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高校三原則(こうこうさんげんそく)は、第二次世界大戦終戦後の学制改革で実施された、新制高等学校教育の「小学区制・総合制・男女共学」の3つの原則を指す。
第二次世界大戦前の旧制学校は格差(複線)を前提としたシステムだった。戦後の学制改革では教育を受けたいと希望するすべての人に門戸を広げるための方策として、小学区制・総合制・男女共学の高校三原則に沿った新制高等学校の設置が進められた。これはアメリカの郊外と農村で発達した総合制の公立高校から考え出されたものであり、アメリカの高校は生徒が民主主義社会の市民としての役割を演じられることを教育目的としていた[2]。
当時の行政側の意図は
「旧制の中等学校間にあったいわゆる格差を是正しその平準化を図ることと、小学校および中学校とともに高等学校をできるだけ地域学校化してその普及を図ろうとする考えによるものである[3]。」
だったという。
なお、「高校三原則」という言葉をいつ誰が最初に使用したかについてははっきりしていない。
第二次世界大戦終結直後の日本はアメリカ式の高校を導入できるほどのゆとりはなく、高校の教室不足は深刻であった。乏しい財源も義務教育となった新制中学校に振り向けることが優先された。地方自治体は高校の教室不足の解決には入学試験による選抜が最善だと考え、入学試験を継続した[2]。
その後、まず、産業界から職業教育の充実を求める意見が増えていったため、多くの地域で総合制の原則が崩れ、単独制職業高校の設置が後押しされ[4]、総合制をやめて普通科もしくは専門学科単科の高等学校へと改編する例が顕著となった。さらに昭和30年代になると、受験競争の激化や高校の多様化、旧制中学の名門校復活要求[5]や越境入学の激化などの要因により、小学区制の原則が多くの地域で崩れていき、多くの地域で普通科の学区拡大や専門学科の学区撤廃が図られた。男女共学については、西日本ではほぼ例外なく定着したが、東日本では一部の公立高校が男子高・女子高を維持し、また高等女学校を前身とする高校の多くで男子生徒がほとんど入学せず、「制度上は男女共学なのに在籍しているのは女子生徒だけ」という高校が各地に存在した。
1955年の学習指導要領では、科目選択制を改めて、就職コースと進学コースに分けたコース制が導入された。これは実質的な複線型教育体系の復活であり、旧制中学校のエリート教育を維持しようと努めていた全日制高校を支える基盤ともなった[6]。
入学試験、学区の広域化、普通科と専門学科の分離が結果的に高校の序列化を進めていくこととなった[2]。
私立学校は本原則の対象とならなかった。そのため、私立で男子校や女子校、中高一貫校ができることとなった[3]。男女別学や中高一貫教育を望む家庭では公立を避けて子弟を私立校に進学させる傾向が強くなった。
なお、京都府では、蜷川虎三知事の強力なリーダーシップのもと、1978年の蜷川の引退まで高校三原則は堅持された。そのため「通学圏制」を採用して事実上の学区制度・地元集中を維持する方針を採った。しかしこれが仇となり、京都府内では公立高において突出した難関校が京都市立堀川高等学校程度しか存在しておらず、府立に至っては47都道府県で唯一、1校たりとも難関校・進学校が存在しない状況となった故に、存在中学生の成績上位の生徒の私立校への流出が続いた。ただし、1つの高校からは少数ではあるが、多くの公立高校から幅広く合格者が出る結果を生んだ側面もあり、京都府内の公立高校全体で見ると実際には公立高校からの京都大学への進学率は通学圏制のもとでも大きく低下していたわけではなかった。なお、京都府立の高等学校が難関校・進学校を設置するようになったのは蜷川退任後7年後に当時の木津町に開校した京都府立南陽高等学校が史上初である。
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