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東京の飼い犬 ウィキペディアから
忠犬ハチ公(ちゅうけんハチこう)は、日本の忠犬。大正末期から昭和初期にかけて、東京市の渋谷駅まで飼い主の帰りを出迎えに行き、飼い主の死去後も約10年にわたって通い続けて飼い主の帰りを待ったという逸話で知られる。
犬種は秋田犬(あきたいぬ)で、性別はオス。名前はハチ。ハチ公の愛称でも知られる。
ハチが飼い主を待ち続けた渋谷駅の出入り口の前にはハチの銅像が設置されており、この「忠犬ハチ公像」は渋谷のシンボルともなっている。観光名所としても有名である[1]。
ハチは、飼い主が死去した後も駅前で帰りを待ち続けた「忠犬」として知られる。東京・渋谷をはじめ、ゆかりの地には像が置かれている。特に渋谷駅前のハチ公銅像は、いつしか待ち合わせの目印として使われるようになり、その銅像周囲は待ち合わせ場所としては「ハチ公前」などと呼ばれ、広く親しまれている。
ハチの飼い主は東京府豊多摩郡渋谷町大向(現:東京都渋谷区松濤一丁目)に住んでいた、東京帝国大学の教授である上野英三郎であった[2][3][4]。彼は大変な愛犬家であり、出かける時には渋谷駅までハチを伴うことも多かった[5]。しかしながらハチを飼い始めた翌年にあたる1925年(大正14年)に上野は急死した。
上野英三郎の死後も渋谷駅前で亡くなった飼い主の帰りを毎日待ち続けたハチの姿は、新聞記事に掲載され、人々に感銘を与えたことから「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになった。
さらに、1934年(昭和9年)には渋谷駅前にハチの銅像が設置されることとなり、その除幕式にはハチ自身も参列した。同じく1934年(昭和9年)に尋常小学校2年生の修身の教科書には、「恩ヲ忘レルナ」の話題としてハチの物語が採用された[6]。これをファシズムと関連づける見解がある[7]が、1936年(昭和11年)発行の修身教科書の「恩ヲ忘レルナ」の話題は大正時代の修身教科書の「永田佐吉の恩返し」に戻り、1938年(昭和13年)発行の修身教科書の「謝恩」の話題は大正時代の修身教科書の「謝恩」の話題「豊臣秀吉夫妻の恩返し」に戻っており、ハチの物語は二度と修身教科書に採用されなかった[8]。
ハチの銅像は第二次世界大戦中の金属供出によって破壊されたが、戦後再建され、現在に至るまで渋谷のシンボルとして、また渋谷駅前における待ち合わせの目印となって立像している[5]。
映画化もされ、1987年に『ハチ公物語』(松竹) が、2009年にはハリウッド映画『HACHI 約束の犬』が公開された。また、2023年には中国で映画『忠犬八公』が公開され、劇中の犬の名前は「八筒」(麻雀牌の八筒に由来)に替えられたが、映画の題名はハチ公を漢字表記した「八公」であり、1987年の『ハチ公物語』を原型に改編したリメイク作品であることが表題とクレジットに明記された。
ハチは1923年(大正12年)11月10日[注釈 1]、秋田県北秋田郡二井田村(現在の大館市)大子内の斉藤義一宅に八頭の兄弟で誕生した[注釈 2]。父犬の名は「オオシナイ(大子内)」、母犬の名は「ゴマ(胡麻)」で、赤毛の子犬であった。
東京帝国大学農学部で教授を務めていた上野は秋田犬の仔犬を飼いたいとの希望があり、ハチは世間瀬という人物によって上野のもとへ届けられることになった。ハチの価格は30円(当時)であり、生後間もない1924年(大正13年)1月14日、米俵に入れられて大館駅を出発。急行第702列車の荷物車にて20時間の移動後、東京の上野駅に到着した[10]。
上野の居宅は、東京府豊多摩郡渋谷町大字中渋谷字大向834番地で、ハチは「ジョン」と「エス (S)」という二頭の犬たちと共に飼われた。このうちポインター犬のジョンは、特にハチの面倒見が良かった。
ハチは、玄関先や門の前で主人・上野を必ず見送り、時には最寄駅の渋谷駅まで送り迎えすることもあった。
ハチを飼い始めて1年余りが経った1925年(大正14年)5月21日、主人・上野は農学部教授会会議の後に脳溢血で倒れ、急死してしまう[5]。ハチは、この後3日間は何も食べなかった。同25日には故主・上野の通夜が行われたが、その日もハチは、ジョンとエスと一緒に上野を渋谷駅まで迎えに行っていたという。
その後、ハチは上野の妻である八重の親戚の日本橋伝馬町の呉服屋へ預けられたが、人懐っこい性格から店に客が来るとすぐ飛びついてしまうため商売にならず、そのため浅草の高橋千吉宅へと移された。しかし、ハチの上野を慕う心は甚だしかったためか、散歩中に渋谷へ向かって逸走するなどのことがあるほどだった[5]。さらに、ここでもハチのことで、高橋と近所の住人との間でもめごとが起こり、ハチは再び渋谷の上野宅へ戻されてしまう。
渋谷に戻ったハチは近所の畑で走り回り、作物を駄目にしてしまうということから、今度は渋谷の隣、豊多摩郡代々幡町大字代々木字富ケ谷に住んでいた、上野宅出入りの植木職人で、ハチを幼少時から可愛がっていた小林菊三郎のもとに預けられる[5]。ハチが代々木富ケ谷の小林宅に移ったのは、上野が死亡してから2年余りが経った1927年(昭和2年)秋のことであった。この頃から渋谷駅で、上野が帰宅していた時間にハチが頻繁に目撃されるようになった。ハチは小林にもねんごろに愛育されていたのにもかかわらず、渋谷駅を訪れては道行く人々を見て、食事のために小林宅に戻ってはまた渋谷駅に向かうということを繰り返していた[5]。ハチが渋谷駅を訪れる際には、途中の渋谷大向にある旧上野邸に必ず立ち寄って、窓から中を覗いていたという。
ハチは白い犬だったが、毎日渋谷駅に来ていたため汚れてしまい、さらに当時は犬は「安産の象徴」とされており、身に付けていた胴輪を心ない人から「安産のお守り」としてよく盗まれていたため、野犬と間違われ何度も野犬狩りで捕まった。ハチは逃げるのが遅かったため、簡単に捕まっていたという。
渋谷駅前に現れ故主を待つようになったハチは、通行人や商売人からしばしば虐待を受けたり、子供のいたずらの対象となったりしていた。
一方、上野を迎えに渋谷駅に通うハチのことを知っていた日本犬保存会初代会長の斎藤弘吉は1932年(昭和7年)、渋谷駅周辺で邪険に扱われているハチを哀れみ、ハチの事を新聞に寄稿した。これは『東京朝日新聞』に「いとしや老犬物語」というタイトルで掲載され、その内容は人々の心を打った。ハチについては翌1933年(昭和8年)にも新聞報道され、さらに広く知られるようになり[5]、有名となったハチは「ハチ公」と呼ばれ、かわいがられるようになる。
同年11月にはハチが世界的な愛犬団体「ポチクラブ」から名誉会員に推薦されたと報じられた[11]。ハチに食べ物を持参する者も多く現れるようになり、またその人気から渋谷駅はハチが駅で寝泊りすることを許すようになった[5]。飼い主であった上野は「心が卑しくなる」としてハチに芸をさせなかったといわれるが、この頃のハチはお手をしているとみられる姿が撮影されている[12]。また、ハチの晩年を写した写真では左耳が垂れているが、これは生まれつきのものではない。垂れた理由として、野犬に噛み付かれた際の後遺症[13]、当時の飼育者が噛まれた傷口を縫う応急処置に失敗した[14]、などの説が存在する。
この頃にハチを正面から撮影した写真を上野宅の近所に住んでいた女性が保存しており、2017年に白根記念渋谷区郷土博物館・文学館へ寄贈。2019年2月~3月開催の新収蔵資料展で公開された[15]。
1934年(昭和9年)、ハチが映画『あるぷす大将』(監督:山本嘉次郎)に出演する。生前のハチの姿が映像として収められた作品である。
日本に数年滞在していたブルーノ・タウトはその日記において1934年10月31日に渋谷駅でハチ公を見たと述べている。人々が優しくなでていくが、その隣には既に台座と像が置かれていることが記されている。タウトはこの時、ハチ公の写真も撮っている[16]。
上野が死去してから10年近くが経った1935年(昭和10年)3月8日午前6時過ぎ、ハチは渋谷川に架かる稲荷橋付近、滝沢酒店北側路地の入口(現在の渋谷ストリーム駐車場入り口付近)で死んでいるのを発見された。死亡時刻は同日の午前2時とされている[17]。満11歳没。ここは渋谷駅の反対側で、普段はハチが行かない場所であった。
ハチの死後、渋谷駅では12日にハチの告別式が行われ、上野の妻・八重や、富ヶ谷の小林夫妻、駅や町内の人々など多数参列した。また、渋谷・宮益坂にあった妙祐寺の僧侶など16人による読経が行われ、花環25、生花200、手紙や電報、更には180,200円を超える香典など、人間さながらの葬儀が執り行われたという[18]。
ハチは上野と同じ青山霊園に葬られ、四メートル四方の竹垣で囲った区画の奥には、「東京帝国大学教授 農学博士 上野英三郎墓」と刻まれた墓石がある。右手には小さい祠があり、これがハチの墓である[19]。死体は坂本喜一と内弟子の本田晋によって剥製にされ、現在は東京・上野の国立科学博物館に所蔵され、幾度となくメディアにも登場している。また、遺骨は骨格標本にされたが、1945年5月25日の東京大空襲(山の手大空襲)によって焼失した。
ハチの死後13時間が経過した3月8日午後3時、死体の病理解剖が上野の勤務先であった東京帝国大学の農学部獣医学科病理細菌学教室(現・東京大学大学院農学生命科学研究科獣医学専攻獣医病理学研究室)において行われた[17]。
解剖の結果、ハチの心臓には大量のフィラリアが寄生し、それに伴う腹水が貯留していた。また、胃の中からは焼き鳥のものと思われる串が3 - 4本見つかっている。
解剖後、ハチの剥製が作成され、内臓はホルマリンに漬けられて保存された。これら臓器については、ホルマリン液交換の度にじっくり観察すると腫瘍らしきものが見られることが従来から認識されていた。組織標本採取の機会に恵まれた2010年(平成22年)の暮れから精密検査が行われ、犬フィラリア症は中程度(決定的致死原因に非ず)であって、それぞれ心臓に重度の浸潤性癌、肺に転移性の癌があることが確認された。この再検査の結果は2011年に発表された[17][20][21]。
ハチの臓器標本は現在、東京大学農学資料館(弥生キャンパス農正門入ってすぐ右)に展示されており[9]、フィラリアが寄生している様子も観察できる。
なお、ハチ公が亡くなった当時はフィラリア予防薬はまだ無かった。
ハチの死体は東京帝国大学で病理解剖後、3月10日に東京科学博物館(現在の国立科学博物館)別館の木工部工作室に届けられ、そこで坂本喜一と内弟子の本田晋によって剥製にされた。
ハチの剥製の製作は、一般には坂本喜一とされている。坂本喜一は日本の剥製製作の元祖と言われている坂本福治の息子であり「坂本式剥製法」を大成させた人物である。しかし、ハチの剥製製作依頼が来た時、既に坂本は高齢であったため、実際の剥製製作は内弟子の本田晋が担当した。
斎藤弘吉は自書『日本の犬と狼』で、坂本と本田は剥製室内には完成までは一切他の人を入れず2人で籠って製作を行っていたが、自分だけは時々入室した、と記載している。
東京科学博物館に届けられたハチの死体はひどく汚れて臭気も発していたため、まず時間をかけて念入りな洗浄が行われた。ハチは持病のフィラリアがあったため獣医らにより奉仕治療が行われていたが、注射を打つために前肢の毛が剃られており、四肢の内側を剥ぐために皮膚の切開を行うと皮膚が浮き上がっていて皮下に貯まっていた注射液が流れ出した。毛が剃られた部分は他の部分から毛が移植された。
垂れた左耳は内側の軟骨部が付け根部分で咬み抜かれており、胃には焼き鳥の串が数本あった[22](東京大学の解剖記録によれば胃の中に折れた串が数本あったが胃壁に刺さってはいなかった)。
製作は石膏で精密な塑像を制作し、その上に毛皮を被せる手法「坂本式剥製法」で作成された。骨格は全て取り除かれているため、残っているのは爪と指骨だけである。剥製が完成したのは6月13日で、本田晋が作成したケースに収められ、2日後の15日に東京科学博物館で開眼式が執り行われた後、一般公開された。
制作者の本田晋86歳時の述懐によれば、ハチ剥製の胴体には後々の事を考えて「いつ死に、いつ作られ、誰が作ったのか」を記載した封筒をこっそり収めた。何万点も剥製を作ってきたが、そんな事をしたのはハチの剥製だけである、と記している[13]。
国立科学博物館上野本館の日本館2階北翼に展示されている[23]。2019年5月には、大館市観光交流施設・秋田犬の里開館のため貸出された[24][25]。
新聞報道によって「忠犬ハチ公」が広く知られるようになった翌年である1933年(昭和8年)頃、ハチの美談に感動した帝展彫刻審査委員も務める彫塑家・安藤照は、かねてより知り合いであった斎藤弘吉にハチの銅像を作りたい希望を伝えた。この結果、日本犬保存会からの依頼によりハチの像が作成されることとなり、上野の死後、1927年(昭和2年)からハチの飼い主となっていた小林菊三郎はモデルとなるハチを連れて代々木富ヶ谷の自宅から初台にある安藤のアトリエまで毎日通った[26]。しかし、安藤がハチ公像を作っている最中、ハチに関する件を全て上野家から託されたと自称する老人が現れ、美術院同人の大内青圃にハチ公木像製作を依頼するための資金集めと称して絵葉書を売り始める事態が発生した。そのため、安藤はそれを阻止する意図でより早く銅像を作らなければならなくなり、ハチが生きているうちに銅像が建てられた経緯がある[27]。動物の銅像がその存命中に建てられるのは極めて異例である[28]。
佐藤忠男は「当時は東京じゅう、至る所に銅像のあった時代だったけれど、犬の銅像なんて海外にはないんじゃないか。当時としては東京の街はずれといっていい渋谷に犬の銅像が作られたということは、私にはほとんど、銅像ばやりの当時の世相に対するパロディのような気がした。銅像は絵葉書の材料になったし、雑誌のグラビアページにも載って、地方の人々などは東京の名所々々を銅像と関連させて記憶するほどだった。何の特色も史蹟もない渋谷に、犬の銅像のある新名所を作ってやろうか、と、そんな冗談半分の気持ちだったのではなかろうか。少なくともそこにはユーモアの感覚はあった筈だ」などと述べている[29]。
1934年(昭和9年)1月には「忠犬ハチ公銅像建設趣意書」が作成され、銅像建設の募金が開始された。日本犬保存会が発起した資金集めには、鉄道諸官庁も後援した[5]。
同年3月10日午後5時から神宮外苑の日本青年館で、ハチと共に発起人の斎藤弘吉、上野未亡人などが参加した「銅像建設基金募集の夕」が開催され、約3,000人がハチを見ようと集まった[30]。その後、同年4月21日には渋谷駅正面に「忠犬ハチ公像」が設置され、盛大に行われた銅像の除幕式にはハチ自身と飼主の上野未亡人、その孫娘のほか、文部省、鉄道省などの役人やハチのファンら約300人が参集した[31]。生存中に自らの像が作成・設置されたハチであったが、除幕式の翌年、1935年(昭和10年)3月8日に死んだ。この際、ハチ公像の周囲は花環で埋まり、大勢の人々が集まってハチの死を哀れんだ[32]。
時同じくして、日中戦争から太平洋戦争にかけての国内情勢から金属物資の不足が深刻化し、1941年(昭和16年)に勅令で金属類回収令が施行。これによりハチ公像が金属供出されることが東京鉄道局より通達される。これを知った斎藤はハチ公像が金属供出される事を阻止する目的で抗議活動を起こした。その内容は安藤の制作したこの銅像の芸術性を訴えかけたり、さらには自らが同じ分量の銅を捻出する旨を伝えたりするなどしてまで、銅像の溶解を断固として退けようとしたという。
しかし、国内の様々な銅像や梵鐘、庶民の有する細々とした金属製品までが供出される中、渋谷駅前という目立つ場所にあるハチ公像が供出されないのでは他に示しがつかないため、1944年(昭和19年)10月に、戦争が終わるまで別所にて保管するという事で表向きは「撤去」という扱いで決着がついた。
同年10月12日、渋谷駅ではハチ公像に日本国旗のたすきをかけるなどの「出陣式」が行われた [32]。「戦争が終わるまで別所にて保管する」となっていたハチ公像であったが、ポツダム宣言受諾を日本国民に伝える玉音放送の前日、1945年(昭和20年)8月14日に、鉄道省浜松工機部で溶解されてしまった。溶解されたハチ公像は機関車の部品となり、東海道線を走ることになる。
なお、2006年(平成18年)6月13日放送の『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京)にて、一般人出演者が初代忠犬ハチ公像の台座部分に使用された銘板を出品。鑑定士により本物と確認された。
ハチ公像を制作した安藤は、1934年(昭和9年)、良子皇后(後の香淳皇后)がハチ公の美談に感銘を受けたことを聞き及び、像を献上することを思い立ち、改札前で寝て待つハチをモチーフにした小型のハチの臥像を渋谷駅前に建立される銅像と同時に制作した。この鋳造の忠犬ハチ公臥像は同年5月10日、斎藤弘吉執筆による「ハチ事跡概要」と併せて、天皇(昭和天皇)、皇后、皇太后(貞明皇后)に献上された。
安藤は、この忠犬ハチ公臥像のレプリカを鋳造して所持していたが、1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍による東京大空襲で死亡。レプリカの所在も不明となった。その後、安藤の息子で同じく彫刻家の安藤士が、足の折れた状態のレプリカを亡父のアトリエ跡から見つけ出した。2010年現在、安藤士はこのレプリカを保管している[26]。なお安藤士は2019年1月13日に95歳で死去。
安藤照が制作した忠犬ハチ公像は戦争によって失われ、安藤も戦災死してしまったが、終戦から僅か3年後の1948年(昭和23年)8月、安藤の息子である安藤士の制作によって再建された。敗戦後の日本は未だ連合国軍の占領下にあったものの、忠犬ハチ公の物語は戦前に既に欧米に紹介されており、再建にあたっては、その物語に感銘を受けていた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の愛犬家有志が有形無形の支援を行ったと伝えられ[33][34]、この再建像の除幕式である8月15日には、GHQの代表も参列した。戦後の物資不足により、安藤士は亡父が遺した作品『大空に』を熔かして新たなハチ公像を鋳造した。再建に際しては名称が問題となり、軍国主義を思わせる「忠犬」という言葉ではなく「愛犬」ハチ公にしようという意見があったが、最終的に「忠犬」のままとなった[35]。
また再建直後の同年8月30日には、来日したヘレン・ケラーが渋谷駅前を訪れてハチ公像に触れている。
1960年代ではハチ公像の知名度は高かったが、ハチ公の歴史について知っている人は少なかった。1980年代に東急グループが映画などによってハチ公を渋谷駅のランドマークにしていったことで、再びハチ公の由来が有名になっていった[36]。
ハチ公像建立五十周年にあたる1984年4月8日のハチ公祭りにおいて、東京大学農学部農学資料館に展示されている上野英三郎胸像が特別に運び込まれ、銅像同士の再会を果たす[37][38]。
像が設置されている広場に繋がる渋谷駅の玄関口には、「ハチ公口」という名称がつき、渋谷スクランブル交差点につながる人通りの多い場所であり、待ち合わせの名所としても知られる。再建当時は当時の駅前広場の中央に鎮座していた忠犬ハチ公像であるが、停車エリア(現存せず)の開設や地下街出口の設置、噴水広場(現存せず)の整備等のたびに広場内で移動を繰り返している。1989年(平成元年)5月の駅前広場拡張にともなう4回めの移動では、設置の方角もそれまでの北向きから東向きに修正され、駅の出口にハチが対面する形となった。また、台座の高さも像に触れやすい高さに変更された。
山形県の藤島町役場(2005年より鶴岡市役所藤島庁舎)には、正体不明のまま保管されていた石膏製の犬の像があったが、これは2006年(平成18年)、地元の薬剤師・高宮宏によって、渋谷駅前に再建された忠犬ハチ公像の試作品であることが明らかにされた。
この石膏像は、再建像を制作した彫刻家、安藤士によって1947年(昭和22年)に制作されたもので、実際の銅像の完成後には安藤が作業場として使っていた借家を家財ごと女優の三條美紀が購入した事がきっかけで、三條の父で藤島町出身の佐藤円治(元俳優・映画制作会社役員)の手に渡った。その後、持ち主を転々として、最終的に1985年(昭和60年)藤島町役場の新庁舎完成記念として建設会社から役場に寄贈されて、保管されていた。この事実が判明後、鶴岡市役所藤島庁舎はこの像を展示し、一般に公開していた。
2012年(平成24年)6月24日からJR鶴岡駅構内に、ひな人形展示の時期を除き公開されている(4月15日から翌年の2月15日まで)。
この試作像が見つかった鶴岡市は、忠犬ハチ公を世に知らしめた斎藤弘吉の出身地でもあったことから、これらに関する活動が盛んに行われるようになった。2006年(平成18年)11月3日には、「鶴岡ハチ公像保存会」が設立された。同会はハチ公石膏像の保存や普及、斎藤弘吉の偉業の普及、およびハチの兄弟子孫の調査などを活動内容としている。初代会長には石膏像の出自を明らかにした薬剤師・高宮、副会長には勝木正人、事務局長には黒羽根洋司が就任した。
上野の生誕地である三重県津市久居地域では「上野とハチが一対となった銅像」の設置を目的に募金活動を行うなどした。その結果、2012年(平成24年)10月に久居駅東口にこの一対になった銅像が完成・20日に除幕式が執り行われた[39]。
2015年(平成27年)3月8日(ハチの80回目の命日)、東京大学本郷地区キャンパスの農学部キャンパス(弥生キャンパス)に、上野とハチが一対になった銅像が完成している[40][41]。
生後間もなく東京・渋谷の飼い主の元に届けられたハチであるが、秋田県大館市は「ハチ公生誕の地」として、ハチに関連する活動を多く行っている。
当地での活動の始まりは、ハチの死後4か月あまりを経た1935年(昭和10年)7月8日、東京・渋谷のハチ公像と同じ型で作られた銅像が大館駅前に設置されたことによる。この銅像も渋谷の銅像と同じく戦時の金属供出によって失われたが、1987年(昭和62年)11月14日に再建・序幕された[42]。このハチ公像は、晩年のハチをモデルとした左耳が垂れたすがたの渋谷のハチ公像とは異なり、両耳とも直立していることを特徴としている。
また、大館駅の構内には1989年(平成元年)春、「JRハチ公神社」と称する神社が作られ、発泡スチロール製の全長・全高ともに約2メートルという大型のハチ公像が設置された。これは大館商工会議所が映画『ハチ公物語』(1987年公開)を記念して作成したものであった(『交通新聞』)。後に2009年(平成21年)10月14日、全長85センチメートル、重さ30キログラムの青銅製(台座・額・由来案内板は十和田石)の「2代目」ハチ公像(高さ85cm、幅40cm、奥行き90cm)に置き換えられ、神社自体も新装となった[42]。
「2代目忠犬ハチ公銅像」は、2019年5月8日開館の観光交流施設「秋田犬の里」に移設された[43][44]。秋田犬の里の外観はハチ公が飼い主を待ち続けた時の二代目の渋谷駅である。
さらに、2003年(平成15年)10月12日にはハチの生誕80周年を記念し、市内のハチの生家前に石碑が設置された。また、翌2004年(平成16年)10月には、市内の秋田犬会館前に新たな像、「望郷のハチ公像」が設置された。
ハチのことを新聞に投書した斎藤弘吉によれば、駅員や焼き鳥屋にいじめられるハチがかわいそうなので、日本犬の会誌にこのことを書いたが、より多くの人に知ってもらうためにと、『朝日新聞』に投書したという。斎藤は自著『日本の犬と狼』のなかで、次のように記している。
「(ハチは)困ることにはおとなしいものだから、良い首輪や新しい胴輪をさせると直ぐ人間に盗みとられる。(中略)また駅の小荷物室に入り込んで駅員にひっぱたかれたり、顔に墨くろぐろといたずら書きされたり、またある時は駅員の室からハチが墨で眼鏡を書かれ八の字髯をつけられて悠々と出て来たのに対面し、私も失笑したことを覚えている。夜になると露店の親父に客の邪魔と追われたり、まるで喪家の犬のあわれな感じであった」「なんとかハチの悲しい事情を人々に知らせてもっといたわって貰いたいものと考え、朝日新聞に寄稿したところ、その記事が大きく取り扱われ、昭和七年十月四日付朝刊に『いとしや老犬物語、今は世になき主人の帰りを待ちかねる七年間』という見出しにハチの写真入りで報道され、一躍有名になってしまった。(中略)朝日の写真班員の来駅で駅長がびっくりしてしまい、東横線駅ともども駅員や売店の人々まで急にみな可愛がるようになってしまった」
— 斎藤弘吉 『日本の犬と狼』 雪華社、1964年
この一連の美談に対し異を唱える説も存在している。
哲学者の高橋庄治は当時上野英三郎の近所に住んでおり渋谷駅で待つハチも目撃しているが、上野は大学教授という職業柄通勤時刻が不規則な上、ハチも通勤に関係無い時間帯に駅近くをぶらぶらしていた。このハチの習慣を知らない駅員が勝手に忠犬と勘違いした話を、戦時中多用された忠義という言葉の宣伝のために利用されたのではないかと推測している[注釈 3]。
ハチが毎日のように渋谷駅に現れたのは駅前の屋台で貰える焼き鳥が目当てだったという説もあり、生前のハチを実際に見ている渋谷出身の鉄道紀行作家宮脇俊三によると、1933年(昭和8年)当時からハチは駅周辺の人々から与えられる餌を目当てにしているという噂が立っていた[45]。
一方、実際のハチには、この説と合致しない行動が知られている。
また、ハチの美談を世に知らしめた斎藤弘吉は、「有名になるといつの世でも反対派が出るもので、ハチが渋谷駅を離れないのは焼き鳥がほしいからだと言いだす者が出た。ハチに限らず犬は焼き鳥が一番の好物で、私も小林君もよく買って与えていたが、そのためにハチが駅にいるようになったものでない…」と、自身の著書の中で異論に反対している[46]。
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