垂井町
岐阜県不破郡の町 ウィキペディアから
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垂井町(たるいちょう)は、岐阜県西部(西濃)の不破郡に属する町。
たるいちょう 垂井町 | |||||
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南宮大社(楼門) | |||||
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国 | 日本 | ||||
地方 | 中部地方、東海地方 | ||||
都道府県 | 岐阜県 | ||||
郡 | 不破郡 | ||||
市町村コード | 21361-6 | ||||
法人番号 | 7000020213616 | ||||
面積 |
57.09km2 | ||||
総人口 |
25,212人 [編集] (推計人口、2024年10月1日) | ||||
人口密度 | 442人/km2 | ||||
隣接自治体 | 大垣市、揖斐郡揖斐川町、池田町、不破郡関ケ原町、養老郡養老町 | ||||
町の木 | ケヤキ | ||||
町の花 | ツバキ | ||||
垂井町役場 | |||||
町長 | 早野博文 | ||||
所在地 |
〒503-2193 岐阜県不破郡垂井町宮代2957番地11 北緯35度21分59秒 東経136度32分17秒 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
美濃国の国府趾、一宮などの所在地として有名であり、古代から美濃国の中心として栄えた。中世には中山道の宿場町、美濃路の分岐点、南宮大社の門前町として栄えた。戦国時代に豊臣秀吉の軍師として活躍した竹中半兵衛所縁の地としても有名であり菩提山城跡やその一族の竹中氏陣屋などがある。また、関ヶ原の戦いをはじめ承久の乱や南北朝動乱など天下を分かつ合戦の舞台でもあり、古代から近世までそれぞれの時代にゆかりの史跡がある。
揖斐川水系の相川とその支流による扇状地が、町の中央から東部や南東部にかけて広がり濃尾平野につながっている[1]。山地として北部から北西部に池田山地、南西部に南宮山地がある[1]。
大垣市西部(旧不破郡)から垂井町、関ヶ原町、滋賀県米原市にかけての人々は、垂井式アクセントという、京阪式アクセントの変種を方言として使う。方言学者の服部四郎が初めて垂井町で発見して命名した。
古くから垂井の泉で歌枕(たるいの水)として多くの歌人に詠まれていたことに由来。
「御屋(神社や御所)+代(場所)」であり、南宮大社や聖武天皇が行幸した場所(不破頓宮など)に由来。
美濃国府があったことに由来。
渡来人の漢(あや)氏と呼ばれる綾を織る人々が集住したことに由来。
渡来人の日佐(おさ)氏と呼ばれる古代の通訳が集住したことに由来。
呉国からの渡来人である呉原(くれはら)氏が集住したことに由来。
岩手氏がこの地を治めていたことに由来。もしくは岩の出っ張ったところに由来。
※現在150基ほどの古墳が見つかっている。
(襲撃情報のため一時的に揖斐小島の頓宮へ移動)
垂井町と全国の年齢別人口分布(2005年) | 垂井町の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 垂井町
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
垂井町(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
※松井修が、脳内出血で急逝したため町長不在期間がある。
町内を東海道本線が通過しているが、上下線で離れている。町域北部を通る下り本線(登坂迂回線)は現在では貨物列車や特急列車のみが通行し、普通列車は町域南部の上り本線に平行して敷かれた「垂井線」を通って垂井駅に至る。かつては下り本線の町域内に新垂井駅が設置されており同線を通行する普通列車も運行されていたが、新垂井駅は1986年11月1日のダイヤ改正時に廃止された。
姉妹都市
提携都市(災害時相互応援協定)
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