親ヶ谷古墳

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親ヶ谷古墳

親ヶ谷古墳(おやがたにこふん)は、岐阜県不破郡垂井町府中にある古墳。形状は前方後円墳。不破古墳群を構成する古墳の1つ。垂井町の史跡に指定されている。

概要 親ヶ谷古墳, 所属 ...
親ヶ谷古墳
所属 不破古墳群
所在地 岐阜県不破郡垂井町府中市之尾深谷569
位置 北緯35度23分41秒 東経136度31分57.9秒
形状 前方後円墳
規模 墳丘長85m以上
高さ6m(後円部)
埋葬施設 粘土槨
出土品 副葬品
築造時期 4世紀後半
史跡 垂井町指定史跡「親ヶ谷古墳」
地図
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親ヶ谷古墳
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概要

さらに見る 造墓基盤, 古墳名 ...
不破古墳群の盟主的首長墓系譜[1]
造墓基盤古墳名形状墳丘長
昼飯花岡山古墳前方後円墳60m
垂井北群親ヶ谷古墳前方後円墳85m以上
矢道矢道長塚古墳前方後円墳90m
青墓粉糠山古墳前方後方墳100m
昼飯昼飯大塚古墳前方後円墳150m
青墓遊塚古墳前方後円墳80m
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岐阜県不破郡垂井町府中の標高185メートルの山頂に築造されたこの地域を代表する首長墓の1つである。1879年(明治12年)に盗掘され多数の副葬品が出土した。現在これらの出土品は東京国立博物館に保管されている[2]。この他にも銅鏡14面が出土したと伝えられる。また、昭和初期に藤井治左衛門が再調査した時には内行花文鏡片が出土したと言われている。何れにせよ稀にみる多数の銅鏡を保有した前期古墳である。『岐阜県史』の編纂に合わせて1970年(昭和45年)に測量され、この時には直径10メートルの円墳とされたが[3]、1987年(昭和62年)に東海古墳文化研究会が行った測量調査の結果細い尾根を利用した墳丘長85メートル以上の前方後円墳と報告された[4]。墳形は前方後円墳で前方部を北方に向ける。墳丘は2段築成。後円部上段のみ葺石を用い、埴輪は確認されていない[5]。築造は4世紀後半と推定される。発掘調査は行われていない。

規模

  • 墳丘長 85メートル
  • 後円部
    • 直径 42メートル
    • 高さ 6メートル
  • 前方部
    • 幅 43メートル
    • 高さ5.5メートル

出土品

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碧玉製四脚付盤
東京国立博物館展示(他画像も同様)。
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石製坩・石製合子

「※」の付いていないものは現在、東京国立博物館に収蔵されている。なお「※」の付いているものは伝承のみで所在不明のものである[3][6]

  • 石製合子 2
  • 石製高坏 1
  • 石製二重口縁壺 1
  • 石製小型丸底壺 2
  • 石製四脚付盤 1
  • 鍬形石 1
  • 車輪石 5
  • 管玉 8
  • 棗玉 4
  • 銅鏡 14※
  • 内行花文鏡片※

文化財

垂井町指定文化財
  • 史跡

「親ヶ谷古墳」1957年(昭和32年)2月15日指定[2]

脚注

参考文献

関連文献

外部リンク

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