広島県立尾道商業高等学校
広島県尾道市にある高等学校 ウィキペディアから
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広島県立尾道商業高等学校(ひろしまけんりつ おのみちしょうぎょうこうとうがっこう)は、広島県尾道市古浜町にある県立の商業高等学校。通称は、「尾商」(おのしょう)。
広島県立尾道商業高等学校 | |
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北緯34度23分52.4秒 東経133度10分15.8秒 | |
過去の名称 |
私立尾道商法講習所 公立尾道商業学校 尾道簡易商業学校 広島県商業学校 広島県立尾道商業学校 広島県尾道商業高等学校 広島県尾道西高等学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 広島県 |
校訓 | 正義・努力・健康 |
設立年月日 | 1887年10月20日 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
設置学科 | 情報ビジネス科 |
学期 | 3学期制 |
学校コード | D134210000747 |
高校コード | 34133K |
所在地 | 〒722-0002 |
広島県尾道市古浜町20-1 | |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
1950年代の尾道西高校時代に広島東洋カープ主催のプロ野球公式戦が当校校庭で3度開催されている[1]。当時、公式戦を開催できる基準を満たす球場が広島県内には少なかったため、学校や企業のグラウンドを会場にした試合は珍しくなかったが、校庭にはフェンスがなく、客席とグラウンドはロープだけで仕切られた状態にあった。また、当時のスポーツ紙では「校庭であるため地面が固く、凹凸が多く、野手を困らせた」と報じられている。
初開催は1950年(昭和26年)5月21日、広島東洋カープ対大洋ホエールズ戦。戦争末期、陸軍によってグラウンドの一部を畑にしていた名残で右中間後方が草むらになっており、広島選手・松川博爾の打球がその草むらに入り込むと大洋の外野手2人がボールを捜す間に松川は本塁に生還し、ランニングホームランとなる。松川にとって、プロで唯一の本塁打である。
2回目の開催は1952年(昭和28年)7月23日、広島東洋カープ対大阪タイガース戦。広島の先発投手は尾道西高校出身のプロ1年目、大田垣喜夫(備前喜夫)であり、母校での凱旋登板を果たした。7回までは被安打2、無失点に抑える好投を見せるも、8回2死から崩れて一挙5失点を喫し、敗戦投手となっている。
3回目の開催は1953年(昭和28年)4月1日、広島東洋カープ対大洋松竹ロビンス戦。広島の先発投手は前年のリベンジ登板となる大田垣、対する大洋松竹の先発はプロ1年目の権藤正利であった。4回裏、広島選手・白石勝巳の放った打球が右中間に飛び込む本塁打となったが、前述の通り、客席とグラウンドがロープだけで仕切られた状態にあったことで、このプレーをめぐって大洋松竹監督の小西得郎が異を唱えた。これは観客がロープをわざと前に押し出したのではないかとの猛抗議をしたが受け入れられなかった。後にこの本塁打は「縄ホームラン」と呼ばれるようになった。この試合は観客のアシストにもかかわらず、大洋松竹が2対1で勝利しており、権藤にプロ初勝利を献上し、大田垣は2年連続で母校で敗戦投手となってしまった。なお、中沢啓治の漫画『広島カープ誕生物語』でもこの縄ホームランの件は描かれており、主人公の大地進がロープを押し出したことになっている。
後に「縄ホームラン」の一件を機に、当時のセ・リーグ会長である鈴木龍二は全球団に規格外の球場で試合を開催することを全面的に禁止するように警告を発したため、前述の試合が最後の校庭でのプロ野球開催試合となった。
なお、プロ野球公式戦を母校の校庭でプレーしたプロ野球選手は、大田垣を含め尾道西高校出身の3名のみである。
「東西本線西・鳴滝登山口行き」乗車 → 「尾商入口」下車
「JA尾道総合病院行き」乗車 → 「尾商入口」 下車
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