鶴岡八幡宮
神奈川県鎌倉市にある神社 ウィキペディアから
神奈川県鎌倉市にある神社 ウィキペディアから
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市雪ノ下にある八幡宮。鎌倉八幡宮とも呼ばれる。11世紀後半に、源氏の守り神として創建された。以後、鎌倉武士の守護神となる[2]。現代では全国の八幡宮の中で、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝ゆかりの神社として関東方面で知名度が高い。境内は国の史跡に指定されている。旧社格は国幣中社で、神社本庁の別表神社であったが、2024年に神社本庁を離脱する手続きを進めている(後述)。
現在の祭神は以下の3柱。「八幡神」と総称される。
河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義は、長元9年(1036年)に相模守に任じられた時期に、平直方の女婿となり、鎌倉の大蔵にあった邸宅や所領、桓武平氏嫡流伝来の郎党を譲り受けた。
1063年 8月に源頼義が、前九年の役に際して戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現 材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請した。1081年2月に河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。これが鶴岡八幡宮の始まりとなった。
1180年10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。1191年に、社殿の焼損を機に、上宮(本宮)と下宮(若宮)の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。1208年には神宮寺が創建される。
源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、源頼義・義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めた。鎌倉幕府衰退後は、25の僧坊の数も減少し、一時衰退する。戦国時代には里見氏により焼き討ちにあうものの(鶴岡八幡宮の戦い)、北条氏綱が再建を果たす。江戸時代に入ると江戸幕府の庇護を受け大規模化が進み、仁王門、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、弁天堂などを建築し、徳川家光の治世に薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられた。また、境内には方五間の多宝大塔や、東照宮も存在した。
江戸幕府崩壊後、1868年3月13日に「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が明治政府から出され、また1870年に大教宣布[3]がなされると、鶴岡八幡宮においてもいわゆる廃仏毀釈の動きが始まった。同年中に多宝大塔などの仏堂は破壊され、仏像、仏具、什宝、経典なども破壊・焼却処分されるか散佚した。ただし一部は現存し、鎌倉寿福寺、浅草の社僧が中心となって行った。また、一部残存していた仏堂も、その後真が残されている。
明治の近代社格制度では県社に列し、1882年に国幣中社に昇格。戦後は神社本庁の別表神社に列している。近年は全国一の宮会に加盟しており、相模国の一宮と扱われることもある(ただし歴史的には一宮は寒川神社である)。
本宮(上宮)は文政11年(1828年)に徳川家斉が再建した流権現造で、国の重要文化財に指定されている。本宮は大石段上にある。大石段は61段あり、登りきると桜門、その奥に拝殿とつながった本宮がある。石段下にある舞殿は、「下拝殿」ともいう。前面にある建築物は21世紀に入ってから増築されたもので、当初は朱塗りではなく白木造りであった。
また、境内入口には源頼朝が臨時別当の専光房良暹と大庭景義に命じて掘らせた「源平池」と称する、左右2つに分かれた池がある。源氏池には島が3つ、平家池には島が4つ浮かび、それぞれ産(三)と死(四)を表すという。池には鯉やすっぽんが生息し、水鳥も多い。夏期には蓮の花が一面を覆う。源氏池の島には旗上弁天社がある。源氏池と平家池を繋ぐ水路には石造の橋が架けられ「太鼓橋」と称される。創建当時は木造で、朱塗りだったことから「赤橋」と呼ばれた。北条氏の庶流・赤橋家の苗字はこの橋の名称に由来する。現行の石橋は二代目で、先代は1923年(大正12年)の関東大震災で崩壊した後、1927年(昭和2年)に再建された。橋は現在は柵で締め切られているが、昭和時代までは自由に通行可能で、橋上は記念撮影のスポットとしてよく使われていた[16]。なお、太鼓橋の左右には一般参拝者が通行可能な橋があり、赤橋の名を受け継ぐかの如く、赤く塗られている。
なお、源頼朝の求めに応じて舞った静御前が源義経を慕う次の歌を詠んだとされるが、当時はまだ舞殿は建立されておらず、若宮社殿の回廊で舞ったとされている。
「 | 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな |
」 |
源氏池のほとりには「ぼたん庭園」が設けられ、季節毎に様々な牡丹を見ることができる。対岸には「鶴岡幼稚園」が1950年(昭和25年)からあり、開園中は境内の敷地を臨時に仕切って運動場となる。また、隣接地には1980年代まで境内の鳩を飼っていた「高床式鳩舎」もあった。平家池のほとりには「神奈川県立近代美術館」が建てられた。しかし、同美術館は2016年(平成28年)1月をもって展示を終了。同年12月22日付で建物は鶴岡八幡宮に無償譲渡され、2019年6月に「鎌倉文華館鶴岡ミュージアム」として再オープンした[17]。なお、この建物は2016年11月22日に神奈川県の重要文化財に指定され、さらに2020年12月23日には国の重要文化財に指定された[18][19][20]。
また、境内東側には1928年(昭和3年)に開館した鎌倉市立博物館の鎌倉国宝館があり、市内の社寺などから寄託されている国宝や重要文化財を多数収蔵している。鎌倉国宝館の本館は登録有形文化財でもある。
1982年(昭和57年)に鶴岡八幡宮の敷地内を発掘したところ、寺院の遺構と思われるものや土葬された遺骨が発掘された。福島金治は『阿娑縛抄』第百十四「妙見部」に引用されている仁平3年(1153年)8月9日付の「妙見菩薩供注進状」の中で、聖昭が鳥羽法皇と藤原忠通の諮問に対して国内の妙見信仰の拠点として比叡山北谷の妙見堂と並んで挙げている「鎌倉生源寺」がその寺院であった可能性を指摘している。生源寺は廃仏毀釈によって廃された松源寺(岩窟不動尊の東にあった)の前身と推測されており、事実とすれば鶴岡八幡宮建設時に移転をしたことになる[21]。
建保7年(1219年)1月27日、源頼家の子で八幡宮の別当を務めていた公暁が階段脇に生えていたこの銀杏の木に隠れて待ち伏せ、この大階段の13段目に降りてきた源実朝を殺害したという伝説があり、隠れ銀杏という別名がある。この伝説が知られるようになったのは江戸時代になってからのことであり、当時の史料にはない話である。中国でイチョウが発見されたのが10世紀頃と研究されており、仮に渡来していたとしても、当時の樹齢を考えると人が隠れることのできる太さにはまだ成長していなかったという説もあるため、真偽は不明である。伝説を疑問視する説もあれば、公暁が身を隠したのは先代の樹であり、平成時代に倒木した樹は2代目であるとする説もある[22]。1955年(昭和30年)より神奈川県の天然記念物に指定され、鶴岡八幡宮のシンボル[22]として親しまれていた。樹齢800年とも1000年余ともいわれていた[22]。
2010年(平成22年)3月10日4時40分頃、強風のために大銀杏は根元から倒れた。倒れた大銀杏は3つに切断され、3月15日、根元から高さ4メートルまでが、7メートル離れた場所に移植された[23]。残る2つは境内に保存された。倒壊から約1か月たち、再生への努力が実を結び、若芽が確認された[24]。
鶴岡八幡宮の参道は若宮大路と呼ばれる。由比ヶ浜から八幡宮まで鎌倉の中心をほぼ南北に貫いており、京の朱雀大路を模して源頼朝が自らも加わり築いた。二の鳥居からは段葛(だんかずら)と呼ばれる車道より一段高い歩道がある。そこを抜けると三の鳥居があり、境内へと到る。
この段葛は、二の鳥居の辺りでは幅4メートルほどだが、三の鳥居では幅が約3メートル程度となっており、先に進むほど徐々に細くなっている。人間の目の錯覚を利用し、参道を実際より長く見せ、奥の本殿を厳かに見せるための設計との説がある[25]。段葛は鶴岡八幡宮境内の敷地とみなされており、扱いとしては神社の私道である(若宮大路自体は神奈川県道21号横浜鎌倉線の一部)[5]。
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