Loading AI tools
映画を観客たちに見せることを主目的とした施設 ウィキペディアから
映画館(えいがかん、英: cinema, 米: movie theater)は、不特定多数の観客に対して映画を専門的に上映する劇場・施設。
映画館では観客席の前の大きなスクリーン(映写幕)に映写機によって作品が投影される。
1899年にフィラデルフィアで開催された博覧会において、シグマンド・ルービンが映画を上映するパルテノン風建築のシネオグラフ館を期間限定で公開した。これが世界初の映画館ともされる。1905年頃から、アメリカで5セントで入場できる映画館ができ流行した。これらの映画館はサイレント映画を上映していた。→#歴史
映画館の特徴は、その大きなスクリーンにあるので、映画館で上映されている作品や映画館を、象徴的に英語ではbig screen(大きなスクリーン)とも言う。また、テレビをsmall screen(小さなスクリーン)と呼び、対比的に用いている。かつてスクリーンはやや銀色がかったものを用いていたので、英語ではsilver screen(=銀色のスクリーン)、日本語では「銀幕」と言う。
2020年代に入り、映写幕ではなく4K LEDスクリーンで映像を映す映画館も登場している。[1]
英国英語では「cinema」、米国英語では「movie theater」あるいは単に「theater」と称し、日本でも「シアター」と称する場合があるが、「theater」は映画館と(演劇用の)劇場とを総称する言葉である。フランス語では「salle de cinéma サル・ド・シネマ」(=映画ホール)あるいは略して「cinéma」とも言うので、日本では短い方を採用してフランス風に「シネマ」とも呼ばれる。
1889年にトーマス・エジソンらが発明した(実際の開発者は、ウィリアム・K・L・ディクソン)キネトスコープは、のぞき窓を小窓から1人で覗き込む非投影式の映画装置であり、内容もちょっとしたコントや寸劇程度のもので、デパートやドラッグストアなど様々な場所に置かれていた。1894年春、ブロードウェイに元靴屋を改築したキネトスコープ・パーラーが開店し、複数台並べられたキネトスコープを観客が順次のぞき見て周るラウンド制上映が行われた。
「スクリーンに投影された映像を不特定多数の人間が同一の場所で視覚的に共有する」(ジョルジュ・サドゥールによる映画の定義)タイプの上映装置は、リュミエール兄弟が開発したシネマトグラフ・リュミエールによる1895年の公開が最初である。このタイプの上映は、ヴォードヴィル劇場や地方のオペラハウスなどでの添え物的な上映か、ストアフロント劇場と呼ばれる仮設劇場での上映に限られていた。
1900年のパリ万国博覧会では、リュミエール兄弟が、後のIMAXシアターの登場を予感させる巨大スクリーン・巨大会場での上映を行った。また、1899年のフィラデルフィアでの博覧会では、シグマンド・ルービンが後のピクチュア・パレスを思わせるパルテノン風建築のシネオグラフ館を公開している。期間限定とはいえ、これが世界初の映画館といえる。
発明家ウィリアム・J・キーフが1904年のセントルイス万国博覧会で発表した、列車型ライドに乗ってトンネル内のスクリーンに映し出される映像を楽しむ擬似列車旅行装置は、1905年に改良を加えられて、主要都市の遊園地内に設置され、ヘイルズ・ツアーズの名で好評を博した。観客は、列車型の館内でファントム・ライド映画と呼ばれる「動く景色」の映像を見ながら、ショットにあわせて列車が震動し、汽笛を鳴らし、人工の風が吹き込むのを楽しんだ。
1905年頃、ニッケルコイン1枚で入場できると、アメリカで流行した。これが、最初の常設映画館であると言われている。スクリーンの大きさは縦3.5メートル、横4.5メートルほどの大きさしかなく、設備も伴奏用のピアノがあるくらいだった。映写機は1台しかなく、フィルムをかけかえる間、幻燈機によるスライド上映が行われた。スライドの内容は、「他のお客様の迷惑になる行為はご遠慮ください」といったメッセージや、観客が合唱するための歌詞であった。サイレント映画にオーケストラによる伴奏がつくようになったのは1910年頃からである。興行形態は (1)スライド (2)15分ほどの映画上映 (3)歌詞とイラスト付きのカラー・スライド上映と館内合唱 (4)幕間 (5)スライドに戻って3回目の映画上映で終了、といったものが一般的だった。英語を解さない移民でも理解出来るサイレント映画の上映は、彼らをアメリカ文化に同化させるのに重要な役割を果たしたといわれる。一方で、黒人専用映画館や、白人から隔離された黒人専用席などの差別待遇もあった。しかし、興盛を極めたニッケルオデオンも映画の長尺化に伴い、出火対策の不備、スクリーンの見難さ、収容人数の少なさ(100~300名程度)、劣悪な衛生環境、換気・冷暖房諸設備の不備、などの問題のために、1913年頃には衰退していった。
1900年代半ばからは、夏期の館内暑気対策として、屋外上映施設が建設され始めた。1917年には一般映画館に冷房装置が備え付けられるようになり、1930年代には同じく屋外上映施設のドライブインシアターが登場したため、この頃には姿を消した。ただし、屋外映画館での上映はロカルノ映画祭などで、現在でもイベント的に行われており、南欧の古い映画館には屋根が開閉式のものが存在する。
1920年代には映画の芸術としての側面が注目され始め、前衛芸術家やアマチュアのフィルムメーカーによる意欲的な実験映画や純粋映画が、芸術家の集まるカフェやアートハウスと呼ばれる専門映画館で上映されるようになった。
1915年頃から、宮殿を思わせる豪華絢爛な巨大映画館ピクチュア・パレスが登場し始める。ヴェルサイユ宮殿などを参考にして華美な装飾を施したこの映画館の収容定員は1000~3000名で、入場料はニッケルオデオンの5倍から40倍ほどの高額であった。興行形態は (1)ドアマンによる出迎え (2)案内係によって座席まで誘導される (3)オーケストラによる序曲 (4)序曲が終わり、照明が落ちる (5)ニュース映画上映 (6)短篇の旅行記映画あるいは実景映画の上映 (7)声楽家、ピアニストなどのライブ・パフォーマンス (8)30分ほどの喜劇映画あるいは短篇アニメーション映画上映 (9)プロローグ (10)本編上映 (11)オルガン演奏と共に退場。1910年代後半から20年代にかけて建設ブームが起こったが、トーキー映画の出現と1929年の経済恐慌によって経営が圧迫されていった。このタイプの映画館は現在ではほとんど残っていないが、ロサンゼルスのエジプシャン・シアターなどは営利目的よりも文化的目的で現在でも上映活動を続けている。
1932年頃から、中規模映画館によるA級映画、B級映画の長篇2本立て興行が始まった。この頃の映画館では特に館内の静粛性は求められず、上映中の入退場は自由であった。冒頭部では出演するスター達がクローズアップで紹介され、観客達はお気に入りのスターに拍手喝采を送り、映画会社も観客の反応をスターの人気を測る尺度にしていたという。この興行形態は、1948年にパラマウント社が独占禁止法違反の判決を受けてから徐々に廃れていった。
30年代前半にはニュース映画専門館が現れ、戦時中の情報源として重宝された。この形態の映画館はテレビが普及する50年代まで存続した。
1933年初夏のニュージャージー州に登場した。アメリカで本格的に流行したのは、第二次世界大戦後のことである。終戦直後には100館ほどしかなかったが、車社会の到来、ベビーブーム、住宅地の郊外化などの要因によって1950年代初頭には3000館ほどに増えた。1948年には、やはりニュージャージー州に、乗客とパイロットが飛行機に乗ったまま映画を見ることの出来るフライトインシアターが開館された。他にも1973年の円形劇場型のドライブインシアター、宿泊客が部屋の窓越しに映画を見ることの出来るシアター・モーテルなど、奇抜なアイデアによる映画館が現れては消えていった。ドライブインシアターも、ピークを迎えた1950年代半ば以降はテレビに押されて衰退し、1970年代までには大半が閉館を余儀なくされた。このため、2020年代初頭に再びフォーカスがされるまでの四十数年間の間は完全に廃れていたコンテンツと化していた(『ドライブインシアター#見直しへ』も参照)。
1970年代初頭、文化先進諸国におけるポルノ解禁に伴い、多くの小規模経営映画館が成人指定映画専門映画館化し、爆発的流行を産んだが、アダルトビデオの登場により衰退した。
1980年代以降、シネマコンプレックス(シネコン)と呼ばれる、複数スクリーンを持つ大型映画館が増えている。ショッピングモールなどと併設して郊外に建設されるケースが多く、今日では映画館の主流形態となっている。
鑑賞環境の地域格差の是正、メディア・リテラシーの向上、街づくりへの貢献などを目的として、地域住民や地方政府などが中心となり上映を行なっている団体、もしくはそれらの団体が拠点とする映画館を指す。ドイツでは「コミナール・キノ」という名称で1970年代から主に地方政府の支援を受け公共性の高い映画館として広まっていった。イギリスでは英国映画協会が認定した公共映画館が「リージョナル・フィルム・シアター」という名称で多様性のある作品を上映している[2]。日本では1990年代以降発生した中心市街地の空洞化や、シネマコンプレックスの台頭に伴い地方でミニシアター作品が上映されなくなったことなどからこのような活動が盛んになった。概念としてはドイツのコミナール・キノを元としている。
2020年に、アメリカ国内で新型コロナウイルス感染症が拡大すると、ほとんどの映画館が閉鎖を余儀なくされた[3][4]。2021年3月頃から映画館は再開され始めたたが、入場客数の制限を行ったため映画館の経営は困難なものとなり[5]、カリフォルニア州の例では地場の映画館チェーン、パシフィック・シアターズとアークライト・シネマズは、営業再開を断念して州内300の劇場をすべて閉鎖した[6]。世界的に見てもアメリカに本拠を置き世界最大映画館チェーンを運営するAMCシアターズも2020年決算において46億ドル(約5000億円)の赤字を記録し[7]、経営危機に直面した[8]。2022年9月7日には、世界2位のシネワールドが破産申請を行った[9]。
日本でも2020年から映画館の上映自粛が相次ぎ[10]、さらに2021年には、東京都が独自の施策として床面積1000平方メートル超の映画館に休業を要請、1000平方メートル以下の場合は休業の協力を依頼したことから、都内の独立系のミニシアターでは経営が成り立たなくなり閉館が相次いだ[11]。
1903年10月1日、東京浅草で電気館が開場した。これが日本における映画常設館の初めとされる[12]。
営業中の常設館として現存最古の日本の映画館は、新潟県上越市にある1911年(明治44年)創業の高田世界館とされ[注 1]、現在使われている建物も創業当時のものである。また、長野県長野市にある長野松竹相生座の建物は1892年(明治25年)から使われており、こちらも最古級である。
かつては映画館の名称が「○○劇場」「○○座」となっていたことが多かったほか、映画館自体を「劇場」と呼ぶ(例:館内の「劇場内は禁煙です[注 2]」の注意書き等)慣例も残っている。これは芝居小屋が映画館に転じた例があったことや、一部の大規模映画館で映画興行の合間にアトラクションとして実演(歌手の歌謡ショーや演芸など)が催されていた、といった経緯によるものである(このような映画館では楽屋を備えていた)。演劇の劇場との区別のため、用いられる例は少なくなっている。
入場税が存在した時期には映画館の入場も課税の対象となっており、1947年(昭和23年)から1950年(昭和25年)にかけては税率150パーセントの税が課されていた時期がある[13]。
人口約60万人だった1960年頃の広島県広島市には、映画館が約60館以上がひしめき合っていた[14]。封切館の大人料金は、1966年で500円、1975年で1000円だった[14]。当時は二本立てが基本。朝一番の上映から最終上映まで留まることも可能で、二本立ての合間の休憩時間には決まってアイスクリーム売りのおじさんが現れた[14]。脚本家の遊川和彦は、広島大学時代に広島市内の映画館を回り、そのアイスクリームを売るアルバイトをし[15][16]、映画を見続けるうち、すっかり映画の虜になり、「好きな道で生きて行こう」と決めたという[15]。
1990年代以降、複数のスクリーンが集まるシネマコンプレックス(シネコン)の台頭で、どこも街なかの映画館は次々と姿を消していった[14]。
日本の映画館は、規模別・興行形態別に以下のように区分される。
また、映画倫理機構(映倫)が定めるレイティングに従い、R-18指定の映画を中心に上映する映画館を「成人映画館」(後述)、それ以外の映画が主であるものを「一般映画館」と区分することがある。
封切館は大手映画会社によって築かれた全国規模のネットワーク(チェーン)が出来ており、テレビのネットワーク同様、原則としてネット元の映画会社が選択した映画を上映する映画館である。この場合、ある程度のヒットを想定している。大都市圏にはチェーンの中心となる館が設定される(これを「チェーン・マスター」といい、大規模な映画館がその役割を担う)。現代日本の封切館の主流は、1990年代~2000年代ころからシネマコンプレックス(シネコン)に移行しつつあり、規模や立地条件などにより区分された配給形態の等級づけ(後述)は、ほぼ消滅状態となっている。シネコンには従来型の映画館にない新技術を導入した劇場もある(巨大スクリーンのIMAXシアターやオムニマックス・シアターなど)。
名画座の源流は、封切館より立地の劣る区域向けの映画館で行われていた、封切り終了後に遅れて新作を上映する興行形態の存在である。封切館から1~2週間遅れで新作を上映するものを「二番館」、更に遅れて上映する館を「三番館」「四番館」と呼んだ。これらの遅れ流通のことを「下番線」、下番線系列の映画館を総称して「下番線劇場」「下番線館」などと呼んだ[17]。これら下番線劇場では二本立てや三本立ての興行が一般的で、特定1社ではなく複数の会社の製作・配給作品を取り混ぜて興行することも多かった。この「下番線」形態は上述のとおり、シネコンの登場で薄れつつある。また、名画座はレンタルビデオやDVDの普及により減少傾向にある。
一般的に映画館運営会社(興行会社)などによって運営され、顧客にチケットを買ってもらい入場させ映画を見せ、会社はそのチケットの売り上げによって利益を得るという形をとる。
他方、上映用フィルムの配給元となった配給会社に対し、定額ないしチケット売り上げ額に対する一定割合(映画によって変動あり)の額を、「フィルム貸し料」として支払う。これが映画館の経費の多くを占める。
日本では、厚生労働省が監督官庁であり、直接的には所在する都道府県又は市が設置している保健所の監督を受ける。また、都道府県ごとに、生活衛生関係営業の運営の適正化及び振興に関する法律に基づく興行生活衛生同業組合(これには、映画館以外に演芸場や貸しホール等も加盟している)を組織している。なお、この組合はあくまで任意加盟である。例えば、シネマコンプレックス(シネコン)がオープンする際に、地元の既存映画館と対立するケースもあり、その結果、そのシネコンは組合に未加盟のままとなっている例もある。
映画館の設置にあたっては、興行場法に基づき都道府県知事の許可が必要となっている。また、建築基準法による用途規制により、映画館は客席の面積が200平方メートル以上10000平方メートル未満である場合には近隣商業地域、商業地域、準工業地域でのみ設置できる。200平方メートル未満であれば準住居地域でも設置できる。映画館の規模によっても違うが、一般的に劇場内部には1スクリーンあたりおよそ80~600席の座席が設置されている。1スクリーン当たりの平均的な客席数は、300席未満の映画館が多い。
映画を鑑賞するための入場券は前売り・ないし当日券という形で販売される。前売り券の場合は多少の割引や、非売品の記念品が付属するなどの特典が付くことが多い。金券ショップに持ち込まれたものを購入することも出来るが、トラブルが皆無という訳ではないので、そのような店での入場券の購入の際には注意が必要である。また、夜間上映などの時間帯・ないし学生割引・レディースデー・『映画の日』(本来の記念日としては12月1日だが、現在では多くの都道府県において毎月初頭1日に「映画サービスデー」として拡大されている)・シニア割引など、様々な割引制度が実施されている(詳細については、映画料金割引の項を参照)。身体障害者手帳、療育手帳(知的障害者向け障害者手帳)、精神障害者保健福祉手帳(手帳表紙には「障害者手帳」と書かれている)を持っている障害者は窓口に当該手帳を提出すると、映画館によっては当該障害者及び同伴の介護者の入場料金を割引く。
映画館の受付ロビーには、上映中の作品や次回上映予定の作品のポスター・上映日程・時間帯などが示されている。これらや新聞広告・TVCMなどの情報を元に、観客は自分が鑑賞したい作品のスケジュールを知り、後日に映画館に足を運ぶ段取りとなる。また、映画館によっては、上映作品の販売状況などが、空席があるのか満席かなどが受付の電光掲示板ないしインターネットのウェブサイトなどで確認出来る場合がある。
日本の映画人口が減少期に入った1960年代後半以降、多くの映画館では流し込み制(一度入場すれば、途中退出しない限り、最終回の上映終了まで、何度でも鑑賞可能)を採用してきた。しかし、近年主流となっているシネコンやミニシアターでは入れ替え制を採用しており、チケットに指定された回の上映が終わった後は、観客は速やかに劇場から退場しなくてはならない。
いずれの方式においても、入口を出た後の再入場は基本的に許可されていない(流し込み制であれば、改めて入場料が必要)が、トイレや自動販売機・売店などが館内に設置されていない等の事情により、入場時の半券を提示することで、その半券記載の上映時間内であれば許可するシステムをとる館もある。
客席外通路などでパンフレットが、ときに関連グッズも販売されることもある。
封切初日などには、出演者や監督などが舞台上に立ち、観客に対して「舞台挨拶」をおこなうこともある。
シネコン、ミニシアター共に午前中のみの上映(モーニングショー)や夜間上映(レイトショー)などで公開作品数を増やす試みが浸透している。
下記の上映制度(映画鑑賞システム)の分類は加藤幹郎著『映画館と観客の文化史』による[18]。
日本においては1960年代前半から日本独特のジャンルであるピンク映画を上映する映画館が現れ始めた。ピンク映画、日活ロマンポルノ、同性愛者向けのゲイポルノなど日本独特の成人映画が製作されている。また、1990年頃までは「洋ピン」と呼ばれる、海外のポルノ映画を日本の基準に修正した映画も公開されていた。日本で製作された成人映画および洋ピンは、映倫によってすべて成人指定(現在のR18指定)を受けた事から、これらを上映する映画館は「成人映画館」(縮めて成人館とも)と呼ばれる事が多い。その後、レンタルビデオ店が繁盛するにつれて、こうした成人向け映画館は廃れていった。ただし、性的な映像の市場としてはアダルトビデオやDVD、インターネットによる動画配信が主流となった今日でも、成人映画館は都市部の片隅に少数ながら存続している。また、ダンス・ショーなどのライヴ・パフォーマンスにより、観客との交流が活発に行われているのも大きな特徴である。
映画館を興行する会社の一覧を以下に掲載する[19]。
映画配給会社系列、または全国展開している独立系興行会社とその関連会社である。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.