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藤原 登任(ふじわら の なりとう)は、平安時代中期の貴族。藤原南家巨勢麻呂流、常陸守・藤原師長の子。官位は従四位下・大和守。
左兵衛尉を経て、長和2年(1013年)三条天皇の六位蔵人に補せられる。長和5年(1016年)三条天皇の譲位に伴って蔵人から院判官代に遷り、まもなく巡爵により従五位下に叙せられた。また、藤原教通室となっていた藤原公任の娘が出産にあたって、しばしば登任の三条の邸宅に移っており(『栄花物語』)[1]、登任は公任に対して家人として仕えていたとも考えられる。
後一条朝前期に能登守に任ぜられ、万寿元年(1024年)治国の功労により従五位上に叙せられる。その後も、出雲守・大和守と受領を歴任する一方、主殿頭も務めた。
後冷泉朝の永承5年(1050年)に陸奥守として東北地方に下向。翌永承6年(1051年)に安倍氏が衣川の柵を越え勢力圏を拡大しようとしたため、登任は秋田城介・平繁茂(繁成/重衛)らと安倍氏を討伐しようするも、逆に鬼切部で大敗を喫し更迭された。この事件が「前九年の役」の発端となる。当時の状況は後任の源頼義による上奏文に「東夷蜂起シ郡県ヲ領シ以ッテ夷地トナシ、人民ヲ駆使シ蛮虜トナシ六カ郡中、国務ニ従ガワズ、皇威ヲ忘ルルガ如シ」とある。
『尊卑分脈』による。
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