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日本の小説家(1921−1984) ウィキペディアから
(ふじわら しんじ、1921年3月7日 - 1984年12月20日)[注釈 1]は、日本の小説家。幾度も大病を患いながら、純文学からサスペンス、恋愛ものやハードボイルドなど、幅広いジャンルの作品を発表し、「小説の名人」の異名をとった。また映画化された作品の多さから「映画に愛された小説家」とも評される[2]。女優藤真利子は息女[3]。直木賞、小説新潮賞受賞。
東京市本郷に生まれる。3歳で母と生別、6歳で父と死別し、父の郷里である岡山県片上町(現在の備前市・法鏡寺がある場所)で祖母に育てられた。閑谷中学校在学中に祖母とも死別、青山学院高等商業部に進むが、肺結核のため中退する。療養生活を続けながら雑誌社で編集を手伝う傍ら、外村繁に投書雑誌の選者をしていた縁で師事して創作活動を行い、同人誌『曙』を発行。1945年の岡山空襲で吉備津に疎開、戦後は倉敷市に移り、同人誌『文学祭』を発行する。同誌に掲載した「煉獄の曲」が河盛好蔵に認められた。戦後まもなくの頃について、自身は「学生のころはリルケ、ボードレール、ヴァレリー、ロマン・ローランの『ジャン・クリストフ』、梶井基次郎などを読んだが、そのうちリリカルなものがプチブル的に思え、それを克服しようと思って、いろいろ狂ってきましてね」と語っている[4]。
1946年に外村の雑誌『素直』に「破倫」、また河盛の推薦で『新潮』に「永夜」、『新生』に「初花」を発表する。この頃は骨董屋になろうとしていたが、翌年、山奥の温泉宿での出来事を詩情豊かに綴った「秋津温泉」を発表、文壇での評価を得て1948年に上京、外村の家に下宿しながら本格的な作家活動に入った。新宿で焼け跡闇市派作家として酒と麻雀の放蕩無頼の生活を送りつつ、話題作「魔子を待つ間」などを発表するが肺結核が再発して入院。1950年に2度の大手術で肋骨8本を切除した。藤原は1952年までつづいた入院期期間中にも入院費の捻出と妻子への仕送りのために小説を書き続け、中間小説誌ブームに乗って社会派風俗小説の書き手となった。
1952年、「罪な女」「斧の定九郎」「白い百足虫」の三作品で第27回直木賞を受賞[注釈 2]、選評では、小島政二郎「文章の一つ一つがピタッ、ピタッと女の急所を押さえている見事さは、心憎い位の魅力」、井伏鱒二「女性の本能的な正体を書き現わす」「野性味も実に野放しの感じ」と評された[5]。この頃、親友の戸石泰一のつながりで日ソ図書館の文学学校や中央労働学院の講師を務め、雑誌『文学の友』(旧『人民文学』)の編集委員も担った。1954年末に胆石症で手術。1955年、占領軍による暴行、陵辱事件を扱った「裏切られた女達」を『小説公園』に連載(後に『みんなが見ている前で』として出版)。また『赤い殺意』『金と女と死』などのサスペンス小説や犯罪小説を量産した。1962年には「殿様と口紅」で小説新潮賞を受賞した。
その後もさまざまなジャンルに旺盛な好奇心を示し、1967年には日本では書かれること自体が少ない軽ハードボイルド[注釈 3]の連作短編集『悪魔からの勲章』を発表。また「日本の87分署」と評される警察小説の先駆的作品「新宿警察」シリーズ、『赤い標的』などのスパイ小説、『総長への道』などの仁侠ものも手がけた。さらに1972年には動物小説集『狼よ、はなやかに翔べ』も発表している。
1973年、肝硬変と糖尿病で入院。1970年代後半からは『死にたがる子』『落ちこぼれ家庭』『結婚の資格』など、家庭問題をテーマとした社会性の強い作品を相次いで発表。さらに『さきに愛ありて』などの教養小説・恋愛小説、『妖怪の人間狩り』『大妖怪』などの妖怪小説も書いた。
映画化された作品も多く、その中には日本映画史に重要な地位を占める作品も少なくない。「庭にひともと白木蓮」は山田洋次により『馬鹿まるだし』として映画化されて「馬鹿シリーズ」に続き、本作でのエピソードを積み重ねる手法は『男はつらいよ』シリーズにも踏襲された。『わが国おんな三割安』中の作品は、松竹の「喜劇・女シリーズ」として3作が映画化され、当時の「大船喜劇」のドル箱的作品となった[5]。一方で「殺し屋」は『拳銃は俺のパスポート』、「前夜」は『ある殺し屋』として映画化されており、いずれも日本映画を代表するフィルム・ノワールの傑作とされるなど、ジャンルを横断する藤原の特性が際立つかたちとなっている。
また藤原は1950年代から「藤原学校」と呼ばれる勉強会を自宅で開き、三好京三、山田洋次、江國滋、色川武大、高橋治らの後進を育てた。中でも色川との関係は格別で、元双葉社の編集者・柳橋史によれば、両者の関係は「兄事しているような、遊び友達のような、それでいてライバルのような愉しい関係だった」という[6]。
ライフワークとして『宮本武蔵』の執筆を進める中、1984年に癌で入院し4ヶ月の入院生活の後に死去した。63歳没。墓所は生前の言葉通りに、故郷の片上町の祖母の墓の近くにある。
1947年に発表して、作家としての地位を得るきっかけとなるとともに藤原の初期の代表作として挙げられる。戦時中の21歳頃から書き進めていて、1947年に前半を『人間別冊』に、後半を『別冊文藝春秋』に掲載。1948年、講談社の新鋭文学選書として刊行された。加筆したものを1949年に新潮社より刊行。1988年に集英社文庫刊。
藤原自身にも重なる境遇の、両親のない17歳の少年が伯母に連れられて山奥の秋津の温泉宿を訪れ3年後、その5年後、また8年後と繰り返し秋津を訪れながらそこで出会った女性と妻子を持つ身となっていく主人公の関わりを叙情的に描いている。井伏鱒二も藤原について「底抜けに詩情ゆたかな筆致」「戦後の混乱した世相と対蹠的で特に引きたった」と評している。舞台の秋津温泉は、岡山県の奥津温泉がモデルの架空の地名で、また藤原が伯母に連れられて湯治に訪れていた紀州の温泉もモデルの一つ[7]。この伯母と思われる人物を描く短編「紅顔」(1948)もある。
1962年、松竹にて岡田茉莉子の企画・主演、吉田喜重監督で映画化された。
本作や「愛撫」、新宿の飲み屋の魔子を愛する経緯を描いた連作「魔子シリーズ」など私小説的な初期作品は、心理主義、文体と情感で読ませる作風と言われる。「魔子シリーズ」は妻子を岡山の実家に帰して東京で執筆を続ける作家である「私」が、屋台にいる若い女魔子と愛し合うようになり、一時帰郷した岡山から魔子に手紙を書く「魔子への手紙」、屋台で酒を飲みながら魔子に耽溺していく自分をみつめている「魔子を待つ間」、魔子の家族にも二人の関係が知れて「私」は別離の予感も覚えながら仕事のために転居するが、その宿へ魔子が訪れて来る「初夜」の3作、また昭和29年までについての自伝的作品として『愛の夜 孤独の夜』がある。
新宿にある架空の警察署「新宿警察」を舞台に、根来刑事を初めとする刑事たちの活躍を描く警察小説。エド・マクベインの87分署シリーズのように複数の刑事達の行動が並行して描かれるスタイルで、「日本の87分署」とも言われる。1975年に「新宿警察」としてテレビドラマ化された。執筆当初は実際には新宿の警察署は淀橋警察署という名前で、新宿警察署というのは実在しない架空の警察署だった。自身では「ある時会った所轄の刑事たちが〜燃えるような情熱をもっていることを知って、わたしはそれにうたれた」のを契機に書き始めたと述べている[8]。
これ以外にもシリーズ作品を収録した短編集が存在する他、非シリーズ作品である『女の性の精』(1970年)『わが国おんな三割安』(1970年)『よるべなき男の仕事・殺し』(1975年)の舞台も「新宿署」の管轄で、シリーズ中の刑事が登場する。
『贅沢な殺人』は、「夫と妻に捧げる犯罪」ものの推理小説。『赤い殺意』は平凡な主婦が殺人に手を染めようとするサスペンス小説。『ろくでなしはろくでなし』は悪徳新聞記者を主人公にしたハードボイルド風の社会派推理小説。『悪魔からの勲章』は私立探偵の活躍する連作短編で、軽ハードボイルドとも言われる[9]。
『赤い標的』は労働スパイをサスペンスタッチで描き、『薄毛は悪女』はスパイとして活躍するようになる女を描いたいたのスパイ小説。『スパイ・その苦い歳月』も日米混血の女スパイが日本で活躍する作品。『東京の真赤な雲雀』は石油問題に絡む各国の諜報組織の暗躍を描いている。
『金と女と死』はチンピラがヤクザの大物に成り上がっていく過程を描いた暗黒小説。『恐喝こそわが人生』『黒幕』は社会の表面には出ない巨大な力を持つ悪人を巡り、その力を利用する者や、それに挑む男を描き、『よるべなき男の仕事・殺し』は殺し屋とそれを追う刑事を描いている。
「庭にひともと白木蓮」は敗戦直後の瀬戸内海沿岸の小さな町で単純で純粋な男を描いた「美しい小説」(山田洋二[10])だが、映画化された『馬鹿まるだし』では喜劇として売り出され、また受け入れられた。『へそまがり』も同じように藤原の故郷片上がモデルの町で、海を埋め立てて工場を作るのに抵抗する男を描いている。また『愛すべき人物』も、同じ土地の出身の純真な青年が東京で生きていく物語。『三行人生』も三行広告によって岡山から東京に出てきた娘を描いた作品。またお座敷ストリップの斡旋事務所に人々の悲哀を描く『わが国おんな三割安』、30年も娼婦をしている女たちを描いた『誰でも愛してあげる』がある。ユーモア小説について自身では「こういう市井のよき人々への尊敬の念から出発しなければ、おかしさがこの世にとゞまらぬようである。呵々大笑は敬してこそ得られるものに違いない」(『藤原審爾の極楽亭主』著者のことば)とも述べている。
ほか。作品の正確な書誌は作成できておらず、特に量産期に未単行本化の不明作品があると見られている。
藤原は若い頃の肺結核の後も胆嚢の切除、心臓病、腎臓病、肝硬変、糖尿病など数々の持病に悩まされた。
多彩な趣味も有名で、陶芸、釣り、ビリヤードなどの他、野球ではチーム「藤原」を結成して東京都代表として1969年長崎国体出場、建築設計では自宅の他に知人の屋敷や民芸館を設計、麻雀では色川武大からも「旦那芸としては、玄人に近いレベル」と評された。バイク小説『風と夢・オンザロード』連載中には自動二輪免許も取得した。『日本やきもの旅行』では、よく訪れる先として丹波焼の項「丹波焼昨日今日」を担当。尊敬する作家は広津和郎で、自宅にその書「何よりもまず、正しい道理の通る国にしよう、この我等の国を」を飾っていた[10]。
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