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中国地方に属する令制国の一つ ウィキペディアから
「出雲」という国名は歴史的仮名遣では「いづも」である。古事記(712年)や日本書紀(720年)に「出雲」の表記が見えるほか、須佐之男命が歌を詠む場面では「伊豆毛」[1](古事記)、「伊弩毛」[2](日本書紀)といった表記も使用されている。
文字の初見は鰐淵寺が所有する「銅造観世音菩薩立像」の台座に見える「壬辰年(692年)五月出雲国若倭部」の銘文である[3]。また、天平5年(733年)に編纂された『出雲国風土記』の冒頭部分に出雲と名付けられた由来が語られており、これが出雲の由来を記した最古の文献とされている。しかし、風土記では八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が「八雲立つ」と発したことを出雲と名付けた根拠として記すのみで、出雲と名付けるに至った歴史的経緯については一切の記載がない。このことから定説となるには至っておらず、現在も様々な説が議論されている。
古くから出雲の語源を解明しようとする試みがなされている。代表的な解釈として以下のような説がある[6]。
昭和時代の軍人、言語学者である松岡静雄の説。「イツ」は神聖な意を現し、「モ」は「藻」の形容である。即ち海松や黒珊瑚といった装飾品の材料を数多く産出した出雲国の海岸から国名を得たものであると主張した[7]。
第82代出雲国造、千家尊統の説。「イツ」は霊威や神威を現し、「モ」とは「モノ」のモである。このモノの観念を表すために雲の漢字を当てたのではないか。このように考えた場合、出雲とは文字通り霊威の国であり神の国という意味になる、と推測している。
地理学者、藤田元春の説。イツモとは五面(イツオモ)のことでオモとは地域のことを指す。国引き神話において八束水臣津野命が引いてきた土地とされる杵築(きづき)、狭田(さだ)、闇見(くらみ)、三穂(みほ)の四地域と出雲平野を合わせると五面となる。つまり出雲国とはこれらの五つの地域から成り立つ国という意味があると考察した。
アイヌ語では岬のことを「エツ」と言い、静かな所もしくは湾港のことを「モイ」と言う。この二つの言葉が合わさってエツモイとなりイツモに変化したとする説。島根半島には十六島(うっぷるい)や恵曇(えとも)といったアイヌ語の語感に近いとされる地名が残されている[8]。また、アイヌ語の権威、金田一京助はアイヌ語で岬のことを「エンムル」と呼ぶためこれがイツモに変化したと見るべきだと主張している。
歴史学者、白鳥庫吉の説。古くから東国はアヅマと呼ばれているがそれは「朝つ方」という意味であり、イツモは「夕つ方」で西という意味になると解釈した。
明治維新の直前の領域は、島根県松江市、安来市、雲南市および出雲市の大部分(多伎町神原を除く)、大田市の一部(山口町山口・山口町佐津目)、仁多郡の大部分(奥出雲町八川字三井野を除く)、飯石郡の大部分(飯南町塩谷・井戸谷・畑田を除く)にあたる。
古代出雲は、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)との二大勢力から出発し、以後統一王朝が作られ、日本海を中心とした宗教国家を形成したと考えられている。特に東部出雲は律令下のいう伯耆国まで連続的な文化的つながりがあったため、特に弥生期では出雲と伯耆(鳥取県西部)を出雲文化圏とする向きもある。考古学的見地からは、古墳が発達する以前の特徴的埋葬様式四隅突出墳丘墓の分布状況からすると、北陸地方なども上古出雲とすべきとの説もある。これらの環日本海への版図拡大の逸話は国引き神話として『出雲国風土記』に記されているとの見方も有力である。
日本神話によれば、神逐された須佐之男命が(日本書紀では息子五十猛神とともに)出雲に降りたって八俣遠呂智を退治し、櫛名田比売命との間に八島士奴美神を生んだ。その5世孫にあたる大国主神が少名毘古那神や大物主神と共に出雲国を開拓した[注釈 2]。『出雲国風土記』に須佐社として掲載されている須佐神社が建立され、大国主神を祭神とする出雲大社も建立された。
この律令以前の出雲国の影響力は日本神話の各所に見られ、日本創生の神話の大半が出雲やその周辺の話になることから、その精神的影響力は絶大であったとの見解が主流である。しかし、やがてはヤマト王権に下ることとなり、それが有名な国譲り神話として『日本書紀』などに記されたと考えられる。国譲りの交換条件として建立された出雲大社は、いまだに全国から参拝が絶えない。更には、出雲大社の祭祀を執り行う出雲国造(北島氏、千家氏)は、天照大神の第二子天穂日命の裔孫として、皇室と同等の血統の長さを誇り、この「国造」と言う呼び名も古代律令に用いられていた官職名であることからその歴史の長さを読み取ることが出来る。
崇神天皇60年7月には、天皇が「武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))(天穂日命の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。『日本書紀』
その後律令制の下では出雲国造の領域を元に、7世紀に設置された。
7世紀末の藤原宮跡や出雲国庁跡出土の木簡から、出雲国では、出雲評・楯縫評・大原評などの存在が知られ、『日本書紀』斉明5年(659年)には「於友郡」がみえるが、編者の潤色で、意宇郡の前身として意宇評がこの時期にはすでに置かれていたことが分かる。
平安期には東部出雲(意宇郡)を朝廷に没収された出雲国造家は今の出雲大社がある西部出雲に中心を確定する。
鎌倉時代には、承久3年(1221年)6月の承久の乱の功により宇多源氏佐々木氏の佐々木義清が封ぜられて以降、その子・佐々木泰清に引き継がれ、泰清の三男にあたる塩冶氏が代々守護を務めた。出雲守護の武将塩冶高貞は、元弘の乱で後醍醐天皇を助け鎌倉幕府を打倒することに功績があった。
南北朝時代/室町時代初頭には、出雲守護の塩冶高貞は北朝・室町幕府についたが、興国2年/暦応4年(1341年)に初代将軍足利尊氏の弟足利直義から謀反の疑いをかけられて誅殺され、塩冶氏は没落した。しかし、代わりに同族佐々木氏でもより嫡流に近い京極氏が出雲守護として入り、室町時代も引き続き宇多源氏佐々木氏による支配が続いた。
東部出雲は荘園守護の管轄下となり、戦国時代には、月山富田城(現:安来市広瀬町富田)を中心とし製鉄を支配し雲伯地方を押さえた戦国大名尼子氏を生み出すこととなる。
江戸期に入ると、松江藩が設置され東部出雲は松江、西部出雲は出雲国造の影響下に入ることとなる。更には、松江藩傘下の東部では明治期に見られた廃仏毀釈の逆の影響が認められたりもする。つまり上古より同じ出雲でも、東西の主権が別々の歴史的見解を残すため、出雲の歴史はわかりづらいものとなっているとの指摘がある。
『和名抄』によれば国府は意宇郡にあり、松江市大草町に国府跡が発掘され公開されている(かつては現在の阿太加夜神社(松江市東出雲町出雲郷)周辺という説もあった)。『出雲風土記』に意宇郡家や黒田駅家と同所だと記され、松江市大草町の六所神社周辺が国庁跡とされている。発掘調査で、多数の掘立柱建物跡、「大原評□磯部安□」と記された木簡、「駅」・「少目」などと記された墨書土器、硯・分銅・瓦などが出土した。建物遺構は7世紀後半から9世紀にかけて六時期の変遷が認められ、7世紀後半まで溯る国庁のもっとも古い例の一つだとされている。
尼寺跡は国分寺跡の東にあり、建物の礎石や築地が設置されていたであろう跡、溝などの遺構が検出されている。
二宮以下は存在しないとみられるが、佐太神社(松江市鹿島町佐陀宮内)を二宮とする説がある。
10月の異称の「神無月」は、その宛字から「神がいない月」と解釈され、全国の八百万の神々がこの月に出雲に集結し、縁結びなどの会議(神議り)をするという伝承がある。これは中世以降、出雲大社の御師が全国に広めた説であるが、現在でも出雲では10月を「神在月」と呼び、出雲大社ほかいくつかの神社では旧暦10月10日ごろに神を迎える祭、その1週間後に神を送り出す祭が行われる。
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1565年 - 1565年:第二次月山富田城の戦い、毛利(毛利元就、吉川元春、小早川隆景等35,000人の軍勢) x 尼子(尼子義久、尼子倫久、尼子秀久等10,000人の軍勢)
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