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日本の漫才師、タレント ウィキペディアから
島田 洋七(しまだ ようしち、1950年〈昭和25年〉2月10日 - )は、日本の漫才師、タレント、作家。漫才コンビB&Bのひとり。本名:徳永 昭広(とくなが あきひろ)[1]。
1980年代、漫才ブームのパイオニアとなり[9][3][10][11][12][13][14]、月収1億円の時代から、人気急降下、そして2000年代のベストセラー作家と、ジェットコースターの様な激動の人生を歩むお笑い芸人である[15][16][17]。その上がり下がりの人生を「シーソーか」と茶化したビートたけしの親友としても知られる[18][19][20][21][22][23]。下の名前の読みは「ようひち」との表記説が多く言われているが、本人にいわく「どっちでもいいが分かりやすい『ようしち』が良い」との事(関西弁では質や七を「しち」ではなく、「ひち」と読むためである。逆にビートたけしが使用する江戸言葉では、「おひたし」を「おしたし」というように、「ひ」を「し」と呼ぶ傾向がある)。
1950年広島市生まれ[24][25]。父親は疎開していた佐賀から広島市への原子爆弾投下一週間後の広島に戻り、家族を探して爆心地を歩き回り入市被爆した[26][27]。昭広(洋七の本名)が生まれた頃は病床にあり昭広が2歳のとき原爆症で亡くなる[7][13]。家族は母・兄・昭広の三人。
広島市立幟町小学校1年生6歳の頃[8]、佐賀の祖母に預けられ、中学を卒業するまでの8年間の体験が『佐賀のがばいばあちゃん』として後に出版されベストセラーとなり、映画化・ドラマ化された[28]。
佐賀市立赤松小学校、佐賀市立城南中学校と進むが、母親への思慕が募り、また野球がうまかったこともあり、1965年春、高校野球の名門・広陵高校に野球推薦で入学し[11][29]、故郷広島に戻る[13][30]。のちに洋七は新人のころ、島田紳助や明石家さんまら、芸人仲間に「広陵高校の野球部出身で、甲子園にセカンドで出た」と言いふらしていたため、皆これを信じていたが、後にウソが発覚した[31]。広陵入学から大阪に行くまでの経歴は、野球特待生として推薦入学したが、練習中に打球が左腕を直撃して肘を痛め、野球をあきらめた[32]、野球部には一年生の夏まで在籍した[33]、一年以上たっても患部が治らないまま、二年のとき退部したなどと話している[11][32]。河井昭司が広陵の同期[32][34]。広商・山本和行、福山電波・村田兆治、尾道商・大田垣耕造らが同学年にあたる。洋七(昭広)が一年時の野球部監督は森岡栄司で、名将三原新二郎監督就任が1966年[35]。広陵は昭広三年時の1967年夏甲子園で、サウスポー宇根洋介、河井らを擁して準優勝(決勝1-7習志野)[36]。広島カープ初優勝時の主力投手だった佐伯和司は三学年下となる[37]。一方的な昭広のしゃべりは、時にはブレーキが利かなくなり、現実とシャレの境目がわからなくなる[38]。自分の経歴ですらその場の空気によっては、マジとシャレを入り混ぜて話してしまい、それが独り歩きしてしまっていると考えられる[38]。
広島工業大学に入学[1][3]。広島市牛田の八百屋フジモト商店に1年半住み込みで働くなどした後[6]、19歳の頃に再び佐賀に戻り、当時デパートに勤めていた今の妻と知り合う[39]。20歳の時に二人で東京へ駆け落ち[40]。東京へ行った目的は歌手になるためだったという[41]。間もなく妻の貯金も尽き高校の先輩に誘われ大阪に移る[40][42]。
1970年、大阪にいた広陵野球部OBに勧められ、なんば花月で笑福亭仁鶴の落語や、中田カウス・ボタンの漫才を観たのがきっかけで芸人になろうと決意[42]。中田カウスがポルシェ(仁鶴がベンツ[43])で帰るのを見て「15分笑わせるだけでお金が稼げるなんて、こんないい商売があるのか」と、とても簡単そうに見えたのが決意した理由という[29][44][45]。先の先輩が吉本興業の関係者と知り合いで紹介してもらい、うめだ花月の進行係として採用される[46]。当初仁鶴に弟子入りを志願したが言葉の訛りを理由に断られ、次に美人の今喜多代、優しそうな島田洋之介に惚れ弟子入りを願う。しかし同様の理由で弟子入り志願者が多く、毎日師匠の元に通い、1ヶ月と4日目の1971年5月に弟子入りを許された[45]。弟子入り直後には兄弟子の島田一の介とコンビを組んだ事もあったが、互いに訛りが強く程なく解散したという。
弟子入りしてから一年二ヶ月後の1972年、桂三枝の紹介で[47]、現在放送作家として活動している団順一(萩原芳樹)と初代B&Bを結成、島田洋一名で漫才師としてデビューした[48]。
詳細はB&B (お笑いコンビ)を参照。
東京の漫才協団に加入し、戸崎事務所に移籍[49]。1980年1月、澤田隆治プロデュースによる『花王名人劇場』(関西テレビ)「激突!漫才新幹線」に大抜擢され出演[50][51]。漫才を変えたといわれるスピードとスタイルで、大きな反響を巻き起す[52][53][54]。同年4月から始まった『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ)でも先兵役を務めてケタ違いの実力を見せ、ストレートで10週を勝ち抜き初代グランプリとなり大ブレイクし[55]、漫才ブームを引き起こす[3][25][56][57][58][59]。また、同年4月からの『THE MANZAI』でも第一回放送から出演し漫才ブームを牽引した[51][60]。女は常に八角関係、たけしと一千万で銀座のクラブを貸し切ったり[61][62][63]、金沢のホテルで、たけしとそのまんま東の三人で150万円飲んだり[64]、現金2000万円持参でベンツを買いに行ったりするなどの豪遊をした[64][65]。ビートたけしは「ショクナイ(業界用語で内職のこと)で洋七と営業に行くと、1時間ぐらいしゃべって700万~800万円もらえたんだよ。折半だからね。ショクナイしまくったね」と話している[61][66]。
1981年5月から始まった『オレたちひょうきん族』では、B&Bは裏の日本テレビ『爆笑ヒット大進撃!!』で、レギュラーを持っており、ひょうきん族への参加は半年遅れ[67]、たけしと明石家さんまがメインで洋七は完全に脇に回る。また、1982年の「笑ってる場合ですよ!」終了と同時に人気が急降下、1983年秋にB&Bを解散[68]。精神的な理由で6年間の休養生活に入り、表舞台から姿を消した[68][69]。その後、国分健二(浮世亭ケンジ)と新コンビ「スティング」を結成したり、間寛平と「洋・寛」という漫才コンビを結成したりするも、いずれも長続きしなかった。間寛平の絡みで萩本欽一の欽ちゃんファミリー入りしたこともある。また、かねてより事業欲も旺盛で、最盛期には当時都内の一等地に下北沢など数軒しかなかった広島風お好み焼き店“モミジハウス”を新宿・渋谷・原宿(パレフランスビル地下1F、1F・オーバカナル(AUX BACCHANALE))他の一等地に6店舗展開[61]。他に高円寺にタコ焼き屋と新橋に喫茶店を持っていた。しかし後に母親の要求に応じて全て閉店してしまう[64]。1987年には、たけしと共同で埼玉県所沢市にラーメン店「まぼろし軒」を創業(現在は無関係)[15][40][70]。他にも、悪い人間に誘われて、静岡県の伊豆で温泉民宿を始めようとしたが、肝心の温泉が出ずにだまされて失敗したり[15]、たけしやさんまに反対されながらも、六本木にゲイバーをオープンし、自身もおかまに扮したが、関西から客として暴力団関係者が大挙して押しかけ2ヶ月で閉店したといわれる[15]。1990年以降は『たかじんnoばぁ~』のイレギュラー出演以外は仕事が無くなり、たけしの仕事場に付いて回る。たけし軍団のコック長みたいなことを約7年続ける[22][69]。また、竜雷太と土地がらみの問題で裁判になり、勝訴するも結局借金しか残らなかった。1992年には『北野ファンクラブ』の企画で、ビートたけしと「B&Beat」というコンビを組み、テレビで漫才を披露した[21][71][72]。1995年には、横山ノックや西川きよしが国会議員が出来るなら「こんなもん、俺でもできるやないか!」と考え[15]、第17回参議院議員通常選挙に当時居を置いた埼玉県選挙区から出馬[73][74]。洋八やぼんちおさむ、間寛平ら昔の仲間が応援してくれたが、ふざけていると思われたり、高速道路で演説したり他県で演説したりで落選[15][73]。このため新潟県で2票入ったという逸話が残る。芸人引退を決意し、たけしに相談するが、「芸人をやめるなら友達づきあいをやめるぞ!」と一喝され、引退を思いとどまる[11][20][75]。1996年、一度は契約を解除された吉本に頭を下げて復帰を許され[76]、生涯一漫才師を誓い、洋八と再びB&Bを復活させ、こつこつと仕事をこなす[77]。
吉本復帰後はたけしに関連する番組に出演することが増える。たけしに「出ろよ」と誘われて出演した『平成教育委員会(当時はたけしと並んで、もう一人の番組の顔であった逸見政孝が病死した後であった)』も、いつまでも頼ってはマズいと数回で出演を止める[78][79]。この他にも、『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』にたけし軍団員や、若手芸人の混じって参加するなどしている。この頃、レギュラーを持っていたラジオのゲストに学者や野球選手が来ると「これから講演に行く」と聞かされ、興味を持ち、塩田丸男に紹介された群馬県の商工会議所を皮切りに講演をはじめる[10][13][80][81]。祖母との思い出は恥ずかしい過去でもあり、あまり他人に話していなかった。しかし講演で祖母の話をすると非常に受け、たけしと寿司屋で飲んだとき、たけしの母親自慢に対抗して、ばあちゃんの話をしたら涙を流してたけしが大笑いし「絶対に本にすべき」とアドバイスされたことから1987年、話をまとめて出版社に持ち込む[6][11][18]。しかし、「お笑いの人にしては話が地味」「B&Bで漫才やってらっしゃる頃なら(出せますが)」などと請けてもらえず[6]、40社まわったが出版できなかった[13]。やむなくNGKの楽屋やNHKロビーにカンパ箱を置き、お笑い仲間、佐賀や広島の人達からもカンパを募り、東京の小出版社から1987年12月、自費出版で単行本にし、当初3000部を出版[13][82]。この時のタイトルは、たけしに付けてもらった「振り向けば哀しくもなく」だった[18][83][84]。講演会で手売りをし[6]、さほど評判になることもなく廃刊となっていたが、初出版から14年後の2002年に佐賀地域だけで売れたらいいと思い「佐賀のがばいばあちゃん」と改題し二度目の自費出版[82]。この時は講演会の手売りだけで自費出版では珍しく2万部を売上げ少々話題となる[6]。
徳間書店から出版させて欲しいと連絡があり三度目の出版で[15]文庫化されると口コミで評判が広がる。さらに2003年「徹子の部屋」(テレビ朝日)で祖母の話をしたところ、大きな反響を呼ぶ[82]。
その後、増刷を重ね“がばいばあちゃん”シリーズ三部作はベストセラーとなり映画化・ドラマ化もされ、再び注目された。2007年に入って『スマステ』(テレビ朝日)など、テレビで特集が組まれ更に部数を伸ばした[29][82][85]。2007年の時点で総売り上げは20億円超、徳間書店の社員全員に"がばいボーナス"が出た[76]。“がばいばあちゃん”シリーズ総計では2008年7月、670万部を越え韓国、台湾、マレーシアなどでも出版されている[9][11][86]。
吉本在籍時は多数のテレビ出演ほか、「佐賀のがばいばあちゃん」を演目とした講演依頼が殺到、その回数は2012年3月4000回を越えたという[9][10][13][87]。常人には決して経験することのない波瀾万丈の人生を歩むお笑い芸人と言える。
1999年に妻の母親が倒れて、その介護のために佐賀郡東与賀町(2007年に佐賀市に吸収合併)に居を構える[88]。
2002年から5年間の間『M-1グランプリ』の審査員を担当。アンタッチャブルや、南海キャンディーズなどの出場した漫才師に概ね高い評価を与えたが、アマチュア漫才師である変ホ長調の漫才に対しては、「本気なのか、ギャグで素人っぽくしているのかわからなかった」と語るなど、苦言を呈することもあった。
2007年8月末をもって吉本興業を再度離籍することが発表された(2007年4月10日)[73][89]。原因は「がばい」関連の収益について吉本側との考えの相違のためで、吉本は他のタレントの手前もあるから、印税の一部を吉本に入れてくれないかと洋七に頼んだが(通常、吉本が関連する舞台や番組以外では、ギャラは本人に全額入ることになっている)、洋七はこれを拒否したといわれる。なお、完全に吉本との契約関係が終了したのは2007年12月9日である。ただし本人によれば、吉本を退社したのは「2007年に声帯にポリープが見つかり、医者から『このままだと最悪声が出なくなる』『漫才や講演は(喉に負担をかけるので)やめるように』指示されたが、吉本に在籍しているとつい舞台に立ってしまい指示を守れなくなる」のが理由で、決して吉本と対立したわけではないという[90]。なお、ポリープについては後に手術を受け完治しているが、以後講演の本数はセーブしている[90]。
『佐賀のがばいばあちゃん#映画』は、2006年に倉内均監督で映画化され、2009年に洋七自身が監督を務め再映画化。この際、追放同然で吉本を退社した洋七の映画に島田紳助が友情出演したことで紳助と吉本の関係も悪化したとされる[89][91]。2011年には『佐賀のがばいばあちゃん』を舞台化し、がばいばあちゃんを自身が演じた[92]。吉本退社後はマスメディアへの露出が減り[15][93]、個人事務所「島田オフィス」を拠点として講演会中心で活動してきたが2012年8月1日付けで、個人事務所は今まで通り、オスカープロモーション所属となった[94][78]が、オスカーのお笑い部門撤退とともに離籍した。
島田紳助は「漫才ブームで新しいことをやったのは、B&Bとツービート、紳助・竜介だけ。ほかは前からあったもの[95]」「漫才ブームは、B&Bとツービートと紳助・竜介が作ったんです。時代を作った3組、ルーツは一緒なんです。漫才ブームが興ったときに、今までの漫才と違う形の漫才が始まるんです。それまでの漫才はネタ振りがあって、一個のネタでちゃんと起こしていくんです。この3組に共通してるのは、全く違うシステムなんです。それまでの漫才の形と全く違うシステム、突っ込みボケという新しい分野であり、1人が完璧にネタの九割喋るんです。で、誰がこれを編み出したかというと、最初は松竹芸能のケンケン・てるてるという方が、それをちょっとやったんです。それを見た島田洋七がパクったんです。これが自分に合うと思ったんです。その洋七さんを見てたけしさんも"これや!"ってパクったんです。そして高校三年生の僕が洋七さんを見て『今までの漫才なんか全然おもろない。これからはこれや!』ってこの世界に入ったんです。僕もツービートも全然売れてない時、東京の漫才コンクールでたけしさんに会ったんですが、たけしさんの言葉未だに忘れられません。『B&Bに似てるね』って。そんとき『はい』って言いながら心の中で、おまえらもやないかい、と叫びました」と話している[96]。 初対面でビートたけしが、とっさに年をごまかした人物[6][50][79][97]。たけしに「漫才だけは洋七に勝てなかった」「漫才ブームは洋七が作った」と言わせた人物でもある[98][99]。
1993年7月2日にテレビ朝日系で放送された、漫才ブームを振りかえる『驚きももの木20世紀』「漫才ブームの真実」という番組では、洋七とぼんちおさむの眼を通しての漫才ブーム、という構成が取られていたが、この中で洋七は「漫才ブームは去ったけど、その中にビートたけしや島田紳助みたいな、とてつもない天才がいた、発見できたことが嬉しい。それは誇りですよ。漫才ブームが無ければ二人は無かったわけだから」と話した。[要出典]
親友であるビートたけしは洋七に対して、「いろいろばかはあるが漫才ばかである。洋七から漫才をとったら嘘吐き、うらぎり者、サギ師、へんたい、などしか残らない。でもギセー者は皆んな笑ってゆるしてやる男です」[100] と評価している。また、『ビートたけしのオールナイトニッポン』や『北野ファンクラブ』などでも、頻繁に洋七のホラ話をネタにしていた。『北野ファンクラブ』の1コーナーでは、たけしと「B&BEAT」という漫才コンビを組んだ[79][80]。2010年のたけしの著作『1084(to-san-ya-yo)』でも、洋七の話を扱ったネタが使われている。一方、洋七からたけしに対する感謝は、『俺の彼-がばいばあちゃんスペシャル』(徳間書店)で著されている。
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