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山崎貴監督による2005年制作の日本の映画作品 ウィキペディアから
『ALWAYS 三丁目の夕日』(オールウェイズ さんちょうめのゆうひ)は、西岸良平の漫画『三丁目の夕日』を原作とした2005年の日本映画である。主演は吉岡秀隆。11月5日公開。配給は東宝。製作は日本テレビ・読売新聞・小学館・電通など(製作委員会方式)。
昭和33年(1958年)の東京の下町を舞台とし、夕日町三丁目に暮らす人々の温かな交流を描くドラマに仕上がっている(当時の港区愛宕界隈を想定している)。
建設中の東京タワーや上野駅、蒸気機関車C62、東京都電など当時の東京の街並みをミニチュアとVFX(CG)で再現した点が特徴である[2]。昭和30年代の街並みが再現されたコンピュータシミュレーションでは、東京工科大学メディア学部の研究室が協力した。
映画に出てくる、三丁目の住宅、商店、街並みは全てセットで再現されており、東宝第2・9ステージ及び、群馬県館林市の大西飛行場跡地に建設されたオープンセットで撮影された。三輪自動車ミゼット、家電、店内の商品などはほとんどが各地から集められた本物である。
山崎貴監督によると、当時の現実的情景の再現以上に、人々の記憶や心に存在しているイメージ的情景の再生を重視したようである。
多くの映画賞を受賞し、高い評価を得ている。2005年12月22日、第29回日本アカデミー賞において全部門(13部門)でノミネート。2006年3月3日、日本アカデミー賞の最優秀賞発表では、この13部門の内12部門で最優秀賞を獲得した。
昭和33年春、東京の下町、夕日町三丁目にある鈴木オート。そこに集団就職列車に乗って青森から六子(むつこ)がやってくる。社長の小学生の息子からは「六(ろく)ちゃん」と呼ばれ親しまれるが、大手の自動車会社に就職できるかと期待していた六子は、小さくて古臭い自動車修理工場の鈴木オートに内心がっかりしていた。
その向かいにある駄菓子屋「茶川商店」の主人・茶川竜之介は小説家。茶川は居酒屋「やまふじ」の美人店主・石崎ヒロミから見ず知らずの子供・古行淳之介を酔った勢いで預かってしまう。淳之介を帰すに帰せず、二人の共同生活が始まる。
平成に入ってから、阿部秀司は昭和、特に自分が少年時代だった昭和30年代の映画を作りたいと事あるたびに発言していた[3]。ロボット社内の企画会議では「阿部の昭和企画」と呼ばれていた[3]。「阿部の昭和企画」のシンボルは、幼い頃に見た建設中の東京タワー[4]。阿部は東京タワーが少しずつ空に伸びていく姿を見た時の興奮や感動を映画の観客にも追体験してもらいたかった[4]。
他のプロデューサーから西岸良平の『三丁目の夕日』というヒントをもらう[5]。阿部にとって旧知の好きなマンガだったが、『三丁目の夕日』は劇画ではないので〔実写〕映画化は難しいように思えた[5]。
既に昭和を懐かしむような懐古ブームが一段落ついた状態で、今から「昭和」を扱っても当たらないと意見された[6]。また、「建設中の東京タワー」に一番興味を持ちそうな団塊の世代は、同時に、一番映画館に来ない世代でもあった[7][注 1]。そのため、マーケットが存在しない「阿部の昭和企画」は大反対された[8]。しかし、阿部は団塊の世代が映画館に来ないのではなく、団塊の世代が本当に見たい映画が作られてこなかった結果であり、団塊の世代800万人の1割でも映画館に足を運んでもらえる映画を作れば成功すると前向きに考えた[9]。周囲には否定的な意見が多かったが、日本テレビの奥田誠治エグゼクティブプロデューサーの支持を得て、次の段階に進むことができた[10]。
2002年、VFXを得意とする「白組」に属する山崎貴監督とロボットの阿部秀司はタッグを組み、SFアクション映画『リターナー』を製作した[11]。『リターナー』は評判も良く、主演の金城武からも次回作を期待されていた[12]。
山崎監督の3作目として『リターナー』の続編を含め様々な企画が検討されたが、当時、ロボットの社長だった阿部から西岸良平の『三丁目の夕日』を切り口に昭和ものの映画を製作するというアイディアが出てきた[13]。山崎監督は西岸良平のマンガが大好きだったし、いつか人情物の映画を撮りたいという願望もあった[13]。現代を舞台に人情物をやるには、どうしても照れが出てしまうが、普通に人情物ができそうな昭和30年代を舞台にした『三丁目の夕日』は〔客観的に見れば〕良い企画に思えたが、だからといって積極的に自分で選んだ企画ではなかった[13]。
山崎監督が乗り気でないのは阿部にも分かっていたが[12]、山崎監督のVFX技術が「阿部の昭和企画」には是非とも必要だった[14]。阿部は、ジェームズ・キャメロンが『ターミネーター』の後に『タイタニック』を撮ったことを引き合いに出し、山崎に対し『ジュブナイル』『リターナー』とSF映画がデビューから2本続いたので3作目も同じ様な映画だと「SF映画監督」というレッテルを貼られると説得した[15]。さらに、山崎監督のVFX技術に対し「空想の物なら表現できるが、実際にあったものは再現できないんだろ? 」と鎌をかけた[14]。結局、「できます」と答えた山崎監督は企画の物語作りから参加することになった[14]。クリエイターが「嫌だ」という仕事を、「自発的にやりたい」という気持ちに誘導することも映画プロデューサーの大事な仕事だと、阿部は自著の中で述べている[16]。
映画が完成した時点でも、山崎は〔VFXマン兼映画監督の〕自分をよく『三丁目の夕日』の監督にしたなと思わずにはいられなかった[17]
未だロボット社内に反対や否定的な意見が多い中で阿部秀司エグゼクティブ・プロデューサーが山崎監督と物語作りの進めている頃、出資者に対するプレゼン用に二人はパイロット版を作成した[18]。パイロット版には2個の目的があった[19]。1個目はVFX技術でどれだけ昭和33年当時の風景を再現できるかの確認[19]。2個目は観客の心を揺さぶるストーリーを持った映画であることを出資者などに伝えることだった[20]。そのためにパイロット版にも簡単なストーリーが必要だった[21]。予算の都合でセットまでは組めないので、東京・小金井市にある江戸東京たてもの園の建物を借り、20人の役者を使い撮影を行った[21]。3分30秒のパイロット版には2000万円の費用が掛かった[22]。映画化の
山崎監督含め原作通りの映画タイトル『三丁目の夕日』を支持する意見も多かったが[24]、阿部秀司エグゼクティブ・プロデューサーによって、タイトルが「ALWAYS」 、サブタイトルが「三丁目の夕日」に決まった[25]。コピーライター経験もある阿部は、映画と観客との最初の接点となるタイトルを重要視している[26]。「ALWAYS」には、文字の力強さ・心地良い音の響きというメリットのほかに、「いつまでも変わらないもの、いつまでも変えてはいけないもの」といったこの映画のメッセージが込められている[25]。邦画で、しかも昭和33年を舞台にしているのに、英語タイトルというミスマッチも面白いと判断した[27]。
しかし、映画評論家・ラジオDJのライムスター宇多丸は、英語タイトルを付加することについて、雰囲気横文字は田舎の喫茶店の名前みたいで野暮だと指摘し、この命名法を「山崎メソッド」と呼んで馬鹿にしている[28]。
撮影に入る直前のミーティングで、阿部秀司エグゼクティブ・プロデューサーはタイトルが表示されるまでの冒頭のシーンを長回しのワンカットで撮ることを山崎監督やスタッフに突然提案した[29]。冒頭のシーンは次のようになっている。一平が三丁目の路地裏から模型飛行機を飛ばす[30]。模型飛行機は都電が走る大通りに飛んでいく[30]。都電が走り去るその先には建設途中の東京タワー[30]。そして、映画のタイトルが表示される[30]。多くのスタッフがカット割りして撮影する予定でいた[30]。三丁目の路地裏のセットは都内の屋内スタジオ〔東宝スタジオ〕、大通りのセットは群馬県館林市にある屋外オープンセットなので、阿部の提案を否定する声も多かった[30]。
しかし、この阿部の無理難題に対して、山崎監督と各スタッフは知恵を絞り、模型飛行機をCGにすることで解決した[31]。「一平が模型飛行機を飛ばす路地のシーン(屋内スタジオ)」と「大通りのシーン(屋外オープンセット)」の間に、「模型飛行機が家々の屋根の間を飛んでいくシーン(VFX)」を挟むことによって、〔模型飛行機は常に映りづづけているので〕長回しのワンカットとなっている[31]。阿部の提案をあまり重要視していなかったが、映画が完成してみると冒頭シーンが一番印象的なものになっていたと山崎監督は述べた[32]。
上野駅シーンで蒸気機関車が必要になるが、多くの映画やドラマで使用されている大井川鉄道でのロケは行わなかった[33]。昭和33年当時、常磐線で使用されていたのは最も大型の蒸気機関車C62やD51で、それに対し大井川鉄道の蒸気機関車は小型であるためである[34]。ロケには京都の梅小路蒸気機関車館(当時)にて動態保存されているC62 2(日立製)を使用した[35]。ただし、上野に乗り入れていたC62が川崎重工製だったので、メーカーのプレートは変更している[35]。
鈴木家が買ったばかりのテレビを茶川が完全に分解してしまい電気屋が引き取るシーンの撮影中、分解されたテレビの真空管が使い古しのものであることに阿部秀司エグゼクティブ・プロデューサーが気付くと、新品のテレビを分解したのだから部品も新品でなければならないと撮り直しを命じた[36]。また、昭和33年当時はハエがところ構わず飛んでいたのでCGで付け加えさせた[37]。
鈴木オートの社長が乗るダイハツ・ミゼットは1957年(昭和32年)生産開始なので、映画のようにボロボロになっているのは現実のリアリティから考えるとおかしい[38]。また、三丁目の街並みも戦後の焼け野原から復興したことを考えると、もっと新しく見えるはず[38]。しかし、阿部によれば、映画の観客が求めているものは「古き良き時代の懐しさ」であるので、わざと古く見せる美術(エイジング)を施した方がしっくりくる[39]。現実のリアリティよりも映画のリアリティを選択した本作の世界観を、阿部は本物よりも本物らしく見せる「1/1の模型」と呼んでいる[40]。
時代劇と違って、近過去である昭和33年当時を知っている人は沢山いるのに、山崎監督自身は生まれる前なので知らないという不安もあった[13][注 2]。山崎監督は参考にする為に多数の昭和30年代の映画を見た[41]。そして、昔から好きだった、小津安二郎の『お早よう』のようなコメディを目指した[41]。また、原作のマンガは、短いエピソードの積み重ねなので、そのままの実写化ではブツ切れで
当初、本作はロケでの撮影が可能だと考えていたが、映画で使えるような広い範囲で、昭和33年当時の雰囲気が残る場所は、日本中を探してみても存在しなかった[42]。その為、セットとCGを併用した撮影となり、街角で起きる、ちょっとした人情話に多額の費用をかける事となった[42]。
2004年12月2日、東宝スタジオで本作の製作発表記者会見が開かれた[43]。会見終了後、総工費4億円を費やした精巧な街並みのセットが披露された[43]。監督としては、素晴らしいセットが美術部によって作られたのは喜ぶべき事だったが、〔ポストプロダクションで、〕それらのセットに見合うCG、街並みのロングショットを作らねばならないのかと、CGチームの一員でもある山崎は恐怖も感じていた[17]。最初は、セットの撮影では嘘っぽくなる事に抵抗があったが、照明部の努力により、例えば、夏のシーンは山崎監督自身も真夏の日中に外で撮影している感じがするまでの映像になった[17]。
撮影においては、昭和33年にタイムトラベルしたスタッフが、実際の街や景色を現地でロケしているつもりで臨み、セット撮影の制限事項を無視した形を採った[41]。例えば、カメラがセットの外に移動しようが、クレーンが動いて、セットの奥が見えようが、セットの天井が写り込もうが、不具合は後でCGで直しますと山崎監督はOKを出した[41]。その為、キネマ旬報によれば、本作はセット撮影の限界を感じさせない映像となっている[17]。
2005年10月24日、第18回東京国際映画祭の特別招待作品として本作が上映された[44]。
キネマ旬報の掛尾良夫は、原作マンガ『三丁目の夕日』は長期連載のため認知度は高いが爆発的ベストセラーではない点、掲載誌『ビッグコミックオリジナル』の中では渋い7番バッターのイメージである点、原作マンガのファンは高齢男性と想定され、高齢男性は最も映画館に足を運ばない層である点からヒットするとは考えていなかった[45]。しかし、映画公開中の日劇2で行われた東宝の調査で本作の観客の男女比は57対43、年齢層は多い順に40代が37%、50代22%、20代15.6%、30代14.5%となり、掛尾の予想とは大きく異なった[45]。鑑賞の動機は「面白そうだから」、「昭和30年代が舞台だから」[45]。
全国271スクリーンで公開され[45][46]、2005年11月5日・6日の全国週末興行成績(興行通信社)では観客動員が16万4023人、興行収入2億1418万円を記録し、首位で初登場する[47]。阿部秀司エグゼクティブ・プロデューサーは初週の興行収入に3億円を期待していた[48]。公開2週目の11月12日・13日は前週末以上の興行収入2億1600万円となり、首位をキープした[49]。口コミで本作の評判が伝わり、それが2週目の前週対比100.1%といった数字に表れている[45]。公開9日目に累計興行収入は6億6000万円強となった[45]。映画.comの駒井尚文は、最終的に興行収入が20億円に達する可能性があると予想した[49]。キネマ旬報の掛尾良夫は20億円は確実、25億円も狙えると予想[45]。公開3週目の11月19日・20日も首位となりV3を達成[50]。公開4週目の11月26日・27日に首位を『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』に譲るが、累計興行収入は15億円を突破する[51]。公開5週目の12月3日・4日に累計興行収入は20億円に近づく[52]。12月19日には累計興行収入は22億円に到達する[53]。全国200館を越す映画館で上映延長が決定し、年越しロングラン上映となった[54]。公開10週目の2006年1月7日・8日までトップ10にランクインした[55]。最終興行収入は32.3億円となった[1]。観客動員は284万人[56]。
大きな過去は歴史として尊重されるが、祖父母や父母が生きてきた近過去は否定される。おかしな話である。近過去を大事に思い出す。それは自分の足元をしっかりと固めることであり、亡き人々を追悼することでもある。 — 川本三郎「『ALWAYS 三丁目の夕日』のノスタルジーのことなど」『映画を見ればわかること2』キネマ旬報社、2007年10月、250頁。ISBN 978-4-87376-295-1。
当時を知る製作委員会の人たちが本作のオールラッシュ〔荒編集の試写〕を見終わって、映画の感想を述べるのではなく、あの頃はああだった、こうだったと話を延々と始めた[41]。本作が完全に「記憶再生装置」になっていると山崎監督は解説する[41]。
安倍晋三は2006年7月に出版された『美しい国へ』(文藝春秋)の中で、「映画『三丁目の夕日』が描いたもの」として、本作品について取り上げている。また、2007年4月に中国の温家宝首相が日中会談で安倍晋三との会談の際に、本作を観たと述べた。
この映画の影響の一つに、薬師丸ひろ子の「NHK紅白歌合戦」の出演が挙げられる。この映画のヒットや彼女の演技が高く評価され、2005年12月28日に「紅白歌合戦」の審査員として出演することが発表され、31日に出演した。
2006年12月1日に『金曜ロードショー』でテレビ初放送(45分拡大)され、22.5%の高視聴率を記録した。また2007年11月2日にも、続編の公開前日特番として同枠で2回目の放送(45分拡大)を行い、こちらも20.8%という高視聴率をマークした。2010年4月9日(30分拡大)・2012年1月13日にも同枠で放送された。
公開中から続編の制作が噂されてきたが、2006年11月に『ALWAYS 続・三丁目の夕日』の制作が発表された。本作のラストシーンから4カ月後の昭和34年(1959年)春を舞台に描かれ、本作の出演者がほぼそのまま出演した。2007年1月クランクイン、2007年11月3日公開。2007年10月15日、東京日本橋で映画の発表会が行われた。
さらに、昭和39年(1964年)を舞台にした3作目の『ALWAYS 三丁目の夕日'64』が2012年1月21日に公開された。
音楽は佐藤直紀が手がけた。サウンドトラックは2005年10月21日にバップより発売された。
全作曲: 佐藤直紀。 | ||
# | タイトル | 時間 |
---|---|---|
1. | 「Always 三丁目の夕日 Opening Title」 | |
2. | 「希望を胸に」 | |
3. | 「小説家 茶川竜之介」 | |
4. | 「初めての東京」 | |
5. | 「竜之介と淳之介」 | |
6. | 「朝寝坊」 | |
7. | 「少年冒険団」 | |
8. | 「怒りの鈴木オート」 | |
9. | 「鈴木オートの夢」 | |
10. | 「ライスカレー」 | |
11. | 「我が家にテレビがやってきた」 | |
12. | 「記憶」 | |
13. | 「冷蔵庫もやってきた」 | |
14. | 「少年冒険団II」 | |
15. | 「高円寺へ」 | |
16. | 「帰り道」 | |
17. | 「クリスマスプレゼント」 | |
18. | 「指輪」 | |
19. | 「冬の日の出来事」 | |
20. | 「大晦日」 | |
21. | 「突然の別れ」 | |
22. | 「家族の絆」 | |
23. | 「Always 三丁目の夕日」 |
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発売元は小学館、販売元はバップ。
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