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日本の漫才師、タレント (1944-1996) ウィキペディアから
横山 やすし(よこやま やすし、1944年〈昭和19年〉3月18日 - 1996年〈平成8年〉1月21日)は、かつて吉本興業大阪本社に所属していた漫才師、タレント。身長163cm(本人談)。愛称は「やっさん」。本名は木村 雄二(きむら ゆうじ)。
本名 | 木村 雄二(きむら ゆうじ) |
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ニックネーム | やっさん |
生年月日 | 1944年3月18日 |
没年月日 | 1996年1月21日(51歳没) |
出身地 | 高知県幡多郡沖ノ島村弘瀬(現在の宿毛市沖の島弘瀬) |
身長 | 163 cm |
言語 | 日本語 |
方言 | 大阪弁 |
最終学歴 | 堺市立旭中学校 |
師匠 |
秋田實 横山ノック |
出身 | 道頓堀角座 |
コンビ名 |
堺伸スケ・正スケ(1959年 - 1961年) 横山やすし・西川きよし(1966年 - 1989年)(解散) |
相方 | 西川きよし(やすきよ) |
芸風 | 漫才(ボケ) |
事務所 | 松竹芸能→吉本興業→阪田エージェンシー |
活動時期 |
1959年 - 1971年 1973年 - 1989年 1992年 - 1995年 |
過去の代表番組 |
三枝きよし興奮テレビ ザ・テレビ演芸 久米宏のTVスクランブル |
配偶者 | 既婚(1度離婚)(妻は2008年没) |
親族 |
木村一八(実子) 木村ひかり(実娘) |
弟子 |
横山たかし・ひろし 萩原芳樹 横山ひとし 佐野隆仁 |
やすしと同じく高知県で生まれ、大阪府で育った西川きよしとの漫才は、漫才ブームの到来と共に爆発的な人気を博し、「やすきよ漫才」として20世紀を代表する天才漫才師と呼ばれるまでになった。そして、波乱万丈な人生から破天荒芸人との異名も持つ[1]。
初妻(のちに離婚)との間に俳優の木村一八(長男)と長女[注 1]をもうけた。再婚した妻とはやすしの事務所契約解除等を挟み、逝去まで連れ添った。エステティシャンで漫才師さゆみ・ひかりの木村ひかり(次女)は、後妻との子である。
高知県幡多郡沖ノ島村弘瀬(現在の宿毛市沖の島弘瀬)の旅館で仲居のアルバイトをしていた島民女性と、島へ巡業に来た旅回り芸人一座の団員との間に私生児として生まれた。生後三ヶ月で当時、高知に疎開していた木村家に養子入りし、その後、大阪府堺市(現在の堺市堺区)に育ち[2]、堺市立神石小学校を卒業。
中学2年生の時、同年代の子がラジオ番組の歌合戦で合格したことが刺激となり、同級生の岡田好弘(後の堺正スケ)を誘ってラジオの素人参加番組『漫才教室』(朝日放送〈現:朝日放送ラジオ〉)に出演するようになった。同番組初出演は1958年(昭和33年)1月21日[3]。元々、漫才などしたことが無かった木村少年だったが、この番組で才能を発揮。元来、勉強嫌いで負けず嫌いということもあり、出場したことを契機に漫才師になることを決意した。生まれて初めてのネタは「僕は易者」という老易者を題材にしたものだった。同番組プロデューサーの狛林利男によると、コンビの芸風は「木村が一方的にまくし立て、相方はいつもオタオタしていた」というものであった[3]。中学卒業間際に当時の校長から「私立高校にも進学したらどうや?」と言われたが、これを固辞し漫才師になることを告げる。卒業式では漫才を披露し、同級生からも拍手喝采を浴びた。
1959年、堺市立旭中学校卒業後、木村と岡田は少年漫才師として、揃って松竹新演芸(現在の松竹芸能)に入社。漫才作家・秋田實の門下に入り、芸能界のしきたりや漫才台本の書き方を厳しく教わりながら、秋田の弟子・藤井康民によって[3]「堺伸スケ・正スケ」と命名される。木村は「漫才の世界で“伸びたい”」との思いを込め「堺伸スケ」となった。同年5月11日に角座でデビューし、当時のマスコミも「天才少年漫才師誕生!」と書き立てた。ネタは学校の話題を振っていたためあまりウケず、やすしは後に著書『やすしの人生一直線』において、「子供の発想で、子供の言葉になってしまう」「先輩の芸をマネようとするが、大人の会話にならん」と述懐している。
堺伸スケ・正スケは角座デビュー後、2年経った1961年[3]、相方の正スケの廃業に伴い解散。見兼ねた横山ノックから、「コンビ別れをしたんか、いっぺん遊びに来い」と誘われ、また、やすし本人もノックの師匠である横山エンタツの漫才が好きで、エンタツから続く漫才の名門屋号「横山」への憧れがあったことから、ノックの内弟子となった。師匠の持ち物がある場所を全て覚え、タバコを吸おうとするとライターを出し、出かける時は靴と靴べらを揃えるなど、弟子修業に励んだ。この態度をノックが認め、「日本一の漫才師になれ。今日から横山を名乗れ」と『横山やすし』の芸名を与えられ、同時に吉本興業に移籍する。
「やすし」の芸名の由来は、ノックが、「◯◯安し!」(「◯◯」は、商品名)という広告が頭の中にこびり付いていて、そこから連想して、「やすし」となった。ノックから新しい相方(後のバラクーダの岡本圭司)を世話されるが、内弟子修行を上がると生活苦に苛まれ、昼はアルバイトでデパートの展示場の模型を作り、夜は無免許でスクーターを使った白タクを行い、生活費を稼いだという。この頃は喫茶店で他人の会話を聞いてノート(ネタ帳)に書くなどネタ探しに懸命だったが、相方と温度差が生じ、数回(少年時代を除くと3回という)コンビ結成・解散を繰り返すことになった。周囲から「コンビ別れの名人」のレッテルを貼られ、自身にも迷いが生じ、廃業寸前まで追い詰められた。当時の相方は、年上だが弟弟子の横山プリン、レツゴー正児(何れも芸名は『横山たかし』)など。
西川きよしと1966年に「やすしきよし」のコンビ名でデビューする。きっかけは歌謡浪曲師の中山礼子がきよしを紹介したことだった。やすしは京都花月の向かいにあった「水車」という喫茶店で、きよしにコンビを組むことを度々迫ったという。きよしは当時はまだ研究生扱いだった吉本新喜劇を辞めて、コンビを組むことを当時の社長や部長に相談すると「やすし君とだけはやめとけ、二度と芝居には戻ってこれんぞ」と言われ、また新喜劇の脚本家の檀上茂が「きよしを渡せるか!」とやすしに怒鳴り込んで来て喧嘩になるなど、コンビ結成は周囲から祝福されなかった。しかし、きよしの覚悟を見抜いたやすしは「きよしは化けるで」と確信していたという。
結成当初はコンビ仲が悪かった。漫才作家の中田明成いわく、やすしには「台本を二回読むだけで漫才の“流れ”をつかんでいた[3]」と舌を巻くほどの飲み込みの良さがあったため「読み合わせでも十回以上しなければ気が済まない」きよしには「稽古嫌い」と映り[3]、コンビは稽古のことでしばしば揉めてしまい、背広がボロボロになるほどの掴みあいの喧嘩になることもあった。やすしは「解散や!!!」と怒鳴り散らしてその場を後にし、後日吉本興業に向かい解散の旨を伝えると、吉本のスタッフから「解散するのはかまへんが、台本も出来上がってるし、残った仕事してもらわんと困る」と諭され、スターだったヘレン杉本(西川ヘレン)との身分違いの結婚・寿引退をさせたきよしと、コンビ解散を繰り返すやすしという当時の二人の微妙な立場もあり、結局二人は思いとどまる。その時にきよしの発した「今後も小さなことからコツコツとやらさせてもらいます」というセリフは、いつしかきよしの代表ギャグとなった。
二人は周りの漫才コンビを評価・採点して徹底的に分類・分析した。やすしは著書「人生一直線」で当時のきよしを「動きや喋りがどうしても芝居風になってしまう」と見ており、また、きよしがマイクを気にしてコチコチの漫才になっていたと評している。それならばと二人は動きが面白い「どつき漫才」を目指すようになり、そして当時他の漫才師がやっていない「動き」というスタイルを見つける。またデフォルメし、舞台の中央にあるマイクから離れて動き回るという革新的な漫才を編み出した。やすしがどつかれて飛んだメガネを探す有名なネタも、この流れで出来たものである。また、それまでのやすしは自身がリードしすぎる漫才スタイルであったが、漫才に不得手だったきよしをやすしが信じて自由にやらせるスタイルとなり、結果的にこれがボケ・ツッコミが激しく交互に入れ替わる独特な「型破り漫才[3]」の基礎となった。稽古嫌いだったやすしが、きよしの懇願で本格的にネタ合わせをするようになったのもこの頃からであった。
「やすきよ」はこの流れから全国制覇を目指し、結成から1年足らずで第2回上方漫才大賞の新人賞を獲得。これを契機にテレビ出演も果たした。同じく動きで笑いをとるネタを主体とするコント55号とテレビ中継で同じ舞台を踏んだ時、やすしは「こいつらを倒さんかったら日本一には立てん」と思ったという。その後、また名古屋の大須演芸場で同じテレビ中継の舞台を踏んだが、コント55号が舞台を左右に動き回るのでテレビカメラが追いつけず、これを見たやすしが「チャンスや」ときよしに思いついた秘策を告げた。それは逆に動かないことであり、その違いを明確にすることで視聴者を味方につけたという。この流れをもって1970年(昭和45年)には、第5回上方漫才大賞の大賞を結成から僅か5年にして受賞した。
そんな絶頂の最中、1969年(昭和44年)11月に養父・庄吉が南海高野線の中百舌鳥駅の踏切で通過した電車の風圧で転倒。頭部を強打し、7日後に意識が戻ること無く他界した。10日後に長男の一八が誕生。やすしは父に息子を見せたいと願っていたが、その願いが叶う事はなかった。
翌年12月に最初の事件となる、タクシー運転手に対する傷害と無免許運転事件の影響で長期謹慎を受ける。傷害事件で実況見分に駆けつけた警察官に運転免許証の提示を求められ「俺、国際免許やねん」と『グアムで国際免許を取ろう!』と書かれたチラシを見せただけで、肝心の免許証に関しては答えに窮した結果、無免許が発覚した[4]。やすしが謹慎の間に相方のきよしはピン芸人としての腕を急成長させ、さらに司会者としての才能を見出し、きよし単独での番組も増えるようになった。次第にやすしきよしのパワーバランスも微妙に変化し、復帰後もきよしが司会・バーターでやすしという組み合わせになることも多くなった。
事件の四ヶ月後に劇場復帰、執行猶予が明けた1973年(昭和48年)の春にテレビ復帰を果たすが、同年に最初の妻と離婚[5]。1977年(昭和52年)4月に乗車したタクシーの運転手と口論になり「お前ら、今でこそ運転手と呼ばれとるが、昔で言えば駕籠かき雲助やないか」と吐き捨て、車に蹴りを入れ、運転手から侮辱罪で告訴された。刑事事件としては大阪地検で不起訴になったが、後の民事訴訟で大阪高等裁判所は10万円の慰謝料支払いを命じた。
1975年(昭和50年)3月に3歳年下の木村啓子(2008年〈平成20年〉、心筋梗塞により61歳で死去)と再婚し、堺市西区の大鳥大社で挙式をした。横山ノックが仲人を務めた。啓子も再婚者で、前夫との間に1男1女がいる。啓子はやすしを「雄ちゃん」と呼んでいた。 1978年には「24時間テレビ」(日本テレビ)で大橋巨泉らと共に初代司会を務め健在ぶりを見せた。
1980年(昭和55年)10月19日、やすしにとっては第三子(次女)となる光が誕生。やすしもその時、その喜びを色紙に書いた。
1982年の秋から、日本テレビ『久米宏のTVスクランブル』のコメンテーターとしてレギュラー出演していたが、酒に酔った状態で生放送に臨み、暴言を発したことで問題になった(暴言の内容は冤罪に関しての『疑われる奴の自業自得や』だった)。またコメントの最中にコマーシャルを挟まれたことに立腹して「今日は黙秘権」と一言発し、全く喋らなかったこともある。そして1984年11月、渋滞による飛行機の乗り遅れが原因で番組に穴を開けたため降板。吉本興業からは無期限謹慎処分を受ける。
1986年にきよしが第14回参議院議員通常選挙に出馬し当選。コンビの仕事が出来なくなったやすしは酒の量が増え、趣味にのめり込むようになった。やすしはきよしの政界進出を"裏切り"と強く反発していたという。実際に「きよしは当選すると思うか?」と質問を受けた時に「落ちる、ほんまに落ちる」「応援はせん、落ちる奴にそれ行けと言えんやろ」と厳しい表情で応対していた[6]。やすしは師匠のノックと共にフリーアナウンサーの中村鋭一を応援した[7]。コンビ解散の噂については終始否定していたが、当選直後の対談番組でもきよしが「楽しみの少ない人のところに行ってでも漫才をやりたい」と語ったのに対し、やすしは「俺は他人のために漫才はせえへんよ」と不機嫌な表情で応対していた。その一方で「やすしは一番に後押ししてくれた」ともきよしはコメントしている。やがて後述する度重なる不祥事とトラブルのために、やすしの芸人・タレントとしての価値は下落して行った。この件に関して上岡龍太郎は「ノックときよしが漫才を二の次にして政治家としての道を選んだことに、強い失望感を持ったのではないか」という旨の発言をしていた[注 2] 。また当時のマネージャーだった大谷由里子(旧姓:松岡)は「あれで横山さんの歯車が狂ってしまったと思う」と述べている[8][要ページ番号]。
1986年4月に不摂生から吐血し緊急入院。退院会見で二度と飲酒しないとしていたが、翌1987年12月に『スター爆笑Q&A』(よみうりテレビ制作・日本テレビ系)で酒気帯びのまま出演し、同じ司会の桂文珍、山田邦子の制止を振り切ってゲストの片岡鶴太郎らに食ってかかった。見兼ねた当時のマネージャーの大谷由里子が激怒し、やすしを舞台裏でビンタして諫めている。これがとどめをさす形で番組を降板する。さらに1988年10月にも二日酔いを理由に『三枝やすし興奮テレビ』(毎日放送)の出演を直前にキャンセルしたために降板。
1988年11月25日、長男・一八がタクシー運転手に対する傷害事件を起こして逮捕され、一八はやすしを通じて契約解消を言い渡された。やすしは当初、事件の内容を把握しておらず、女性リポーターの質問に「おい、ねぇちゃん!俺は息子には厳しく教育してるぞ」「男はケンカするくらいがちょうどええ」などとコメントしていたが、後に一八が被害者に対し一方的に暴行を加え[注 3]、意識不明の重体に追いやったことを知ると記者会見で陳謝し「いくら可愛い息子がやったこととはいえ、人を生きるか死ぬかの目に遭わしてしまって、ホンマにすんまへんでした。すんまへん」「自分の教育が間違っていた」と、自身の息子に対する教育の過ちを認めて号泣、その責任を全て負う形で、自ら無期限謹慎を申し出る。会見の直後に、少年鑑別所に収監された一八に面会した際は、「おい、反省せぇ」と言うのがやっとだったという。
1989年3月芸能界に復帰し、きよしが司会を務める『すてきな出逢い いい朝8時』(毎日放送制作、TBS系)に復帰後初のゲスト出演をする。きよしからは「今度こそ心を入れ替えてがんばりや。(これ以上迷惑かけると)みんなに見捨てられるで」と言われ、「今度こそ心を入れ替えて頑張ります」と宣言した。この時すでに吉本興業からは「今度不祥事を起こした場合は即刻、専属契約を解除する」と最後通告を受けていた。
1989年4月15日にはコンビとして「MAGMA30」での二府四県対抗なんでもコンテストの司会を務めるも、その2日後の1989年4月17日、ラジオ大阪の「入川保則の日産さわやか文庫」の収録でゲスト出演後に酒気帯び運転によりバイクとの人身事故を起こし[注 4]、相手の男性(58歳)に軽傷を負わせた。事故直後の会見では、事態を余り重く見ていなかったやすしは「決して、わざわざ事故しようと思ってやったのと違いますので、ひとつ宜しくお願い致します」と語っていたが、その知らせを受けた吉本興業は、ついにやすしとの専属芸能契約を解除することを決断。事実上の解雇[注 5]通告を言い渡されたやすしは多くの報道陣に対し「やめる、もう漫才やめる」と嗚咽しながら話した。
当時、吉本の制作部長でマネジメント契約の解除を言い渡した木村政雄は報道陣からの「堪忍袋の緒が切れたのか?」の問いに対し、厳しい口調で「そうですね、我々のフォローもとっくに超えている。これ以上、騒ぎを起こされたら、うちとしても会社の姿勢も疑われますから」と語った。契約解除は中邨秀雄(当時・副社長)・林裕章(当時・専務)・木村が話し合って決め、それを会長の林正之助に決断を仰いだところ、「もうええ、もうよろし!」との一言であっさり決定したという。契約解除の通知書を発行したのも林裕章であった。
吉本から契約解除を通告された9日後の1989年4月26日に木村から「お話したいことがありますんで、会社まで来てください」と言われ、啓子夫人と共に吉本を訪れた。「契約関係を解消します」と直接通告され、最初やすしは詰め寄ったが、木村が言葉を足して「本日を以てうち(吉本)のタレントではなくなりましたから」と通告し、やすしは聞き入れた。林正之助は当日体調不良で出社していなかったため、やすしは林正之助に詫びることが出来なかった[9]。
やす・きよのコンビはやすしの契約解除以降、事実上解消状態となった。当時、中田明成に対し「漫才なんか誰とでもできるわい!」と息巻く反面、「やっぱり俺にはキー坊(西川きよし)しかおらへん」と語っていたという[3]。
吉本との契約解除に伴い、完全に収入源を失ったやすしを支えるべく、啓子夫人はNHKの集金のパートタイマーとして働くなど、献身的にやすしを支え続けた。後にやすしは、苦労を掛け続けた啓子夫人への感謝の思いを込めて、自ら作詞した「一ッ星」という歌を贈っている。
1992年に内田裕也主演の映画『魚からダイオキシン!!』で芸能界に復帰、また、後に大人気シリーズとなった『難波金融伝・ミナミの帝王』第1作である「トイチの萬田銀次郎」に萬田の先生役で出演。漫才を演じている時と何ら変わりない演技を見せ、活動の場をVシネマなどに移す。この同作品の発売当時のビデオパッケージには「横山やすし完全復帰作品」と大々的に銘打たれたが、きよしら吉本所属の芸人・タレントとの共演は、過去のトラブルや前述の契約解除の影響で不可能になっていた[注 6]。 その後、学歴詐称によって参議院議員選挙の当選を無効とされ、芸能界からも干されたタレント・新間正次(民社党→無所属)と漫才コンビを組んだこともあった。
同年7月26日、第16回参議院議員通常選挙の比例代表区に野村秋介が代表を務め、日本青年社などが関与する右翼団体「風の会」から立候補するも落選、山藤章二からは週刊朝日のコラム「ブラックアングル」で「虱(シラミ)の会」と揶揄された。落選の際に発言した「国民が、アホや!」は当時流行語となり、あちこちでパロディー化された[要出典]。また記者が「(大阪府選挙区では)誰に投票したか?」と質問したところ、自身は比例区の候補者で大阪府選挙区では立候補していないのにもかかわらず「そんなもん『横山やすし』に決まっとる!」と答えていた。しかし親しい関係者は「あれはあの人なりのリップサービス。まず間違いなくきよしに一票を投じたはずである」と口を揃える。なおこの選挙ではきよしが改選につき立候補し、再選を果たしている。
その後、8月6日、謎の暴行事件で重傷を負い、摂津医誠会病院に緊急入院した。犯人も襲われた理由も不明で、既に時効が成立しており「迷宮入り」となっている。落選直後の事件であったため右翼団体や暴力団とのトラブルが当時盛んに語られており、一方で後に月亭可朝が語ったところによると、浮気相手の人妻にやすしが酔って電話したところ、その人妻の夫が電話に出たためにトラブルとなり暴行されたとしている[10][11]。この暴行事件でやすしは一時、失語症となり表舞台から姿を消す形となったが、後に回復し復活を果たした。
1993年、豊中市の大村崑の自宅に、今後の仕事の相談にと夫婦で訪問。やすしが「これからは夫婦で漫才をしていきたい」と話すが「それよりもまずは、君が元気でいることを世間に知らせる方が先決」と「やすしを囲む会」を提案。会には知人を含め約150人が出席したが、そのほとんどが競艇仲間で、大村と京唄子以外の芸人は誰も来ない寂しい会となった。大村はその後、やすしの葬儀で記者の問いに「生前は応援せず今になって」と怒りをぶつけたが、「大村崑が吉本に爆弾発言」との大村の思いとは別の記事になる。会には、きよしや桂三枝(現・六代目桂文枝)などの旧知の芸人も招待していたが、当時の社長だった中邨秀雄が吉本に所属する芸人や社員に対して「出席した場合は即刻契約解除、または解雇する」と圧力を掛けていたため、彼らは出席出来なかった[注 7]。
1995年1月22日には阪神・淡路大震災のチャリティーとして、カレーライスの炊き出しとレスキュー隊員との即輿ミニ漫才を披露した[13]。
1995年7月18日には京都府八幡市石清水八幡宮での太鼓まつりのゲストとして姿を見せていたが、実年齢に似つかわしくない高齢者のように老け込んだ風貌で、極度に痩せ、体もふらついた状態で、当時の祭りの参加者は往年の姿との落差を目の当たりにして驚いたという。
さらにその年の10月10日には兵庫県芦屋市照善寺での落慶法要イベントで、桂福團治と即興漫才を披露。これが最後の公の姿になった。本番前には「ボートとタクシーの話をしたろかな」と福團治に声をかけたという。
また死去の3ヶ月前には、前述の通り、やすしが唯一のアマチュアボートレーサーとしての弟子として教育や指導をし、野中と同じくやすしの勧めでボートレーサーとなった佐野からも連絡があり、互いに電話で競艇の話題をしたが、これがやすしと佐野との間の最後の会話であった。
1996年1月21日の夜、摂津市の自宅で寝たまま意識を失っているところを啓子夫人が発見、救急車で病院に運ばれたが、すでに心臓と呼吸が停止しており、意識が戻ることなく急逝した。51歳没(享年52)。死去前日の1月20日、大量にビールを飲んで吐き出し、啓子夫人が病院で診てもらおうと思った矢先の死だった[注 8]。最後の言葉は夫人と娘に対して「水を欲しい」「ちょっと調子がおかしいから病院に行かんとあかんなぁ」「明日病院に行くわ」であった。
病院の医師から自宅で亡くなったと診断されたため、遺体は高槻市にある大阪医科大学で行政解剖された。解剖の結果、死因は「アルコール性肝硬変」と判明、さらに血液からもアルコールが検出された。亡くなった翌日のスポーツ紙の見出しには、自宅の玄関前にビールの空き缶が多く入ったゴミ袋が写し出されており、亡くなる前日までビールを多量に飲んでいたことが、弱っていた肝機能を急激に低下させ、急死に至った原因であることが裏付けられた。やすしは前述の1986年の吐血の際に医師から「アルコール依存症による重度の慢性肝炎」との診断を受け、「このまま飲み続けたらいずれは『肝硬変』となり、あと10年で死にますよ」と酒を止めるよう警告されていたが一切無視して酒を飲み続け、死去2年ほど前の1994年頃から腹水が溜まるなど体調が徐々に悪化していった。奇しくも医師の「警告」通りに10年後の1996年にこの世を去る結果となり、関西のみならず全国にも衝撃を走らせ、翌日の早朝から多くの報道陣が自宅の前に駆けつけ、ビートたけしら多くの芸能人・芸能関係者が弔問に訪れた。なお、たけしは当日、日本テレビで『超天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の収録に参加しており、21時までには収録を終えて21時20分ごろ東京駅発新大阪駅行きの最終の新幹線のぞみで大阪入りをして、マスコミがいない深夜に弔問しようと考えていたが、収録に喪服を着て参加した挙句、収録が出発予定の21時ごろまで押しそうになったため、スタッフに「用事があるからはやく時間を巻け」などと指示を出した。その結果、日本テレビがたけしがやすしの元へ行くと予想し、取材班を大阪に先回りさせておいた。そのため、たけしが大阪に向かい、やすしの自宅へ到着するとカメラのライトが付き、「日本テレビです」と日本テレビの取材班に囲まれた。なお、たけしが夜中にやすしの元へ行くという情報を入手していたのは日本テレビだけだったため、他局の取材班はいなかった。
1996年1月24日に大阪府吹田市の公益社千里会館で行われた葬儀・告別式では、多くの芸能関係者やファン総勢2000人以上が参列した。亡骸は非常にきれいで安らかな顔をしていたという。やすしと長年苦楽を共にした元相方の西川きよしが以下の弔辞を読み上げた。
キー坊(きよし)、泣かんとけよお前。お前よう泣くな。泣き虫やなお前。どこにそんな涙があんねん。そうしょっちゅう言われたのを思い出すわ。ここ二、三日の取材でやすしさんの取材をいっぱいされたけど一つも泣かへんかったで。ホンマに。昭和41年の3月、中山礼子師匠にやすしさんと会ってみいひんかと言われて、喫茶店でやすしさんと初めて合わしてもらいました。「俺、横山や。俺お前と漫才せなこれから先、困んねや。やってくれよ。」半ば強引に。でも、それが一番最初に会って時にやすしさんが僕に言うた言葉です。そして、延々と相談して師匠から「あんたも勝負かかってるし、やすしさんも5回目(コンビ結成回数)やからやってみたら」と言われ、それでやる気持ちになりました。会社はずっとやめとけやめとけって言われてたやろ。自分も知ってたやろ。せやけど僕も勝負かかってるからコンビを組ませて貰いました。41年にコンビを組んで42年に新人賞を貰うてホンマに嬉しかったわ。やめとけやめとけって言われてたけどコンビを組んで本当に良かったと思います。おおきに。あれから新人賞を貰うて色々賞金をぎょうさん貰うたなホンマに。自分のおかげやわ。わしも頑張ってけどホンマ自分のおかげやわ。4年目か5年目の時に京都の夜のキャバレーの仕事に行って、帰りにネタ合わせの事でケンカして。覚えてるか。交番の前でどつき合いしてボコボコになってお巡りさんも全然止めてくれへんかった。お巡りさんも止めてくれへんかったのはそれだけ二人が漫才に真剣やったと思います。最初は殴り合いばっかりして手加減もせんと迷惑ばっか掛けてホンマにゴメンな。センターマイクから役者の芝居の癖がついて離れようとすると右の袖を引っ張ってくれて、下手の方へ引っ張ってくれたのを覚えています。迷惑ばっかりかけて本当にゴメンな。せやけど人生ホンマに色々あるって世の中はよう言うけどその意味は若い頃は全然よう分からへんかった。ホンマに山があったり谷があったりすることを自分に教えてもらったわ。
もうゆっくりしいや。いっつも怒ってなあ。なんで怒ってたんや。でもなんで怒ってたんかはよく分かっておったで。さっきも師匠のノックさんが言うてたけど、もうゆっくりしいや。何にも考えんと、ゆっくりしいや。わしもなるべく早ようそっちに行かんようにするわ。ゆっくり休みや。ほなな。
なお、きよし以外にもやすしと親交があった著名人からも彼を偲ぶコメントが寄せられた。
出棺の時、ファンや吉本の後輩芸人達からは、「やっさん!!」「やっさんありがとう!!」といった声が上がった。その後、亡骸は吹田市立やすらぎ苑で、荼毘に付された。同年3月24日、故人の遺志により愛艇を置いた宮島競艇場(BOATRACE宮島)にて「散骨の儀」が行われ、船上から遺骨の一部が散骨された。墓は大阪府河内長野市の「南大阪霊園」にあり、墓石の横に、やすしが吹き込んだレコード「俺は浪花の漫才師」のジャケット写真と、歌詞の一部が刻まれた石碑が建っている。法名は「満寶院釋雄師」。
死去を受けて、在京の民放キー各局及び在阪の準キー各局は、揃って彼の追悼番組を編成し、生前の芸人としての業績を称えた。また、それらの追悼特番は、軒並み高視聴率を獲得した。没後における芸人・横山やすしの再評価に繋がった。
1997年1月21日、やすしの一周忌を親族とボート関係者のみで行った[15]。
太字は主演。
短気で怒りっぽい性格であり、自分が納得行かないことがあれば番組中に激怒したり、途中で帰ったりする行動がしばしば見受けられた。生涯に20数人の弟子を取っていたが、弟子に対してスパルタ育成であったことは有名で、ほんの一瞬でもミスをした場合は鉄拳や蹴りが飛び、同じミスを犯せば即刻破門するなどのスパルタ育成ぶりだった。こうした育成方法に批判の声もあった。
弟子に厳しい背景としては秋田實の門下時代、芸能界のしきたりから漫才台本の書き方まで厳しく教わり、ノック門下時代も要領良く仕事をこなし、漫画トリオ時代の上岡龍太郎、青芝フックにも気配りをしており、ノックや上岡、青芝からも絶賛を受けた事、やすし自身が細かい事と些細な事にこだわる粘着質であるからとされる。
スパルタ教育に対しては、「厳しすぎる」、「他人には厳しいが自分には甘い」(例:弟子の遅刻には激怒する一方、自身も公演などで遅刻することが多く、相方のきよしを激怒させていた)などと批判する者もいる。
弟子として競艇選手の佐野隆仁(やすしの勧めで競艇選手になる。なお、佐野はあくまでもアマチュアボートレーサーの弟子として雇っていたため、芸人の弟子に対してのようなスパルタ教育を佐野に対してのみにはせず、アマチュアボートレーサーの心構えや技術的な指導および木村家の手伝いをしてもらうことが中心であった)[19]、放送作家の萩原芳樹(島田洋七と組んだ初代B&Bを解散後、放送作家に転身)がいたが、一人前の芸人として生き残った弟子は"たかし"と"ひろし"と "ひとし"だけである。中でもひとしは最後の弟子であり、弟子修行に最後まで残った唯一の人物である。たかし・ひろしは弟子入りした当初は吉本に所属していたが、あまりものスパルタぶりに耐えかねて、師匠が近寄れない場所で活動するようにとの周囲の計らいもあって、正司玲児が弟分として引き取る形で、松竹芸能へと円満移籍した。
1994年初夏頃、ひろし宅に電話で「もしもし横山やすしだが、ひろし頑張りや。うん、よう見てるで。一着取りや。以上!」と16秒の留守電メッセージが入っていた。しかしそれとは裏腹にかつては「どこにおるんじゃ!ワレ殺すぞ」といった過激な肉声メッセージがあったことや、ひろしがやすしと電話で会話していて「はいそうですね」と数回言うと「ほんでな、コラお前ちゃんと聞いてるんか!?」と怒鳴られたという。
人気絶頂期はほんの些細なスキャンダルもお茶の間に露出してしまう時代になっており、八方破れな生き方を「ネタの肥やし」と正当化するような、旧来の芸人が常套手段とした言い訳は通用しない時代に入っていた。
木村政雄は雑誌の取材で「昔ならどんなことがあってもおもろい奴やと許せたでしょうが、今のテレビってのはお茶の間に入って来ますからどうしても一般的なモラルが要求されるんやないですか。もし今もタレント活動を続けていたら、おもろい奴で終わっていたと思いますよ」と語り、「シビアに言いますが、横山さんはすでに全盛期を過ぎていた。あのとき(飲酒運転での事故)問題を起こしてへんかったら、クビにならんかったと思いますよ」と、心境を語った。
関西の破滅型天才芸人としては戦前の初代桂春団治と並ぶ定型的存在となり、後世に語られ続けることとなった。その点に関して木村は雑誌のインタビューで「そら、天才やったと思いますよ。ある意味何らかで天才やったと言える」と述べていた。
全盛期の年収は5億円以上あったが(横山たかしが内弟子時代に月収7,000万円の月があったと証言[要出典])、初代桂春団治と藤山寛美のように金遣いも荒かった。ボート、セスナ機購入などで借金が膨らみ[注 9]、差し押さえを受けたこともあった。ロケ先のアメリカで購入したセスナ機には娘のひかりにちなんで「月光号」と名付け(駐機先は八尾空港)、頭金の5,000円を払ったのみでさんざん乗り回し、テレビ・雑誌等の取材に「死ぬときはこれで落ちたるねん。要するに空飛ぶ棺桶やがな」と自慢げに話し、周囲の報道陣を大爆笑させたが、そのセスナ機も結局借金が膨らみ手放すことになり、『新伍のお待ちどうさま』(TBS系)にゲスト出演した時、公開オークションに掛けたりもした(そこで売れたか他で売れたかは不明)[要出典]。島田洋七が、セスナに乗せてもらった時のこととして「『忙しいなか、よく免許を取りましたね』言うたら、『免許? そんなもんあるかいな!』て(笑)」と述べている[20][21]。金使いが荒かったのは、春團治と寛美の魅力に惚れたからとされる。家族へは月30万円しか入れていなかったという。
その反面、居酒屋で「本当は今日飲みたくないんや」と呟いたときでも、後輩やスタッフがその居酒屋に入ってきた途端いつもの調子で「はよ酒もってこい!」と叫んでいたという話もあるなど、やすしというキャラクターを守るため、普段でも舞台と同じキャラクターを作っていた節がある。
生涯は何度かテレビドラマ化、舞台化されている。
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