領海を侵犯させ、尖閣諸島の台湾領有を主張するデモ活動を行った。これに対して日本の海上保安庁は保有する約360隻の巡視船・巡視艇のうち約45隻を出動させて対応し[30]、巡視船が放水して進路規制を行ったが、台湾の巡視船も放水でこれに応戦した[31][32]。これを受けて、財団法人交流協会の今井正理事長が台湾外交部を訪れ、楊進添外交部長と2時間にわたり会談、厳重抗議と再発防止の申し入れを行ったが、楊部長は日本の国有化について批判した[33]。また、馬英九総統はこの領海侵犯を「全力で漁民の安全を守った」「釣魚台が我が領土であることを世界に誇示した」と絶賛した[34]。2013年には尖閣諸島周辺の北緯27度以北に暫定措置水域を定めた日中漁業協定に対抗して日本と日台漁業協定を結び、北緯27度以南の操業を日本に認めさせた。
年 | 月 | 日本の天皇 | 日本の首相 | 中華民国の総統 |
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1949年 | 10月 | 昭和天皇 | 吉田茂 | 李宗仁(代理) |
1950年 | 3月 | 蔣介石 | ||
1954年 | 12月 | 鳩山一郎 | ||
1956年 | 12月 | 石橋湛山 | ||
1957年 | 2月 | 岸信介 | ||
1960年 | 7月 | 池田勇人 | ||
1964年 | 11月 | 佐藤栄作 | ||
1972年 | 7月 | 田中角栄 | ||
1974年 | 12月 | 三木武夫 | ||
1975年 | 4月 | 厳家淦 | ||
1976年 | 12月 | 福田赳夫 | ||
1978年 | 5月 | 蔣経国 | ||
12月 | 大平正芳 | |||
1980年 | 7月 | 鈴木善幸 | ||
1982年 | 11月 | 中曽根康弘 | ||
1987年 | 11月 | 竹下登 | ||
1988年 | 1月 | 李登輝 | ||
1989年 | 1月 | 明仁 | ||
6月 | 宇野宗佑 | |||
8月 | 海部俊樹 | |||
1991年 | 11月 | 宮澤喜一 | ||
1993年 | 8月 | 細川護熙 | ||
1994年 | 4月 | 羽田孜 | ||
6月 | 村山富市 | |||
1996年 | 1月 | 橋本龍太郎 | ||
1998年 | 7月 | 小渕恵三 | ||
2000年 | 4月 | 森喜朗 | ||
5月 | 陳水扁 | |||
2001年 | 4月 | 小泉純一郎 | ||
2006年 | 9月 | 安倍晋三 | ||
2007年 | 9月 | 福田康夫 | ||
2008年 | 5月 | 馬英九 | ||
9月 | 麻生太郎 | |||
2009年 | 9月 | 鳩山由紀夫 | ||
2010年 | 6月 | 菅直人 | ||
2011年 | 9月 | 野田佳彦 | ||
2012年 | 12月 | 安倍晋三 | ||
2016年 | 5月 | 蔡英文 | ||
2019年 | 5月 | 徳仁 | ||
2020年 | 9月 | 菅義偉 | ||
2021年 | 10月 | 岸田文雄 | ||
2024年 | 5月 | 頼清徳 |
中華民国総統を務めた李登輝は2009年の講演において、「あなたたちの偉大な祖先の功績を知り、誇りに思ってほしい」と訴え、台湾が日本統治下にあった時代に、日本人技師らの貢献でインフラ整備などが進められたことを説明し、「公に尽くし、忠誠を尽くした偉大な祖先が作り上げてきた日本精神を学び、あなたたちも大切にしてほしい」と発言した[102]。また李登輝は、日本統治時代に台湾人が学んで純粋培養されたのは、「勇気」「誠実」「勤勉」「奉公」「自己犠牲」「責任感」「遵法」「清潔」といった「日本精神」であり、国共内戦後に中国大陸から来た中国国民党たちは、自分たちが持ち合わせていない価値観だったので、「日本精神」を台湾人の持ち合わせている気質だと定義して、これらの言葉が広まり、台湾に浸透した「日本精神」があったからこそ、台湾は中国文化に吞み込まれずに近代社会を確立できたのであり、台湾人の親日の背景にはこうした歴史的経緯があると述べている[103]。また李登輝は、日台は現在のところ正式な外交関係がないため、経済・文化交流を強化すれば良いという意見が多く、経済・文化交流を促進して、日本人と台湾人の心の絆を深めることは重要であるが、日本人が中華意識に囚われて台湾を軽視した場合、日本は地政学的危機に陥ってしまい、まさしく日台は生命(運命)共同体なのであり、このことを日本人は常に意識して欲しいとしている[104]。
姜尚中とダニ・オルバフ(ヘブライ大学)は、「同じ大日本帝国の植民地だったのに、台湾は親日的なのに、韓国が反日的なのはなぜか」という対談において、【ダニ・オルバフ】「『植民地』としての朝鮮半島は天皇直属です。同じ『植民地』でも台湾は内閣直属でした」【姜尚中】「そうですね。今、日本人はどうして台湾が親日的なのに韓国が反日的なんだろと考えますよね。でもそれは、台湾統治と朝鮮半島の統治の組織構造の違いを考えると分かります」【ダニ・オルバフ】「当時の大日本帝国憲法のわずかな権利すら民衆に与えず、総督が天皇の代理人として弾圧できたのが朝鮮でした。朝鮮では総督が代々陸海軍大将であったのに比べ、台湾では1919年から1936年まで貴族院議員の政治家が続きました」【姜尚中】「天皇直属となれば、時の政府は口出しはできません。台湾と朝鮮半島でどうしてこのような統治の違いになったのかが不思議なのですが、天皇統治とはある意味、統帥権が不可侵であるのと同じです。最終的に同化政策の時は、君たちは日本の本土にいる人たちと変わらない、ということになります。天皇の愛顧をみんなにあげるというのは大変な恩恵であるという発想です。それを天皇統治では一方的にどんどん進めていくことになり、朝鮮半島の日本に対する評価が変わってくるわけです」と述べている[105][106]。
蔡亦竹によると、国共内戦後、中国から台湾に逃れた少数派の中国国民党は、多数派の元日本国民であった台湾人に「われわれは対日戦争に勝って台湾人を二等国民の扱いから解放した」と主張することで、自らの高圧的統治を正当化した[107]。また、台湾人アイデンティティを喚起する恐れがあるため、元々台湾人のみに共有された、日本文学、日本映画、テレビ番組などは推奨しなかった[107]。1972年の日中国交正常化に伴い、台湾は直ちに日本に国交断絶を宣言したが、中国との国交樹立は裏切りであり、この年に台湾政府は一切の放送で日本語を禁止にし、日本映画の輸入もご法度になり、1980年代末にようやく禁制が緩くなったが、薬師丸ひろ子が台湾で映画宣伝をおこなった際は、日本語ではなく英語で司会者とやり取りをおこなったほどであり、「日本追放」の全面解除は1993年まで待たねばならず、蔡亦竹は「今、台湾は親日的な国柄で知られている。しかし、このような理由からわれわれ40代の人間は中学校まで日本を悪者として教育されていた」と述べている[107]。
台北駐日経済文化代表処代表を務めた羅福全は、平井敏晴(漢陽女子大学校)による大日本帝国の植民地だった台湾人と韓国人の対日感情の比較に関する取材に対して、「韓国が日本に反発してしまう理由はいろいろありますが、私がまず思うのは、王朝があったからですよ。台湾にはなかったでしょ」「(戦後、台湾に入城した中華民国軍の)大陸から台湾にやって来た人たちの格好を見て、台湾の人たちが愕然としたんですよ。身なりはひどいし、兵器は旧式で、日本のものと比べると雲泥の差がありましたから」「日本の台湾統治は黒字で、朝鮮統治は赤字だったんですよ。日本は成功した台湾をモデルケースにして朝鮮統治に臨んだけど、うまくいかなかった。その結果、日本人は台湾人に対するのと同じように朝鮮人に接することができなかった」と述べており、平井敏晴は、17世紀に清が明を滅ぼすと、長崎出身の鄭成功は清に抵抗する拠点を築くために1662年に台南に入り、その後の台湾は、清に対する抵抗の拠点であり続けたため、台湾からすると、日本に割譲されることは、抵抗を続けてきた清からの開放でもあり、「台湾には王朝がなかったので、そこを統治して開拓を進めた日本は、後に朝鮮で経験するような王政復古のイデオロギーによる軋轢を経験せずにすんだ」「台湾はもともと清への対抗意識があり、日本統治はある意味、台湾にとって渡りに船でもあった。一方、韓国は王朝を断絶させられたことで、日本への反発が生じやすかった。そのうえ、朝鮮統治は日本にとって経済的にうまくいっていなかった」と結論付けている[108][109][110][111]。
台湾における各種世論調査では台湾人は日本に好意的であり、2009年に財団法人交流協会が実施した初の台湾人対象の対日意識世論調査では、「日本に親しみを感じる」が69%で、「親しみを感じない」の12%を大きく上回った。「最も好きな国」としても38%が日本を挙げ、2位のアメリカ(5%)、中国(2%)を大きく上回った[112]。2010年に財団法人交流協会が実施した「台湾における対日世論調査」では、「日本に親しみを感じる」が62%で、「親しみを感じない」の13%を大きく上回り、「最も好きな国」としても52%が日本を挙げ、2位のアメリカ(8%)、中国(5%)を大きく上回った[113]。
2006年に台湾の『遠見雑誌』が、20歳以上の台湾人1000人に「移民したい」「行ってみたい」「尊敬すべき」「留学したい国」の4項目を調査した結果、日本が「移民したい」「行ってみたい」「尊敬すべき」の3項目でそれぞれ1位を獲得した。謝雅梅は、「日本統治時代、その目的はどうであれ、日本が台湾のインフラを整備したことは今でも高く評価されてます」「日本のテレビ番組や雑誌なども昔からあって、よく見てました。今、20代くらいの若者には、日本の音楽やファッション、マンガやゲームなどのサブカルチャーが人気です。彼らの世代になると、もう日本との歴史をよく知らないんですよ。台湾も、日本のようにアメリカの影響は大きいんですが、やはり同じアジアの日本文化の方が肌に合う。これは一過性の流行ではなく、親日感情は昔から繋がっているんです」「文化は日本、経済はアメリカにもっとも影響を受けています。それに、アジアのなかで経済発展を遂げた境遇も似ていますし、親近感があるんです」とコメントしている[114]。
民主進歩党系のシンクタンクである台湾国策研究院が2006年に実施した世論調査では、台湾で一番好かれている外国人は日本人で27.1%、アメリカ人22.7%、中国人11.1%、韓国人9.3%だった。台湾智庫が2008年に行った世論調査では、「中国、アメリカ、日本、韓国の4カ国の中で、全体的にどこの国に最も好感を持っているか」という設問では、日本が最多の40.2%で、アメリカは25.7%、韓国は5.4%、中国は5.1%だった[115]。
2009年に台湾の財団法人金車教育基金会が台湾の学生の対象に実施した意識調査「最も友好的な国・最も非友好的な国」では、日本は「最も友好的な国」の第1位(44.4%)で、日本が首位になったのは3回目だった[116]。
2021年8月10日、台湾のシンクタンクである台湾制憲基金会が実施した台湾の世論調査結果を発表し[117]、アメリカに好感を持つ人が75.6%、日本に好感を持つ人が83.9%、中国に好感を持つ人は16.4%にとどまり、9割近くがアメリカや日本と正式な外交関係を構築することを支持した[117]。
『ワシントン・ポスト』は、「台湾は、1895年から1945年まで日本の占領下にあったにもかかわらず、アジアにおいて稀有な親日感情を抱き続けている。台湾人の年輩者らは未だに日本語と日本文化に大変な共感を示す。台湾は毎時200マイル走行が可能な日本の弾丸列車を30億ドルで導入し、先月(試験走行を)開始した。また、日本政府は、12月に台湾の李登輝元総統(彼は日本で教育を受け、親愛の念を抱く大学時代の元教授と再会を果たした)に観光ビザを発給したが、中国側はこれに激しく反発した」と報道した[118]。
馬英九総統の外交政策・対日戦略のブレーンで中華民国総統府国家安全会議諮問委員を務める楊永明は、「一般的に言って、日台間では相互に友好感情が存在するという基本認識がある。台湾はおそらく世界で最も親日的な社会であり、日本でも台湾に対する好感が広範に存在するのである」と指摘している[119]。同じく中華民国総統府国家安全会議諮問委員(閣僚級、日台関係担当)を務める李嘉進は、「日台は『感情の関係』だ。普通の外交関係は国益が基本だが、日台は特別。お互いの好感度が抜群に高い。戦前からの歴史が育てた深い感情が出発点となっている」と発言している[120]。
渡辺利夫と西岡力は、「朝鮮・台湾の日本統治 なぜ、かくも評価が異なるのか」という対談で、「台湾が親日的だといっても、親日一色だったといえばそれはいい過ぎです。『台湾人の誇り』を読み違えてはいけません」「17世紀に福建省や広東省からやってきた移住者やマレー・ポリネシア系の原住民の勢力は日本に対して激しく抵抗したということを、台湾人は高く評価しています」「それは国民党系の人々はもとより、民進党系の人々もそうです。黄昭堂先生、許世楷先生といったあれほど親日的で深い日本理解がある人でもそうです」「台湾の国益を損ねかねないような尖閣諸島問題などでは、台湾の公式言論が反日一色になることは珍しくありません」「ですから台湾人を親日一色だと思いこんだり、これに甘え過ぎたりしないことが大事だと思います」と述べている[121]。
日本人の台湾に関する関心は、旅行・グルメ・エステ・ショッピングなどの分野と、台湾の政治・経済、日本と台湾の関係史などに限られている反面、台湾の人々は日本について実にいろいろなことを知っており、日本の情報は時差なく台湾に伝えられ、台湾人、特に若い世代は日本の国内情勢はもちろん芸能情報・流行語に至るまで、多くの知識を持っており、日本と台湾間の人的交流は活発であるが、お互いに関する関心度という面において、不均衡が生じているという指摘がある[122]。李久惟は、「問題点は、やはり両国の若者世代がお互いにコミュニケーションを取ったり、ともに過ごしたりする機会があまりないこと。本物の交流が少な過ぎるのだ。(中略)若者たちの中には、今後はなんらかの形で日本人ともっとリアルな交流をしたいと思っている人が多いのである」「近年、東アジアの国際情勢は、緊張感が高まり、変化が激しくなってきている。そんな中、サブカルチャーなどの交流だけで、台湾の人々がいつまでも『親日』であり続けるとは限らない」「東アジア情勢の安定のためにも、今後、日本と台湾のさらなる文化的な交流、経済活動を含めた積極的なコミュニケーションが欠かせないと、声を大にして言いたい」と述べている[122]。また、水野俊平は、「日本と台湾の関係はおおむね良好ですが、これからもそうした関係を維持していくためには、日本人も台湾人の日常生活や考え方にもっと関心を持つ必要があるのではないでしょうか」と述べている[122]。
2022年3月18日、日本台湾交流協会は「台湾における対日世論調査(台湾本島に居住する20歳から80歳までの台湾人が対象、サンプル数は1,068、標本誤差±3.06%、信頼度95%)」の結果を発表した[123]。「最も好きな国・地域はどこか」の問いに対し、「日本」と回答した人は前回調査より1ポイント増えて60%に達した。「現在の日台関係をどう思うか」の問いに対しても、前回調査を17ポイント上回る70%が「大変良い」または「良い」と回答した。いずれも、この調査が始まって以来の過去最高となった。「今後台湾が最も親しくすべき国・地域」については、トップが「日本」の46%、2位は「アメリカ」の24%、3位は「中国」の15%だった[123]。「現在の日台関係は、以前と比べどう変化したか」の問いについては、「良くなった」が65%、「日本は信頼できる国か」の問いについては、60%が「信頼できる」と回答、「信頼できない」と回答した人は8%だった。日本台湾交流協会は「前回調査の結果と比べ、日本に対する好感度や信頼度、現在及び今後の日台関係に対する肯定的な評価等はいずれも上昇している」「今後も台日関係のさらなる発展のため引き続き努力する」とコメントしている[123]。
2009年4月、台北駐日経済文化代表処がギャラップに委託して日本在住の20歳以上の日本人男女1000人を対象に「台湾に関する意識調査」を行ったところ、「台湾に親しみを感じる」との回答が56%、「台日関係が良好」との回答が76%、台湾を「信頼している」との回答が65%だった[124]。
2022年1月20日、台北駐日経済文化代表処は、1000人を対象に行った台湾に対する日本人の意識調査結果を発表した(中央調査社に委託)[125]。台湾に「親しみを感じる」との回答は75.9%、「信頼できる」は64.8%[125]。「最も親しみを感じるアジアの国・地域」で台湾を挙げた人は46.6%で最多だった。台湾に親しみを感じる理由は、「台湾人が親切、友好的」が77.1%、「歴史的に交流が長い」が45.7%。台湾を信頼できる理由は「日本に友好的」が65.9%、「自由民主主義などの価値観を有している」が56.9%だった[125]。
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