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1953年3月5日の第2代ソビエト連邦最高指導者の死 ウィキペディアから
ヨシフ・スターリンの死と国葬(ヨシフ・スターリンのしとこくそう)では第2代ソビエト連邦最高指導者ヨシフ・スターリンの1953年3月5日、脳卒中が原因となったクンツェヴォ・ダーチャにおける74歳での死と国葬、4日間の国民的服喪の経緯について述べる。その後、スターリンの遺体は防腐処理され、1961年までレーニン=スターリン廟に安置されていた。ニキータ・フルシチョフ、ゲオルギー・マレンコフ、ヴャチェスラフ・モロトフ、ラヴレンチー・ベリヤが葬儀を取り仕切った。
オホートヌイ・リャートを進むスターリンの葬列 | |
日付 | 1953年3月9日 |
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場所 | ソビエト連邦, モスクワ, 赤の広場 |
関係者 | ニキータ・フルシチョフ, ゲオルギー・マレンコフ, ヴャチェスラフ・モロトフ, ラヴレンチー・ベリヤおよびその他のソ連国内外の要人 |
スターリンの健康状態は、第二次世界大戦の終わり頃から悪化していった。慢性的な喫煙によるアテローム性動脈硬化により1945年5月の戦勝パレードの時期に軽い脳卒中が起こり、1945年10月には重度の心臓発作に見舞われていた[1]。
スターリンの人生の最期の3日間は、ソ連当局による最初の公式発表の媒体となった「プラウダ」で詳細に記述され、その後すぐに「ソビエト報道の最新要約」で完全な英訳版が発表された[2]。ヴォルコゴノフの記述によれば、1953年2月28日、スターリンと、マレンコフ、ブルガーニン、ベリヤ、フルシチョフら少数の側近が集まり、夜間の宴会を楽しんだ[3]。翌3月1日午前4時頃、客たちは解散し、スターリンは自室に戻った。「呼び出されるまで、邪魔をしてはならない」という厳しい指示が出された。その日は一日中呼び出しがなかった。午後11時頃、家政婦が注意深く彼の部屋に入ると、パジャマ姿のスターリンが床に横たわっていた。 意識はなく、息も荒く、失禁しており、呼びかけても反応がなかった。呼ばれたベリヤは、スターリンを見るなり、意識不明は酒が原因だと言って去っていった[要出典]。
3月2日午前7時、ベリヤと医学専門家たちが召集され、スターリンの診察を行った。診察の結果、血圧110-190、右半身麻痺が認められた事から、高血圧症の既往歴があったスターリンは、左中大脳動脈の出血性脳卒中を起こしたと診断された。 その後、スターリンは様々な治療を受け、120-210まで上昇した血圧を下げるため、2日間で8匹のヒルを2回に分けて首と顔に当てられた。しかし、病状は悪化の一途をたどり、3月5日午後9時50分に死亡した。
その後、遺体は詳細不明の場に運ばれて解剖を受け、その後、公開安置のために防腐処理が施された。解剖報告書の原本は最近まで発見されなかった[4][5]。 しかし、最も重要な所見は、1953年3月7日の「プラウダ」の特別速報で、次のように報告されている。
"イー・ヴェー・スターリンの遺体の病理学・解剖学的調査"病理学的検査により、左大脳半球の皮質下中心の領域に限った大きな出血が認められた。この出血によって脳の中枢領域が破壊され、呼吸と循環に不可逆的な変化をもたらした。 脳出血に加えて、心臓の左心室の著しい肥大、心筋、胃や腸の粘膜に多数の出血、血管のアテローム性動脈硬化が認められた。動脈硬化は特に脳動脈において顕著だった。これらは高血圧症の結果である。 病理検査の結果、イー・ヴェー・スターリンの病は、脳出血の瞬間から不可逆的な性質を持っている事が判明した。したがって、すべての治療の試みは、好ましい結果を導き出し、致命的な結末を防ぐ事ができなかった[6]。
モロトフに「私が彼をやっつけた[7]」と言った事でベリヤに疑惑の目が向けられたが、スターリンの治療を故意に遅らせたと思われるベリヤの陰謀を示唆する物はなく、検死の際に見られた身体的変化は、以上の通り脳卒中患者に一般的に見られる脳の変化と一致していた。ベリヤの息子であるセルゴ・ベリヤはスターリンの死後、母のニーナが夫に「あなたの立場は、スターリンが生きていた時よりもさらに不安定になっている」と伝えたと後に語っている[8]。数ヵ月後の1953年6月、ベリヤは逮捕されてさまざまな罪で起訴されたが、スターリンの死に関連した罪はなかった[9]。その後、彼はかつての政治局の同僚たちの命令で処刑されたが、それがいつ、どこで行われたかについては、相互に食い違う異説が存在する[10][11]。
3月6日、スターリンの遺体が入れられた棺は労働組合会館の円柱の間に安置され、3日間そこに留まっていた[12]。 3月9日、スターリンの遺体は赤の広場に運ばれ[13]、フルシチョフ、マレンコフ、モロトフ、ベリヤが演説を行い、その後、要人たちによってレーニン廟に運ばれたスターリンの遺体は、ウラジーミル・レーニンの遺体の横で1961年まで安置された[14][15]。 モスクワ時間の正午にスターリンの遺体が安置され、クレムリンのスパスカヤ塔の鐘が時を告げると同時に、クレムリンからは21発の弔砲が発射され、ソ連全土でサイレンとクラクションが鳴り響き、黙祷が捧げられた。他の東欧諸国、中国、モンゴル、北朝鮮でも同様の行事が行われた。黙祷が終わるとすぐに軍楽隊がソ連国歌を演奏し、その後、スターリンを称えてモスクワ軍管区の部隊による分列行進が行われた。 スターリンの棺に告別するため集まった市民たちが将棋倒しになり、押しつぶされたり、踏みつけられたりして圧死する者が相次いだ[16]。後にフルシチョフはこの事故で109人の群衆が死亡したという数字を出しているが、実際の死亡者数は数千人に上る可能性もある[17][18][19]。
アガニョークによれば、国葬の参列者には以下の外国要人が含まれていた[20]。
チェコスロバキアの指導者ゴットワルトは、スターリンの葬儀に参列した直後の1953年3月14日に、動脈が破裂して死亡した[22]。
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