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1947 年から1991年にかけてのソビエトとアメリカおよびそれぞれの同盟国との間の緊張 ウィキペディアから
冷戦(れいせん、英: Cold War、露: Холодная война)もしくは冷たい戦争(つめたいせんそう)は、第二次世界大戦後の世界を二分した西側諸国(アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営)と、東側諸国(ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営)との対立構造。主に米ソ関係を軸に展開した。米ソ冷戦(べいそれいせん)や東西冷戦(とうざいれいせん)とも呼ばれる。「冷戦」とは、戦火を交えない戦争、つまり米ソが武力で直接には衝突しないという意味であるが、冷戦下では朝鮮戦争、ベトナム戦争、ラオス内戦、ソ連・アフガン戦争のように両国が介入して東西各勢力を支援する代理戦争が多数勃発した。
第二次世界大戦の終結直前の1945年2月から1989年12月までの44年間続き、連合国としては味方同士であったアメリカ合衆国とソビエト連邦が軍事力で直接戦う戦争は起こらなかったので、軍事力(火力)で直接戦う「熱戦」「熱い戦争」に対して、「冷戦」「冷たい戦争」と呼ばれた。
「冷戦」という語は、ジョージ・オーウェルがジェームズ・バーナムの理論を評した時に使っており[3][4][5]、後にバーナード・バルークも使い[6]、アメリカの政治評論家ウォルター・リップマンが1947年に上梓した著書の書名『冷戦―合衆国の外交政策研究』に使用されたことから、その表現が世界的に広まった。
各陣営とも構成国の利害損得が完全に一致していたわけではなく、個別の政策や外交関係では協力しないこともあったなど、イデオロギーを概念とした包括的な同盟・協力関係である。
冷戦での両陣営の対立の境界であるヨーロッパにおいては、ソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営が東ヨーロッパに集まっていたことから「東側」、対するアメリカ合衆国を盟主とした資本主義陣営が西ヨーロッパに集まっていたことから「西側」と呼んで対峙した。その対立は軍事、外交、経済だけでなく、宇宙開発や航空技術、文化、スポーツなどにも大きな影響を与えた。又、冷戦の対立構造の中で西ヨーロッパは統合が進み、欧州共同体の結成へ向かった。ヤルタ会談から始まってマルタ会談で終わったため、「ヤルタからマルタへ」ということもいわれる。
ヨーロッパのみならず、アジア、中東、南アメリカなどでも、それぞれの支援する機構や同盟が生まれ、世界を二分した。この二つの陣営の間は、制限されているがために経済的、人的な情報の交流が少なく、冷戦勃発当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、「鉄のカーテン」と表現した。
アメリカ陣営とソ連のどちらにも与しない国家は「第三世界」と呼ばれ、それぞれの陣営の思惑の中で翻弄された。しかし、こうした両陣営の思惑を逆手に取り、両陣営を天秤に乗せることで多額の援助を引き出す「援助外交」も活発に行われた。また、この米ソ両陣営の対立構造を「大国の覇権主義」と否定した国々は、インドなどを中心に非同盟主義を主張し、第三世界の連帯を図る動きもあった(有名無実である国も多かった)。
なお、経済発展が進んだ開発途上国が「第三世界」と呼ばれ、経済発展が遅れている開発途上国は「第四世界」と呼ばれることもある。
この冷戦時代の世界は、
の3点に特徴付けられる。最終的にマルタ会談に於いて米ソ両国の間で和解が行われ、正式に冷戦の終わりが宣言された。冷戦が終わると、アメリカが唯一の超大国として君臨していた。しかし、2010年代ころより強権的国家のロシアの軍事的復活や共産党の一党独裁国家の中華人民共和国の軍事、経済的急成長、またこれら2国とのアメリカ、イギリス、フランス、日本、韓国、オーストラリア、フィリピン、カナダなどの民主主義国との対立や、ロシアとウクライナとの軍事的対立など、変化が多くなって流動性を増している。
アメリカ合衆国 | ソビエト連邦 | |
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人口統計 | 1990年の人口は2億4,870万人で、当時は中国、インド、ソビエト連邦に次ぐ地球上で4番目に多い人口であった[7]。 | 1989年の人口は2億8,670万人で、中国とインドに次ぐ地球上で3番目に多い人口であった[8]。 |
地理 | 世界で3番目または4番目に大きい国で、面積は9,630,000 km 2(3,720,000平方マイル)であった[9]。 | 世界最大の州(実際には連邦の 超国家)で、表面積は22,270,000 km 2(8,600,000平方マイル)であった[8]。 |
経済 | 1990年のGNPは5.2兆ドル(2019年での10.2兆ドルに相当)[10]。世界最大の経済大国である。1979年以降、所得格差の拡大もあったが、顧客の需要に応じて生産量が決まる需要と供給に基づく資本主義市場経済論[11]。巨大な産業基盤と、大規模で近代化された農業。大量の輸入と輸出 鉱物、エネルギー資源、金属、木材などの豊富な資源。多くの製造業製品を入手できる高い生活水準。数多くの大規模なグローバル企業の本拠地である。ブレトン・ウッズ会議により、米ドルが世界の主要な基軸通貨となった。G7に加盟している。マーシャル・プランなどで同盟国の経済を支援。 | 1990年のGNPは2.7兆ドル(2019年での5.3兆ドル相当)[12]。世界第2位の経済規模。膨大な鉱物エネルギー資源と燃料の供給。農業などの資源不足に悩まされたが、最小限の輸入品で概ね自給していた。大規模な工業生産は、中央集権的な国家機関によって指導されており、非効率性が高い。経済的目標を達成するために5カ年計画が頻繁に用いられた。雇用保証、医療費無料、教育費無料などの経済的利益が社会のあらゆるレベルで提供された。ソ連の平均寿命や医療の一部の指標は米国を上回っていたが、西欧先進国の水準を下回ることが多かった。経済は中欧・東欧の衛星国と結びついている。 |
政治 | 立法府、行政、司法の間で行われる複雑な抑制と均衡システムを持つ、強力な三権分立の大統領制を採用したリベラルな立憲共和国。合衆国議会の立法権は、文書化された憲法と連邦政府の性質によって制限されていた。専門の憲法裁判所がないにもかかわらず、法律の司法審査は、判例により最高裁判所に委ねられている。大統領は国家元首であると同時に政府の長でもあり、その内閣は議会の信任を得る必要はなかった。国民の選挙は、2年に1度の連邦議会選挙のみであった。しかし、4年に1度の大統領選挙は、事実上、選挙人団による間接選挙から、重み付けされているとはいえ、直接選挙に変更された。民主党と共和党の二大政党制。国連安全保障理事会の常任理事国であり、2つの同盟国(フランスとイギリス)とともに存在する。 | 強力なマルクス・レーニン主義国家で、大規模な秘密警察組織を持ち、立法府の信任を得ることを主眼とした行政府と司法の牽制機能を持つ、強力な権力融合型の準議会制度の下で組織されている。書かれた憲法と名目上の連邦制にもかかわらず、司法審査権を持つ裁判所がないため、最高ソビエトは事実上の議会主権を享受していた。正式な大統領職が存在しないため、常任理事会が集団的な国家元首の役割を果たしていた。国民レベルの一般選挙は、2年に1度の最高ソビエト連邦選挙のみで、事前に選ばれた候補者に対するイエス・ノーの投票であった。しかし、1989年の抜本的な政府改革により、競争制の選挙、直接選挙で選ばれる行政長官、憲法裁判所が導入され、いずれも既存の制度とは初歩的な三権分立がなされた。一党制で、共産党が制度的に権力を独占している。国際連合安全保障理事会の常任理事国。 |
外交関係 | 西ヨーロッパ、ラテンアメリカのいくつかの国、英連邦、いくつかの東アジア諸国、イスラエルとの強い結びつき。世界中の自由民主主義と反共主義独裁を支持した。 | 中央および東ヨーロッパ、ラテンアメリカの国々、東南アジアおよびアフリカとの強い結びつき。また、1961年まで中国と同盟を結んでいた。世界中のマルクス・レーニン主義国を支援した。 |
軍事 | 世界一の軍事費[13]。世界最大の海軍は次の13カ国の海軍の合計を上回り[14]、陸軍と空軍はソビエト連邦に匹敵する。世界各地に基地を保有しており、特にワルシャワ条約加盟国を中心に西・南・東の三方に不完全な環状の基地を保有している。冷戦の前半では、世界最大の核兵器を保有していた。西ヨーロッパの強力な軍事同盟国で、独自の核戦力を保有していること。諜報機関とのグローバルな情報ネットワーク 発展途上国の準軍事組織やゲリラ組織との連携。先進国の同盟国とともに、防衛関連企業を通じた世界市場向けの大規模な兵器生産。 | 世界最大の陸軍と空軍、第2位の海軍を保有。世界各地に基地を保有。冷戦の後半には世界最大の核兵器を保有した。ワルシャワ条約の創設者であり、中・東欧に衛星国を持つ。GRUやKGB第一部長とのグローバルな情報ネットワーク。発展途上国の準軍事組織やゲリラ組織とのつながり。大規模な武器産業の生産と世界的な流通 |
メディア | 憲法で言論の自由と報道の自由が保障されているが、冷戦が続いたためにある程度の検閲が行われており、特にベトナム戦争や第二次赤狩りの際には検閲が最も厳しくなった。 | 憲法で保障されている言論の自由と報道の自由は、市民の義務を果たすことと、政府の利益に合致することの両方を条件としており、事実上の死文化となっている。報道は明確にコントロールされ、検閲された。すべての国の労働者が団結して、資本主義社会とブルジョワジーの独裁と呼ばれる社会を打倒し、すべての生産手段を公有化する社会主義社会に置き換えるべきだという社会主義の理想を、プロパガンダを使って推進した。 |
文化 | 音楽、文学、映画、テレビ、料理、アート、ファッションなど、豊かな伝統と世界的な文化的影響力を持つ。 | 文学、映画、クラシック音楽、バレエなどの豊かな伝統がある。 |
冷戦の始まりは、そのイデオロギー的側面に注目するならばロシア革命にまでさかのぼることができるが、超大国の対立という構図は、ヤルタ体制に求められる。
主に欧州の分割を扱った、1945年2月のフランクリン・ルーズベルト(アメリカ)、ヨシフ・スターリン(ソ連)、ウィンストン・チャーチル(イギリス)によるヤルタ会談が、第二次世界大戦後の国際レジームを決定した。7月のポツダム会談でさらに相互不信は深まっていった。
1946年、モスクワのアメリカ大使館に勤務していたジョージ・ケナンの「長文電報」はジェームズ・フォレスタル海軍長官を通じて、トルーマン政権内で回覧され、対ソ認識の形成に寄与した。後に、アメリカの冷戦政策の根幹となる「反共・封じ込め政策」につながった。
戦争によって大きな損害を蒙っていた欧州諸国において、共産主義勢力の伸張が危惧されるようになった。特にフランスやイタリアでは共産党が支持を獲得しつつあった。戦勝国であったイギリスもかつての大英帝国の面影もなく、独力でソ連に対抗できるだけの力は残っていなかった。そのため、西欧においてアメリカの存在や役割が否応なく重要になっていった。1947年に入ると、3月12日にトルーマンは一般教書演説でイギリスに代わってギリシャおよびトルコの防衛を引き受けることを宣言した。世界的な反共活動を支援すると宣言した、いわゆる「トルーマン・ドクトリン」であり、全体主義と自由主義の二つの生活様式というマニ教的世界観が顕在化した。さらに6月5日にはハーヴァード大学の卒業式でジョージ・マーシャル国務長官がヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)を発表し、西欧諸国への大規模援助を行った。こうして戦後アメリカは、継続的にヨーロッパ大陸に関与することになり、孤立主義から脱却することになった。
東欧諸国のうち、ドイツと同盟関係にあったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、スロバキアにはソ連軍が進駐し、共産主義勢力を中心とする政府が樹立された。当初は、「反ファシズム」をスローガンとする社会民主主義勢力との連立政権であったが、法務、内務といった主要ポストは共産党が握った。ヤルタ会談で独立回復が約束されたポーランドでも、ロンドンの亡命政府と共産党による連立政権が成立したが、選挙妨害や脅迫などによって、亡命政府系の政党や閣僚が排除されていった。こうした東欧における共産化を決定付けるとともに、西側諸国に冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1948年2月のチェコスロバキア政変であった。またその前年の10月にはコミンフォルムが結成され、社会主義に至る多様な道が否定され、ソ連型の社会主義が画一的に採用されるようになった。他方、ユーゴスラビアとアルバニアにおける共産党体制の成立において、ソ連の主導というよりも、戦中のパルチザン闘争に見られる土着勢力による内発的要因が大きかった。この点が、1948年のユーゴ・ソ連論争の遠因ともなり、共産圏からユーゴスラビアが追放され、自主管理社会主義や非同盟主義外交という独自路線を歩むことになった。
枢軸国の中心であったドイツとオーストリアは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連が4分割して占領統治した。占領行政の方式や賠償問題などでソ連と米英仏の対立が深まり、1949年、西側占領地域にはドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地域にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立する。
ヤルタ会談の焦点の一つがポーランド問題であった。米英にとって、第二次世界大戦に参戦した直接的理由がナチス・ドイツのポーランド侵攻であり、ソ連にとって安全保障の観点から自国に友好的な政権がポーランドに樹立されることが望まれていた。いみじくもスターリンがミロヴァン・ジラスに述べたように、ポーランド問題とは、領土問題であると同時に政権問題という位相を含んでいた点で、第二次世界大戦の性格を如実に表象していた。
またポーランドがソ連軍によって解放されたことで、戦後のポーランド政治に対して、ソ連の影響力が大きくなる要因となった(敵国から解放した国家が占領において主導権を握るという「イタリア方式」がここでも作用していた)。ヤルタ会談で、米英はスターリンにポーランドでの自由選挙の実施を求め、同意を取り付けたが、スターリンが語ったとされるように、米英にとって「名誉の問題」である一方で、ソ連にとってポーランド問題とは「安全保障上の死活的問題」であったため、スターリンは強硬な姿勢を採った。
ルーズベルトの死後大統領に就任したトルーマンは、こうしたヤルタでの取り決めをソ連が反故にしていることを知り、国連創設会議のため訪米中のソ連の外相ヴャチェスラフ・モロトフに対し抗議した。その後、アメリカとソ連は、対立するようになる(選挙が決まるまでの過程は、ヤルタ会談の「ポーランド問題」を参照のこと)。
ドイツの首都ベルリンは、その国土同様、4国で分割された。その結果ベルリンは西側占領地区だけが、東ドイツの真ん中に島のように位置することになった。冷戦対立が強まる中、ソ連は西側地区における通貨改革への対抗措置として、1948年に西ベルリンへ繋がる鉄道と道路を封鎖した(ベルリン封鎖)。これに対抗するため、西側連合国は物資の空輸を行って、ベルリン封鎖をなし崩しにした。そのため封鎖は約1年後に解かれた。
冷戦は地球の反対側でも米ソが向き合うため、周辺のアジアにも強い影響を与えた。中国大陸では、戦後すぐにアメリカの支援する中国国民党とソ連の支援する中国共産党が内戦を繰り広げたが、中国共産党が勝利し1949年に共産主義の中華人民共和国を建国。1950年2月に中ソ友好同盟相互援助条約を結んでソ連の同盟国となった。一方、アメリカの支援を打ち切られた中国国民党は台湾島に逃れた。また、中華人民共和国は朝鮮戦争に出兵することで、アメリカと直接対立して台湾海峡も冷戦構造に組み入られた。すでにモンゴルではソ連の支援の下で共産主義のモンゴル人民共和国が1924年に成立していたが、戦後になって米英仏等が承認した。
日本が統治していた朝鮮半島は、ヤルタ会談によって北緯38度線を境に北をソ連、南をアメリカが占領し、朝鮮半島は分断国家となった。このため、1950年6月にソ連の支援を受けた北朝鮮が大韓民国へ突如侵略を開始し、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争には「義勇軍」の名目で中華人民共和国の中国人民解放軍も参戦し戦闘状態は1953年まで続いた。
フランス領インドシナでは、ベトナムの共産勢力が独立を目指し、第一次インドシナ戦争が起こった。1954年にフランスが敗北したため、ベトナムが独立を得たが、アメリカ合衆国は共産主義勢力の拡大を恐れ、ジュネーブ協定によって北緯17度で南部を分割し、アメリカ合衆国の傀儡の軍事政権が統治する南ベトナムを建国した。これは後のベトナム戦争の引き金となる。また、フランスとアメリカが強い影響力を残したラオス(1949年独立)、カンボジア(1953年独立)でも共産勢力による政権獲得運動が起こった。
これら共産勢力のアジア台頭に脅威を感じたアメリカは、1951年8月に旧植民地フィリピンと米比相互防衛条約、9月に一国占領していた旧敵国日本と日米安全保障条約、同月にイギリス連邦のオーストラリア・ニュージーランドと太平洋安全保障条約(ANZUS)、朝鮮戦争後の1953年8月に韓国と米韓相互防衛条約、1954年に中華民国と米華相互防衛条約を立て続けに結び、1954年9月にはアジア版NATOといえる東南アジア条約機構(SEATO)を設立して西側に引き入れた他、中華民国への支援を強化した。また中東でも、アメリカをオブザーバーとした中東条約機構(バグダッド条約機構、METO)を設立し、共産主義の封じ込みを図った。
このように冷戦が進む中、1950年代前半のアメリカにおいては、上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長を務めるジョセフ・マッカーシー上院議員が、政府やアメリカ軍内部の共産主義者を炙り出すことを口実とした活動、いわゆる「赤狩り」旋風を起こし、多くの無実の政府高官や軍の将官だけでなく、チャールズ・チャップリンのような外国の著名人でさえ共産主義者のレッテルを貼られ解雇、もしくは国外追放された。
1950年代にアメリカの総生産は世界の約4割、金と外貨の保有は約5割に上り、名実共に世界の盟主となっていた。このようなアメリカを中心とするアジア・太平洋の同盟は、戦禍を蒙らずに一人勝ちできたアメリカ経済によって支えられていた。
主な出来事
1953年、スターリンが死去し、冷戦状態が緩和する兆しが見え始めた。同年に朝鮮戦争の休戦が合意され、1955年にはNATOに対抗するワルシャワ条約機構が結成、オーストリアは永世中立が宣言されて東西の緩衝帯となり、連合国軍が撤退した。またジュネーヴで米ソ英仏の首脳が会談し、ソ連と西ドイツが国交樹立、ソ連は翌年に日本とも国交を回復し、1959年にはフルシチョフがアメリカを訪問するなど、冷戦の「雪どけ」ムードを演出した。
この時期、東側陣営ではソ連の覇権が揺らぎつつあった。スターリンの後継者争いを勝ち抜いたフルシチョフは、1956年の第20回ソ連共産党大会でスターリン批判を行った。この演説の反響は大きく、ソ連の衛星諸国に大きな衝撃をもたらし、東欧各地で反ソ暴動が起きた。ポーランドでは反ソ暴動に次いで、国民の人気が高かったヴワディスワフ・ゴムウカが党第一書記に就き、ソ連型社会主義の是正を行った。ポーランドの動きに触発される形で、ハンガリーでも政権交代が起こり、ナジ・イムレが政界に復帰したが、国民の改革要求に引きずられる形で、共産党体制の放棄、ワルシャワ条約機構からの脱退、中立化を宣言するに至り、ソ連軍の介入を招いた(ハンガリー動乱)。
一方、中華人民共和国はスターリン批判に反発した。1960年代にはキューバ危機や部分的核実験禁止条約でしばしば対立、ダマンスキー島事件などの国境紛争を起こすに至った。
主な出来事
互いを常に「仮想敵国」と想定し、仮想敵国と戦争になった場合の勝利を保障しようと、両国共に勢力の拡大を競い合い、軍備拡張が続いた。この象徴的な存在が、核兵器開発と宇宙開発競争である。両陣営は、目には目を、核には核を、との考え方からそれぞれ核兵器を大量に保有するようになる。また、大陸間弾道ミサイルと共通の技術をもつロケットやU-2などの高高度を飛行する偵察機、宇宙から敵を監視するための人工衛星の開発に没頭し、国威発揚のために有人宇宙飛行と月探査活動を活発化した。
しかし、ソ連とアメリカの直接衝突は、皮肉にも核の脅威による牽制で発生しなかった。特に1962年のキューバ危機によって、米ソの全面核戦争の危機が現実化したため、翌年から緊張緩和の外交活動が開始されるようになったのである。
その一方、第三世界の諸国では、各陣営の支援の元で実際の戦火が上がった。これは、二つの大国の熱い戦争を肩代わりする、代理戦争と呼ばれた。また、キューバ危機を契機に「アメリカの裏庭」と呼ばれる中南米諸国に対する影響力を得ることを企てたソ連の動きに対し、アメリカはブラジルやボリビア、ウルグアイなど各国の親米軍事独裁政権への肩入れと共産勢力の排除を行い、その結果共産勢力の排除に成功した。しかし、その後冷戦終結までの永きにおいて、これらの中南米諸国では軍事政権による内戦や汚職、軍事勢力同士によるクーデターが横行し、民衆は貧困にあえぐことになる。
1949年以降、分断状況が既成事実化しつつあったドイツ問題が暫定的な形とはいえ、「解決」を見たのが、1958年から始まったベルリン危機 (1958年)であった。当時、東ドイツにおける過酷な社会主義化政策によって、熟練労働者や知識人層における反発が高まり、その多くが西ベルリンを経由して、西ドイツへと逃亡した。社会主義建設の中核となるべき階層の流出に危機感を募らせたウルブリヒトは、ドイツ問題の解決をフルシチョフに訴えるとともに、西側との交渉が挫折した際には、人口流出を物理的に阻止することを選択肢として提起した。フルシチョフの要求に対し、西側陣営は拒否の姿勢を貫いたため、1961年8月に、西ベルリンを囲む形で鉄条網が敷設され、後に壁へと発展した(ベルリン危機 (1961年))。この当時、ベルリン市長を務めていたのが、1969年に首相として東方政策を推進したヴィリー・ブラントであった。彼の東方政策の背景には、ベルリン危機の経験が反映されていた。
主な出来事
キューバ危機によって核戦争寸前の状況を経験した米ソ両国は、核戦争を回避するという点において共通利益を見出した。この結果、米英ソ3国間で部分的核実験禁止条約、ホットライン協定などが締結された。しかし、部分的核実験禁止条約は中国・フランスが反対し、東西共に一枚岩でないことが明白となった。シャルル・ド・ゴール統治下のフランスは、アメリカ主導のNATOに反対し、1964年には同様に米ソと距離を置いていた中国を(中国と地続きな香港を持つイギリスを除いて)西側諸国では最も早く国家承認した。また、1967年にド・ゴールは外訪先であるカナダで開催されたモントリオール万国博覧会で、「自由ケベック万歳!」と演説し、今も続くケベック独立運動に火を付けた。
米ソ両国の軍拡競争が進行し、ベトナム戦争を契機とする反戦運動、黒人の公民権運動とそれに対抗する人種差別主義者の対立などによって国内は混乱、マーティン・ルーサー・キング師やロバート・ケネディなどの要人の暗殺が横行して社会不安に陥った。第二次世界大戦終結時はアメリカ合衆国以外の主要な交戦国は戦災で著しく疲弊していたので、世界の経済規模に対するアメリカ合衆国の経済規模の比率は突出して大きかったが、戦災から復興した日本や西ドイツが未曾有の経済成長を遂げ、西欧が経済的に復活する中で、世界の経済規模に対するアメリカ合衆国の経済規模の比率は相対的に減少した。
チェコスロバキアはプラハの春と呼ばれる民主化、改革路線を取ったが、ソ連は制限主権論に基づきワルシャワ条約機構軍による軍事介入を行い武力でこれを弾圧した。なお、ニコラエ・チャウシェスク率いるルーマニア社会主義共和国はワルシャワ条約機構加盟国でありながらソ連の介入を公然と批判して独自路線を行い、アメリカなど西側諸国から巨額の援助を受けた。また、アルバニアはスターリン批判以来、中華人民共和国寄りの姿勢を貫いてワルシャワ条約機構を離れ、中華人民共和国はリチャード・ニクソンの訪中を契機にアメリカに近づいてソ連と決別、北朝鮮は主体思想を掲げてソ連から離反した。イタリア、スペイン、日本など西側諸国の共産党のうちいくつかはソ連型社会主義に反発し、ソ連の影響から離脱した(ユーロコミュニズム)。こうして今に至る共産主義の多極化が起こった。
主な出来事
1960年代末から緊張緩和、いわゆるデタントの時代に突入した。米ソ間で戦略兵器制限交渉 (SALT)を開始、1972年の協定で核兵器の量的削減が行われ、緊張緩和を世界が感じることができた。
この頃には同じ共産陣営でありながらソ連と中国の路線対立はあらゆる方面で亀裂を生むようになってきており、中ソ国境紛争など実力行使を伴うほどになってきていた。印パ戦争は中ソの代理戦争の様相を呈した。
このような中ソの対立を見たアメリカはソ連を牽制する目的で、リチャード・ニクソンがパキスタンやルーマニアなどの仲介により1972年に中華人民共和国を訪問し、中華人民共和国を承認して外交と貿易を開始し、東アジアにおける冷戦の対立軸であった米中関係が改善、1972年には日本も中華人民共和国と国交正常化した。
また、1973年に北ベトナムとアメリカは和平協定に調印し、アメリカ軍はベトナムから撤退した。アメリカは建国以来初の屈辱的な敗北を味わうことになった。その後1975年4月に南ベトナムの首都であるサイゴンは北ベトナムの手に落ち、同時にラオス、カンボジアでも共産主義勢力が政権を獲得し、インドシナ半島は完全に赤化された。
一般市民の日常生活や仕事に役立つ多種多様な商品やサービスが開発・供給され、世界の経済、財政、貿易、投資、通貨発行は著しく拡大したので、金本位制と外国為替の固定相場制の維持が不可能になり、管理通貨制度と変動相場制に移行した。
ヨーロッパでは、1969年に成立した西ドイツのブラント政権が東方政策を進め、東側との関係改善に乗り出した。また1972年に、かねてからソ連が提案していたヨーロッパ全体の安全保障を協議する「ヘルシンキ・プロセス」が始まり、1975年に欧州安全保障協力会議の成立に繋がった。しかし核を削減する一方、ソ連は1977年から中距離弾道ミサイルを配備した。これに対抗し、アメリカは1979年12月に中距離核戦力(INF)を西欧に配備すると発表した。また同じ月にソ連がアフガニスタンに侵攻したため、東西はまたも緊張し、デタントの時代は終焉した。
中東では、第四次中東戦争が起き、主にソ連の支援するアラブ諸国が政治的な成果をおさめ、石油危機によって西側先進国に深刻な打撃を与えた。しかし、四度にわたる中東戦争を主導してきたエジプトは戦争前にソ連の軍事顧問団を追放し[15]、戦争後はソ連と関係断絶し、ソ連と対立するアメリカや中国から軍事的経済的援助を受け始め[16][17][18][19]、アメリカの主導でキャンプ・デービッド合意が成立し、さらにアメリカは西側に対する石油禁輸を主導したサウジアラビアがドル建て決済で原油を安定的に供給することと引き換えに安全保障を提供する協定(ワシントン・リヤド密約)を交わしてオイルダラーを確立することでドル防衛に成功し[20][21][22][23][24]、単純な米ソ対立が反映されてきた中東でも新たな冷戦の構図が生まれつつあった。
アフリカでは、1978年からエチオピアとソマリアの間でオガデン戦争が起こっていたが、エチオピアが1974年の軍事クーデターで社会主義を宣言したため、ソ連とキューバがエチオピアを、ソマリアをアメリカと中国とルーマニア、エジプトなどが支援した。アンゴラは1975年の独立直後から3つの武装勢力が対立し内戦となり、これに南アフリカとザイールとキューバが介入、間接的にソ連・中国・アメリカが援助を行い、泥沼化した。
東南アジアでは、共産主義国家同士のカンボジア・ベトナム戦争が起き、ソ連寄りのベトナムの侵攻で親中国の民主カンプチアが崩壊するも民主カンプチアの亡命政府は中国・ASEAN・日本・アメリカの支援で国連総会の議席を保ち続け、タイとの国境で親ベトナムのヘン・サムリン政権に対しゲリラ活動を行ってカンボジア内戦は長期化した。
ラテンアメリカでは、チリにおいて民主的な社会主義政権であるサルバドール・アジェンデ政権を転覆させたチリ・クーデターで成立したアウグスト・ピノチェトが中国とルーマニアを除く共産圏と断交し、親米軍事政権の南米諸国は共産主義勢力の排除で連携するコンドル作戦を立ち上げた。
ソ連は1970年代に世界的に勢力を伸ばし、統一ベトナム、カンボジア(親ベトナム政権)、ラオス、エチオピア、南イエメンの共産主義政府と協力関係を築き、アンゴラ、モザンビーク、ニカラグアなどで共産主義勢力に加担して紛争に介入し、シリアやイラクなどアメリカが近づきにくい国に接近し、友好関係を築いた。ソ連の影響力は1980年代にかけて第三世界に広がった。
1978年に成立した共産主義政権を支えるために、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻した。このため、西側世論が反発して東西は再度緊張、影響は1980年モスクワオリンピックへの西側に加えて中国、さらにエジプトやサウジアラビア、パキスタンなど親米のアラブ・イスラム諸国も加わったボイコットとして現れた。東側は報復として、1984年のロサンゼルスオリンピックをボイコットした。アメリカはCIAやチャールズ・ウィルソンらによる総額数十億ドル規模の極秘の武器供給などによる支援にてアフガニスタンの反共ムスリム武装勢力「ムジャヒディン」をエジプトやサウジアラビア、パキスタンなどとともに援助した[25]。また、ソ連と対立する中国も武器や訓練でムジャヒディンを支援した[26]。戦争を短期で終結させるソ連の目論見は外れ、侵攻の長期化によってソ連財政は逼迫し、アメリカは間接的にソ連を弱体化することに成功した。
人々は、このアフガニスタンの騒乱によって、世界には東西の陣営とは別にもう一つの勢力があることに気が付き始めた。それはイスラム主義と呼ばれる勢力であり、二つのイデオロギー対立とはまったく異なる様相を呈した。アフガニスタンではアメリカはソ連を倒すために、この勢力を支援したが、1979年イラン革命の際には、国際法を無視してアメリカ大使館が1年余りにわたり占拠された。アメリカは大使館員救出のために軍を介入させたが失敗、アメリカ軍の無力さを露呈した(イーグルクロー作戦)。イスラム教を創始した預言者ムハンマドの子孫(サイイド)でイランの最高指導者となったルーホッラー・ホメイニーは「ソ連は小悪魔、米国は大悪魔」「我々は西でも東でもない」としてイスラム主義の時代を謳った[27]。
このイラン革命によってアラブ諸国や東西諸国は動揺し、1980年にイラン・イラク戦争となって火を噴いた。欧米ソ中はイスラム革命が世界に広がることやさらなる石油危機を恐れ、イラクを援助して中東最大の軍事大国に仕立てた。戦争は長期にわたり、1987年には米軍が介入したが、決着のつかないままに終わった。しかし、この時のアメリカによる中東政策が、後の21世紀の世界情勢に大きな影響を与えることになった。一方、ソ連は国内情勢の変化(下記参照)によって1989年には泥沼のアフガンから完全撤退、世界から急速にソ連の影響力が弱まりつつあった。
主な出来事
1985年、ソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは、改革(ペレストロイカ)および新思考外交を掲げて、経済が疲弊した国内体制の改良と、予算案を大幅に削減した大胆な軍縮提案を行い、さらには西側との関係改善に乗り出す。
1987年にアメリカとの間で中距離核戦力全廃条約(INF)を調印した。この緊張緩和によって、両国の代理戦争と化していたオガデン戦争やアンゴラ内戦が1988年から順次終結し、リビアとフランスが介入したチャド内戦も終結した。カンボジア内戦も1988年から和平会議が開催された。
また、既に1980年代初頭から独立自主管理労働組合「連帯」が結成され民主化の動きが見られていたポーランドでは1989年の選挙でポーランド統一労働者党が失脚して政権が交代し、同様に東欧諸国の中でも比較的早くから改革路線を行っていたハンガリーやチェコスロバキアでもソ連式共産党体制が相次いで倒れ、夏には東ドイツ国民が西ドイツへこれらの国を経て大量脱出した。
東ドイツはあくまで強硬な社会主義路線を取り民衆を抑え込もうとしたが、10月のライプツィヒで行われた月曜デモには10万人が参加し、事態を収拾できなかった社会主義統一党内部では、幹部であったエーリッヒ・ホーネッカーの求心力が低下し、まもなく総辞職に追い込まれた。後任の指導部も民主化を求める動きをせき止められず、東ドイツは政治・経済が崩壊状態に陥った。
このため、11月9日には東ドイツがベルリンの壁の開放を宣言、冷戦の象徴ともいうべきベルリンの壁が崩壊した。ルーマニアでも革命が勃発し、ニコラエ・チャウシェスク大統領夫妻が射殺され、共産党政権が倒された。これら東ヨーロッパの共産党政権が連続的に倒された革命を、東欧革命という。1989年12月には、地中海のマルタ島で、ゴルバチョフとジョージ・H・W・ブッシュが会談し、冷戦の終結を宣言した[28]。しかし、中国では六四天安門事件が起き、東アジアの共産党政権(竹のカーテン)では民主化ドミノが武力で抑制された。
1990年8月に起きた湾岸戦争では、欧米ソ中が世界第四の軍事大国に仕立てたイラクのクウェート侵攻に対するアメリカ主導の武力行使容認決議にソ連は同調し、米ソで二極化してきた世界はアメリカ一極化への兆しが見え始めた。アメリカは、1990年8月のイラク軍によるクウェート侵攻(湾岸危機)を皮切りにアラビア半島に展開、翌1991年1月にイラクとの間で湾岸戦争に踏み切り、これに勝利した。湾岸危機の際に1991年1月中旬からイラクの要請を受けていたソ連の和平案が当時の欧州共同体外相会議で賛成され、翌日にイラクと無条件全面撤退で合意したが、ブッシュ大統領はこれを退けた(数日後、シュワルツコフがソ連案を修正して停戦が決まった)。イラクを下したアメリカは世界の盟主として自信を深め、その後はパレスチナ問題を中心に中東への関心と介入を深めていく。湾岸戦争はその後の世界情勢を形成する上で非常に重要だったといえる。
ソ連国内ではペレストロイカ路線は行き詰まりつつあった。バルト三国の独立要求が高まり、1988年11月にエストニア・ソビエト社会主義共和国が主権宣言、同年リトアニア・ソビエト社会主義共和国でもサユディスによる独立運動の加速により、国旗がソビエト編入以前のデザインに戻された。1989年7月にリトアニア共産党がソビエト連邦共産党からの独立を宣言した。
1990年3月から6月にかけて東欧各国で一斉に選挙が実施され、ほとんどの国で共産党が第一党から転落した。バルト三国でも共産党は少数野党となり、バルト三国の各最高会議は独立宣言を採択した。ソ連政府はバルト三国に対して軍事行動を起こし、1991年1月の血の日曜日事件(リトアニア)などで、ソ連軍と民間人が衝突する事態になった。
ソ連は1991年3月、バルト三国を除く首脳が、連邦の権限を縮小した新連邦の構想に合意した。同年3月17日には新連邦条約を締結するための布石として、連邦制維持の賛否を問う国民投票(英語版、ロシア語版)が各共和国で行われ、投票者の76.4%が連邦制維持に賛成票を投じることとなった。しかし、既に分離独立を宣言していたバルト三国(エストニア・ソビエト社会主義共和国、ラトビア・ソビエト社会主義共和国、リトアニア・ソビエト社会主義共和国)、モルダビア・ソビエト社会主義共和国、グルジア・ソビエト社会主義共和国、アルメニア・ソビエト社会主義共和国は投票をボイコットした。
1991年6月12日、ソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国で、選挙により大統領に当選したボリス・エリツィンは、国名を「ロシア共和国」に改称し、主権宣言を出して連邦からの離脱を表明した。
また、米ソ両国は1991年7月に第一次戦略兵器削減条約(START)に調印した。8月20日に予定されていた新連邦条約調印を前に、ゴルバチョフの改革に反抗した勢力が軍事クーデターを起こし、ゴルバチョフを滞在先のクリミアで軟禁状態に置いた。しかし、クーデターはボリス・エリツィンの活躍やクーデター勢力の準備不足から失敗に終わった。
しかし、その結果バルト三国は独立を達成し、各構成共和国でも独立に向けた動きが進み、12月8日に、ロシアのエリツィン、ウクライナのレオニード・クラフチュク、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチがベラルーシのベロヴェーシの森で会談し、ソ連からの離脱と独立国家共同体(CIS) の結成で合意した(「ベロヴェーシの陰謀」)。こうして12月25日をもってソ連は消滅した。その後十年間で、東欧や旧ソ連の国々の一部は、相次いで資本主義国家となった。
ベルリンの壁が崩壊して冷戦が終結する前後に、それまで反共主義が故に、軍事政権や独裁政権、長期政権の存在が容認されていた一部の西側諸国(インドネシアや台湾、韓国、ザイールなど)が、アメリカからの金銭や軍事、政治的支援を受けられなくなったために次々と政権崩壊し、選挙の実施や政権交代を余儀なくされた。日本でも55年体制が崩壊し、非自民・非共産連立政権が樹立された。さらに反共主義を条件にアメリカの援助を受けた軍事政権や独裁政権、長期政権がその殆どを占めた中南米諸国においても、チリやアルゼンチン、ブラジルなどの主要国で相次いで民政化が進んだ。また、ソ連の中南米における橋頭堡として、軍事援助やバーター貿易などの方法でソ連から多大な援助を受けていたキューバは、冷戦が終わってアメリカとの対決の必然性が消えたロシアにとって戦略的価値を失い、援助は途絶え、経済危機に陥った。
米ソ冷戦が終結した当初の1990年代初期において、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』を発表し、政治体制としてのリベラル民主主義の最終的勝利を宣言した。冷戦終結直後の1991年に、冷戦の盟主国の一角であるソ連が死滅すると世界の均衡が崩れ、アメリカが唯一の超大国となった。ソ連型の国営の計画経済・統制経済モデルの社会主義体制と社会主義経済圏が崩壊し、世界の経済が資本主義経済・市場経済により統合され、グローバリゼーションが進行した。冷戦終結により、それまでクレムリンやホワイトハウスに抑圧されていた世界各地の民族問題が再燃した。
東ヨーロッパを見ると、1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに平和裏に分離した反面、1993年に起こったユーゴスラビア紛争は、民族同士の憎しみに火を点けてその後も続いた。カフカス地方ではアゼルバイジャンやアルメニアで内戦となり、チェチェンをはじめ各小民族が独立闘争を起こし、各国で内戦に発展した(第一次チェチェン紛争)。この内戦はロシア軍による圧倒的な火力で制圧されているが、追い込まれた独立派はテロ行為に走り、収拾がつかなくなっている(第二次チェチェン紛争)。また、このテロにはイスラーム過激派の関与が疑われている。
西ヨーロッパの冷戦は終わったが、東アジアではモンゴルの民主化、ベトナムとアメリカの和解の外は、中華民国と中華人民共和国の対立、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の対立(朝鮮戦争)が現在も続いており、日本国内では日本共産党と朝鮮総連は現在も公安当局(公安調査庁、公安警察)に監視されているなど、こちらは解決の見通しが立っていない。
アメリカは「冷戦の戦勝国」という自信から、1991年の湾岸戦争に引き続いて中東への介入を深め、ビル・クリントン政権は、双子の赤字を改善していく傍らでパレスチナ問題に積極的に関わり、ノルウェーの仲介により初めて和平合意をもたらした(オスロ合意)。しかし、イスラエルの凶変から和平は暗礁に乗り上げ、パレスチナ過激派によるテロとイスラエル軍による虐殺によって、パレスチナは泥沼の様相を呈した(パレスチナ問題)。また、アフガニスタンやスーダンには1998年にミサイル攻撃を強行し、特にアフガニスタンには4回に亘る経済制裁を与えた。アフリカに対しては、スーダンの外にはソマリアにも国際連合の力で内戦に介入したが失敗し、これによって、クリントン政権は地上軍の派遣を恐れるようになった。イラクに対しては湾岸戦争以来敵対しており、イラク武装解除問題に関しても、武器査察が滞る度に空爆を加えた。これらのアメリカによる中東への介入やグローバリゼーションに反感を抱くアルカーイダは、2001年にアメリカ同時多発テロ事件を惹き起こし、対テロ戦争と呼ばれるアメリカのアフガニスタン侵攻やイラク戦争となった。
特にイラク戦争に関しては開戦時第一の理由に挙げられた大量破壊兵器は一切見つからず、最終的に存在しないことが判明したため、アメリカ外交の信頼に大きな傷をつけた[29]。ジョージ・W・ブッシュ大統領も退任直前に、大量破壊兵器の情報収集は政権の最大の失敗の一つであったことを認めた。
核開発競争によって生産された高性能核弾頭を、現在もアメリカとロシアが数千発保有している。冷戦初期に核のアメリカ一極集中を恐れた一部の科学者は、核の抑止力で世界の均衡を保とうと、ソ連とイギリスとフランスに開発法を伝授し、ソ連から中華人民共和国にも継承されて、現在の核五大国が形成された。この外にも、中華人民共和国やソ連から流出した開発法によって(中ソ対立なども要因となっているが)インドやパキスタンの核保有(印パ戦争#両国の核保有)や、アメリカから供与された技術によってイスラエルの核保有に及んでいる。
2008年8月には南オセチア紛争が起こり、米露間に軍事的緊張が生じ、「冷戦の再来」「新冷戦」などと呼ばれる状況となっており、緊張状態が続いている。同年の世界金融危機で財政出動により、景気を回復させ影響力を高めた中華人民共和国も、米中冷戦と呼ばれる緊張状態にあるとされ、中露はNATOと対立する上海協力機構を組織している。ロシアは、ソ連が崩壊すると共和制国家として甦生し、ボリス・エリツィン政権下で経済の再建と資本主義化が推進された。しかし、これが裏目に出てロシアの経済は悪化し、特にアジア通貨危機後の1998年にはロシア財政危機が起きて一層悪化するなど、「冷戦の敗戦国」として欧米の経済援助に甘んじていた。しかし、2003年頃より原油価格高騰の恩恵により経済は好転し、それを背景にウラジーミル・プーチン政権は再び「強いロシア」の復権を謳い、EUやNATOへの旧ソ連加盟国の取り込みを進めていた欧米に対して、シリア内戦に介入するなど牽制の動きを見せるようになった。
1989年 - 1991年に起こった「ソ連型社会主義体制」の消滅により、多国籍企業は地球規模で市場と利益を奪い合うグローバリゼーションが進行した。冷戦時代末期のIMF不況と1990年代のグローバリゼーションに遭遇したラテンアメリカでは、2000年代になると反米・左派の政権が続々と生まれ、社会主義が復活する動きを見せていたが、その代表格であったベネズエラのチャベス大統領が病死したことで2012年頃から親米路線に回帰する国も増えている。また2015年には、オバマ政権において、アメリカとキューバの国交が回復した。
グレゴリー・ガウスが執筆した『新しい中東の冷戦』と題された宗派主義に関する文献では、イランとサウジアラビアは超大国として地域に影響を与える能力を持っているとされている。そして、「これは、純粋なる軍事的な争いというよりも、中東の国内政治の方向性をめぐる争いである」とガウスは論じ、この状況を「中東の冷戦」と表現している。
資本主義を基調とし、東側と対立した国々。アメリカを中心とし、基本的には民主的な国が多かったが、アジアや南米にはアメリカに支援された軍事政権や開発独裁の国もあった。しかし現在ではそうした国も民主化し、経済的に発展している。
南北アメリカ
アジア
ヨーロッパ
オセアニア
中東
アフリカ
社会主義を基調とし、西側と対立した国々。ソ連を中心とし、基本的に共産党や社会党による一党独裁体制が取られだが、中には独自路線をとる国もあった。冷戦後にはほとんどが崩壊、民主化、市場経済化し、現在残る社会主義国は少数になっている。
アジア
ヨーロッパ
中東
アフリカ
西側寄り
東側寄り
孤立化
冷戦は、それがグローバルな戦後国際政治に大きな影響を与えたことから起源、展開、終焉に対して様々な解釈が示され、論争を呼んできた。以下では、学術的な冷戦史研究の中で行われた論争について説明する[※ 2]。
冷戦史研究では様々な争点が存在したが、特に大きな争点を形成したのは、「冷戦はいつ、なぜ生じたのか」という冷戦の起源を巡る論争だった。この論争は、西側陣営最大の当事国である米国の学界を中心として活発になされることとなった。
冷戦起源論争は二つの特徴を有していたといえる。第一に、冷戦起源論争は第二次世界大戦などの起源を巡る学術論争と異なり、それが同時代的に継続している状況の起源を論じるものであったため、ベトナム戦争を典型として、研究が発表された当時の出来事や問題関心に強く影響されたものになった。第二に、その論争が米国学界を中心に展開されたことや、資料公開ペースのスピードなどから、特に米国に分析の重点を置いたものとなった点である。そして、一般に研究学派は伝統学派/正統学派、修正主義学派、ポスト修正主義学派に大別されている[※ 3]。
伝統学派/正統学派 (Traditionalist / Orthodox) は1950年代から60年代にかけて研究を発表した学派であり、この学派に分類される研究者の議論は冷戦の起源をソ連の拡張的・侵略的な行動に求めるという特徴を有していた[※ 4]。伝統学派はソ連がヤルタ会談で合意されたポーランド自由選挙を実施しなかったこと、東欧各国に対して共産党政権を樹立する動きを示したことなどの一連の行動が西側に警戒感を生み出し、マーシャル・プラン、NATO結成などの西側陣営強化はこれに対する防御的な行動としてなされたとする解釈を示した。
以上のような解釈はノーマン・グレーブナー (Norman A. Graebner) のCold War Diplomacy (1962)、ルイス・ハレー (Louis J. Halle) の『歴史としての冷戦』(1967)、ハーバート・ファイスのFrom Trust to Terror (1970) などに代表されるものであったが、これはトルーマン政権の国務長官を務め、冷戦政策を展開したディーン・アチソンの回顧録の記述とも重なるものだった。その意味で伝統学派は、戦後米国の外交政策を擁護するニュアンスも帯びていたと評されている[32]。
続いて1960年代より登場した修正主義学派 (Revisionist) は、伝統学派の解釈と真っ向から対立し、冷戦の発生はソ連の行動よりも米国側の行動により大きな原因があったとする解釈を提示した。修正主義学派の最大の特徴は、経済的要因を重視する点にあった。1958年に『アメリカ外交の悲劇』を発表し、後に自らの勤務したウィスコンシン大学マディソン校で「ウィスコンシン学派」といわれる後進たちを育成したことで知られるウィリアム・A・ウィリアムズは、同書で建国以来米国指導者層が海外に市場を求める必要があるという「門戸開放」イデオロギーを奉じていたことに最大の原因があったとする主張を展開した。ウィリアムズは、第二次世界大戦で大きな被害を受けたソ連が伝統学派の考えるような脅威ではなかったと指摘した。そして、冷戦は米国が門戸開放イデオロギーのもと東欧地域の市場開放を執拗に要求し、ソ連に対して非妥協的態度を貫いたこと、これにソ連が反発したことによってもたらされたものであったとして、米国により大きな責任があったとする解釈を示した。ウィリアムズのテーゼは、彼が育成した外交史家である ウォルター・ラフィーバーの America, Russia, and the Cold War (1967)、ロイド・ガードナーの Architects of Illusion (1970) などによってより精緻に検討されることとなる[33]。
また、修正主義学派の研究はウィリアムズの研究にとどまらず、よりラディカルな展開も示した。ガブリエル・コルコとジョイス・コルコ (Joyce Kolko) は、The Limits of Power (1972) において、米国の対外政策のすべては資本主義体制の防衛を目的としており、世界規模で革命運動を弾圧するものであったとするマルクス主義に親和的な解釈を主張することとなった[34]。これらの研究は、ベトナム戦争の泥沼化により、従来の米国外交のあり方に対する不信が強まっていた60年代の時代状況下で、強い支持を受けることになった。当然ながらこれらの主張は、伝統学派からの反発と論争を巻き起こすこととなる。伝統学派からは修正主義学派の分析の実証性の乏しさ、経済要因の過大評価、米国の行動のみを実質的に分析している分析の偏重などが批判されることとなった[35]。
伝統学派・修正主義学派に続くポスト修正主義学派 (Post-Revisionist) は、先行する学派の議論の抱える問題点を克服し、さらにこの頃徐々に公開が進んだ西側政府の公文書を活用することで、歴史研究としての実証性を増す形で議論を展開することとなった。その先駆的著作とされているのが、ジョン・ルイス・ギャディスの The United States and the Origins of the Cold War (1972) である。ギャディスは一次資料に依拠した上で、正統学派の重視する安全保障要因、修正主義学派の重視する経済要因を同時に取り入れつつ、さらに国際政治構造、国内政治要因、政策決定プロセス(官僚政治)の影響などを盛り込んだ分析を提示した[36]。
ギャディスは、各国の疲弊によって「力の真空」が生じていたヨーロッパにおいて、米ソ両国が対峙するという状況下が生まれたこと、対峙の緊張の中で米ソが様々な要因から相手の行動・思惑に対する誤解を重ねたことが(本来両者の想定しなかった)冷戦を生んだとする解釈を示し、米ソいずれかの行動に冷戦発生の責任を求める過去の議論を排する主張を展開した[37]。ギャディスによるこのような新しい解釈は、ブルース・クニホルム (Bruce Kuniholm) のThe Origins of the Cold War in the Near East (1980)、ウィリアム・トーブマンの Stalin's American Policy (1982) などにも継承され、彼らの研究は「ポスト修正主義学派」として広く受け入れられることとなった[38]。 また、米国で進んだポスト修正主義学派の研究に対して、ヨーロッパにおける研究も呼応する動きを示した。ノルウェーのゲア・ルンデスタッドは、大戦後のヨーロッパの政治指導者たちがソ連の影響力を相殺するべく、ヨーロッパで米国がより積極的な役割を果たすことを希望していたと論じ、戦後の米国はいわばヨーロッパに「招かれた帝国 (Empire by Invitation)」であったとする解釈を示した[39]。
冷戦の終結とソ連邦の崩壊により、過去西側で閲覧することが不可能だった東側文書の開示が進むこととなった。これは各種の研究・資料収集プロジェクトの始動をもたらすとともに、冷戦起源を巡る論争において伝統学派的な解釈の復活という、新しい展開を生むこととなった。開示された東側の資料群をもとに発表されたヴォイチェフ・マストニーの『冷戦とは何だったのか』(1996年)、ヴラディスラヴ・ズボクとコンスタンティン・プレシャコフ (Constantine Pleshakov) による Inside the Kremlin's Cold War (1996) は、ソ連中枢の情勢認識や政策決定を明らかにすることとなった。これらの著書は、ソ連がマルクス・レーニン主義のイデオロギーに基づき、自発的・主体的にヨーロッパへの拡張を図っていたとする解釈を示した[40]。その他、90年代には様々な資料を活用したドミトリー・ヴォルコゴーノフによるスターリンの伝記研究も発表され、スターリンのパラノイア的性質を指摘する書物として注目を浴びることとなった[41]。
このような研究進展の影響を受けた典型ともいえるのが、ポスト修正主義学派の旗手であったギャディスの冷戦起源解釈の変化である。ギャディスは東側についての研究の進展を受けて、1997年に発表した『歴史としての冷戦』では、冷戦の起源を米ソ双方のパーセンプション・ギャップや、国際政治構造に見出す過去の解釈から、イデオロギーが冷戦におよぼした影響を重視し、ソ連の政治体制とスターリンという指導者が冷戦の発生により多くの責任を負っているとする解釈へと転じた[42]。しかし、このギャディスの解釈変化の要因としては、ソ連の実態が明らかになったことだけでなく、東側陣営の崩壊と西側陣営の「勝利」が明らかになった時期に発表されたという要因も無視できないことから、その解釈が後知恵的であるとして賛否を呼ぶことともなった[43]。
冷戦史研究は、米国学界でその主要な論争が戦われてきたこともあり、主要な分析対象は米ソ関係であり、活用される資料の多くは米国政府の公文書であった。このような冷戦史研究の動きに対し、1978年にイギリスのドナルド・キャメロン・ワットは公開書簡で冷戦史研究の資料的偏重を指摘し、英国公文書などを活用して研究を深化させる必要を訴えた[44]。このような提言を反映する形で、イギリスではヴィクター・ロスウェル (Victor Rothwell) の Britain and the Cold War (1982)、アン・デイトン (Anne Deighton) の The Impposible Peace (1990) など、冷戦の発生に対してイギリスの果たした役割を分析する研究なども現れ、冷戦の発生にはソ連の脅威を米国より早く意識し行動したイギリス政府の果たした役割が少なくなかったことを明らかにした[45]。
イギリスを一つの典型として、他国についても「自国と冷戦(および冷戦に果たした役割)」について考察した研究も進められている。1998年よりノースカロライナ大学出版局 (University of North Carolina Press) が刊行している冷戦史研究のシリーズである The New Cold War History では、フランス、ソ連、中国、東西ドイツなど、様々な国家と冷戦の関係を考察した研究書が刊行されている[46]。おp
冷戦終結を受けて米国でも安全保障に関わる各種の資料公開が進んだことで、冷戦期の安全保障やインテリジェンスなどについて新たに研究が進展している。一例としては、米英による暗号解読プロジェクトであったベノナの関係資料開示による諜報戦の実体解明が挙げられる。ジョン・ハインズ (John E. Haynes) とハーヴェイ・クレア (Harvey Klehr) の Venona (2000) は、冷戦期に米国内で活発な諜報活動が展開されていたことを明らかにした。また、ケネス・オズグッド (Kenneth Osgood) は Total Cold War (2006) において、USIA・CIAなどの資料を活用し、アイゼンハワー政権の展開していた(日本も対象に含む)宣伝・情報戦の実態を解明することとなった[47]。
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