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ウィーン会談(ウィーンかいだん)は、厳しい冷戦のさなかであった1961年6月3日から6月4日にかけて、オーストリアのウィーンで行われた、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディと、ソビエト連邦首相(共産党第一書記)ニキータ・フルシチョフの米ソ頂上会談である。両者の名をとって、ケネディ=フルシチョフ会談とも呼ばれる。
アメリカ合衆国大統領に就任してまだ5カ月で、しかも4月にキューバに対してピッグス湾事件を起こし逆風の中にいたケネディと、スターリン時代を生き抜き、彼の死後に実権を握り、しかも前任のスターリンを批判して中国と対立してもなお共産主義国の超大国として、核実験を行い、アメリカに先んじて人類初の有人飛行で地球一周に成功してまだ2カ月にもならない得意絶頂のフルシチョフとの会談は、時期としては米ソ関係が冷却化していた時期であったが、しかし双方に会談を行わなければならない事情があった。
ケネディにはピッグス湾事件の失敗の後で、ラオスは不安定であり、ベトナム情勢は混沌としており、しかもドイツのベルリンでは緊張が高まっている中で、少なくとも今後の両大国間にある諸問題についてフルシチョフとの個人的接触で今後の展望と打開の道を探る必要があった。一方フルシチョフは、アイゼンハワー前政権から懸案であった核実験禁止と軍縮、そして差し迫った問題として東ドイツのウルブリヒト第一書記から要望された西ベルリン問題の解決について実質的な討議に入るためであり、とりあえずまだ若いケネディの実力を探る必要があった。
この年1月20日にケネディが大統領に就任して、2月には前年のパリ頂上会談がU2型機の撃墜事件で流れて以来のソ連からのアプローチを受けて、フルシチョフとの頂上会談に前向きな姿勢であった。1961年2月11日にホワイトハウスで、新政権になってから初めてソ連問題についての会議が開かれた。出席者はジョンソン副大統領、ラスク国務長官、マクジョージ・バンディ特別補佐官の他に、トンプソン駐ソ大使、そしてチャールズ・ボーレン国務省顧問、ジョージ・ケナン駐ユーゴスラビア大使、アヴェレル・ハリマン無任所大使の3名の駐ソ大使経験者が揃った。この会議の大半のメンバーはすぐにソ連首相と会談を開くことを予想していなかったし、またトンプソンを除いては反対の意見であった[1]。
ただケネディにとって、このようなトップ会談で成果を期待されるものであることよりも、個人的に打ち解けた話し合いの場としての首脳会談を描き、重大な交渉を行う場としての会談ではないことを確認した。この個人的に打ち解けた会談と重大な交渉をする場としての頂上会談を区別して、大統領としてはフルシチョフがどの程度の人物かを見極め、核実験禁止などの諸課題についての見解を聞き、後に外電で伝えられるフルシチョフの言動を判断する材料を得ておき、これから起こると予想される事態でアメリカの死活的利益を明確に伝えることには有益であろう、という点では全員の意見は一致した[2]。
ケネディは、じかに会ってソ連首相の印象を得て、その結果を以降の判断に役立てたいとした。ケネディの自分の人生で経験した3つの戦争が誤算から生じていることを懸念して、核時代においてこの誤算の脅威を防ぎ、やがては冷戦下でも相互理解を実現するためにコミュニケーションの通路を常に開けておくことが重要であり、自分が決定を下すただ一人の人間として確実で豊富な情報に基づいたものでなければならないと述べて、フルシチョフから直接得られる詳細な個人的知識の類が必要であり、同時にアメリカの考えを正確に、ありのままに、先方に討論し理解する余裕を与えつつ、伝えたいと語った。10日後に再び同じメンバーが集まり会議を開いたが、この時にフルシチョフへ会談を申し入れることを全員が同意した[3]。
一方フルシチョフは、ケネディが大統領選挙に当選した時から、様々なアプローチを試みていた。前年の東西首脳会談(1960年5月)をご破算にした偵察機U2型機のパイロットを釈放したのも大統領選挙後であった。彼が抱えていた問題でこの時に大きな懸案になっていたのが西ベルリン問題であった。3年前の1958年に行った西ベルリンの非軍事化・中立化の提案は完全に無視されて、この頃に東ドイツのウルブリヒト第一書記から西ベルリンの占領状態(米・英・仏)の終了、西側軍隊の撤退、西側ラジオ局とスパイ機関の撤去、西独から西ベルリンへの全ての航空アクセスの管理権の移譲など[4]の要求が届き、どちらにしても早急にアメリカと具体的な協議に入るとウルブリヒトに回答をしていた。この1961年頃には東西に分かれた戦後の混乱が終わり、東ドイツの重大な問題は東から西への人口流出が止まらず、10年間で200万人が西ドイツへ流出して[注 1]、国家の危機とさえ言われ始めた。西ベルリンはまさに自由の砦として東側の中で孤立した島であったが、この時期にはまだ東西ベルリンの間は自由に行き来が出来て、東側から西側に行く窓口であった。ウルブリヒト政権にとっては西ベルリンをどうしても東側の地域に入れて、西側の軍を追放し、空港を管理下において西へ飛び立つ飛行機を止めねばならなかった。
フルシチョフはこの年の秋にソ連共産党大会を予定しており、それまでには西ベルリン問題に一定の解決を望み、その相手が就任したばかりのケネディなら組みやすいとの判断をしていた。
しかし就任後の最初の議会での一般教書でケネディの強気の発言を聞いて、期待をそがれる形になって、3月に入った頃には頂上会談への期待は尻すぼみになっていた。2月末にトンプソン駐ソ大使がケネディの書簡を持ってきた頃には10日間も会おうとはせず、ようやく3月9日にシベリアのノヴォシビリスクに建設中の研究学園都市を視察していたフルシチョフのもとへ届けることができた。その時にはフルシチョフの熱意は薄れていた。後に分かったことは、この時期から中国とアルバニアとがソ連から離反し、中ソ対立が先鋭化しつつあった。そしてアフリカのコンゴ民主共和国では左派のルムンバ首相が暗殺されてフルシチョフは怒っていた。しかもソ連国内の視察旅行で、彼は自国の経済が全てにおいて不足していることに否応なく直面していたからである。しかもベルリンでは東ドイツからの難民の流出が毎月記録を更新していた[5]。
ところが4月に入って、人類初のガガーリン少佐の有人飛行で地球一周をソ連が実現し、そしてアメリカがキューバに侵攻して大失敗をしたことで、米ソ関係で自分の立場が優位になったと感じていた[6]。このピッグス湾事件でキューバに侵攻したために米ソ関係は、いったん対話ができない状態であったが、5月4日にグロムイコ外相からトンプソン駐ソ大使に電話で「今回のことからも適切な結論を引き出すべきです。…困難な諸問題を適切に解決し両国関係を改善する道を見つけるほかはないのです」とのフルシチョフのコメントを伝えて、首脳会談の打診をしてきた[7]。
この打診を受けて、5月9日にケネディからウイーンでの首脳会談開催を提案する旨の回答があり、1961年6月3日から4日にウイーンで会談を行うことが決定した。
この時に双方の会談に臨む姿勢にはかなりの隔たりがあり、特に会談の内容については米ソ間には大きな違いがあった。キューバとラオスで行き詰まり、事態が期待通りに進んでいない状態であったアメリカは、当時進行していたラオス紛争で翌週にジュネーヴ会議を控えて内戦の終結と中立化をめざしてソ連側の協力を求めた。また核実験禁止について会談での好意的反応を期待していたが、直後に出す公的声明ではベルリン問題には一切言及しないようソ連側に伝えた[8]。
一方ソ連は、東西ドイツの問題について、まず西側に東ドイツとの平和条約の締結を求め、それが実現できない場合もソ連が単独で東ドイツと平和条約を結び、西ベルリンへの全てのアクセスルートの管理権を東ドイツに移譲する案を持っていた。5月27日の共産党幹部会でフルシチョフから説明があり「我々は西ベルリンへ侵入しない。封鎖を宣言しない。だから軍事行動のための口実を与えることはない。」「我々は軍隊の撤収を要求しない。排除することもしない。しかしそれらは違法であることと考える。」「だから戦争状態と占領体制が終結するからといって戦争を引き起こすことではない。」と語った。しかしミコヤン第一副首相だけが異論を出して「彼らが核兵器なしで軍事行動に出るかもしれない。」と述べるとフルシチョフは「ケネディはひどく戦争を恐れているから、軍事的に反応してくることはない。…ベルリンに関しては我が方の軍事的優位に疑問の余地はない。」と答え、するとミコヤンは「ケネディを軍事的対応するしかない危険な立場に追い込んでいる。ベルリンの空路はこれまで通りにしてケネディに受け入れやすいものにしたら…。」と尋ねるとフルシチョフは「東ドイツは崩壊寸前なのだ。確固たる行動を取らなければ東側諸国に疑念を生じさせてしまう。…西側の飛行機が西ベルリンに着陸しようとすれば撃墜するつもりだ。」と反駁した[9]。フルシチョフにとっては何としても西ベルリン問題で一定の前進を期待していた。
ケネディにとってはあくまで重要な交渉の場ではなく、首脳同士の個人的接触を深めフルシチョフの真意を見極める場であった。そしてアメリカの立場は一歩も引かず、事態が悪化すれば実力行使を考えざるを得ないことも警告する場でもあった。
ウィーン会談の前に、ケネディは各国首脳との協議を進めていた。4月にマクミラン英国首相、そしてアデナウアー西ドイツ首相がホワイトハウスを訪れてケネディと会談している。そして直前の5月31日にパリを訪問してドゴール仏大統領と会談した。ドゴールはベルリン問題は心理的なものだとして神経戦と見なしていた。彼(フルシチョフ)がベルリンに関して戦争をする気ならとうに始めていたはずです、と語った。かつてドゴールとフルシチョフが会談した際に「あなたはデタントを求めているふりをしているだけだ。本気ならばもっと主張し実行すべきで平和を欲するなら全面軍縮交渉を開始すべきだ。戦争を求めていないなら戦争に結びつきかねないようなことはすべきでない。」とドゴールはフルシチョフに告げていた。そのことをケネディに伝えて、「大事なのはフルシチョフにアメリカの明白な決意を伝えること。この状況を変化させる意志がないことを示すことです。」「ベルリンに関していかなる譲歩、いかなる変化、いかなる撤退、いかなる運輸や通信の障碍の発生も敗北を意味する。」「その結果は西ドイツ、フランス、イタリア他の各国の内部に深刻なもろもろの喪失をもたらすでしょう。」「もし戦争を欲するならそれに応じることを彼に明確に伝えるべきです。」ケネディが引き下がらなければフルシチョフが軍事的対決を仕掛けてくることはないはず、との意味であった。最後に「ベルリン周辺で戦闘が起これば、それは全面戦争を意味することをフルシチョフに認識させなければならない」と語った[10]。
この会談の取材で、世界各国から少なくとも1500人の記者がウィーンを訪れていた。市民は歓迎ムードに溢れ、ヘルベルト・フォン・カラヤンはウィーン国立歌劇場でワーグナーを指揮していた。1日目の会談は両国関係全般と軍縮問題にしぼり、注目のベルリン問題は2日目に行うことが決まった[11]。
午後0時45分にアメリカ大使公邸にフルシチョフの車が入り、ケネディが出迎えた。そしてフルシチョフはグロムイコ外相を伴って中に入っていった。2人は肩の凝らない雑談から入ることとした。2年前の1959年にフルシチョフが訪米した折りに上院外交委員会との会合で、当時議員であったケネディとの最初の出会いを思い出していた。ケネディはその時フルシチョフから「あまりに若く見えるのでとても上院議員とは思えない…」と言われたことを伝えると、フルシチョフは「普通はそのようなことは言わないです…」と答えて「若い人は年よりも老けて見られたがり、年寄は若く見られたがるものです…自分もそうだったが22歳の時に若白髪になり問題ではなくなった…」と言って笑っていた。初日の議論は米ソ両国関係全般と軍縮問題に集中した[12]。
米ソ関係[13]
午後2時に遅い昼食となり、このランチの席でケネディは米ソ共同の月探検をしませんか、と提案しフルシチョフはいったん断ったもののすぐ考え直し「いいじゃないですか」と答えた。これがこの日の最初の進展であった。この後にケネディが葉巻に火を付けてマッチをフルシチョフの後ろにおくと、フルシチョフは脅えたふりをして「私に火をつけるのですか」と言い、ケネディは「そんなことしませんよ」と答えると、「そうか。資本主義者であって放火者ではないんですね」とフルシチョフは微笑みながら返した[14]。
キューバ問題[15]
その他の国について[16]
この他にラオス問題についてはフルシチョフが譲歩する形で、ラオスの独立、中立化を受け入れた。合意の細部はこれから詰めることになったがフルシチョフにしては珍しいことであった。彼は翌日のベルリン問題を見据えていた。
軍縮と核実験禁止[17]
第1日目の最後に核実験禁止問題を討議した。しかしフルシチョフはこの問題には関心がなかった。このテーマになった時に核査察をどうするかの議論になったが平行線となり、すぐにフルシチョフは「それならば全面軍縮をやろうではありませんか」「全般的軍縮の文脈においてのみ核実験禁止を討論することを同意します」と述べて、ケネディはそれには反対で結局合意には至らなかった。
この日の夜、シェーンブルン宮殿でオーストリア政府主催の晩餐会が開催された。ウィーン・フィルのモーツアルト演奏、ウィーン国立歌劇場舞踊団の「美しき青きドナウ」のバレエ演技などがあり、フルシチョフは終始ご満悦であった。カメラマンがフルシチョフにケネディとの握手するシーンを注文されると、「私はまずジャクリーン夫人と握手したいよ」と言って笑っていた[18]。
午前10時15分、ソ連大使館にケネディの車が入り、フルシチョフが迎えた。この2日目の朝に、ケネディ夫妻は聖シュテファン大聖堂でフランツ・ケーニッヒ枢機卿からミサを受けた。フルシチョフは市内のシュヴァルツェンベルク広場でソ連軍の戦勝記念像に花輪を捧げた[19]。
ラオスの中立化について[20]
会議の最初に前日のラオス問題の合意について触れた。このラオスの中立化についてはフルシチョフにとって中国や北ベトナムそしてパテト・ラオ(ラオス左派)の反対を押し切ってのものであり、高い政治的コストを伴うものであった。
ベルリン問題[21]
前日中途半端に終わった核実験禁止について、ここでケネディは会議の流れをこのテーマに向けようとした。しかしフルシチョフは拒んだ。彼はあくまでベルリン問題の討議に入るつもりであった。
ここでベルリン問題の討議に入った。ここからフルシチョフは好戦的であり、ケネディは譲らなかった[2]。
ここでフルシチョフは、西ベルリンを統治しているアメリカ・イギリス・フランスに西ドイツを加えた西側4ヶ国とソ連は、東ドイツと平和条約を結んで、第二次世界大戦の戦後処理を終えるべきだと主張したのである。
ここでケネディは儀礼的に「このような率直に意見を表明されたことを感謝します」と述べたが、ラオスのような小さな問題ではなく、ベルリンという遥かに重大な問題について語っていると前置きして、
ここで平和条約を結んだ後の西ベルリンの状態について会議室の全員に緊張が走った。ソ連と東ドイツで平和条約が為されれば、ドイツ降伏の際に連合国間で取り決めたベルリン占領権や通行権は失効する、つまり、各国の軍隊はベルリンから撤退せねばならないと説いた。これに対して、ケネディは、ベルリンを見捨てればアメリカは信用を失うと主張した。
この言葉にアメリカ外交団は驚愕したと言われる。外交交渉の場で「戦争」という言葉をフルシチョフは3回使っており、前代未聞のことであった[22]。
この後でフルシチョフはアメリカが戦後ソ連に対する「不当行為」だとするものの事案を並べた。西ドイツへの戦争賠償請求権、西ドイツにおけるソ連の諸権利の侵害、そして今回の東ドイツとの平和条約の拒否を上げ、そしてここで日本との講和条約に事前の相談が無かったことを上げている。
フルシチョフは、ソ連は今年中に単独でも東ドイツと平和条約を締結すると告げ、或いは条約に至らなくても東ドイツと暫定的協定を結び、そして戦争状態が終結すれば、東ドイツ領土(東側の主張ではだが)である西ベルリンに西側の軍隊が駐留するのは侵略行為になると続けた。さらに、侵略を阻止するためには戦争も辞さないと。しかもこの場であらかじめ用意した文書をアメリカ側に手渡した。それはソ連側の主張を並べたもので、後に『最後通牒』とも呼ばれた。
ここで昼食となり、この席でフルシチョフはケネディに「この文書はアメリカやその同盟国に敵対するためのものではない。ソ連がやろうとしているのは外科手術のようなもので、必要なものです。我々はその橋を渡ると言ったら渡るのです。」と言った。午後に予定には無かった二人だけの会談がケネディの申し入れで行われた。
ケネディは、フルシチョフの要求を完全に突き返し、どんな危険を冒しても西ベルリンを守りきると告げた。
米ソ首脳会談後に発表されたコミュニケでは米ソ間で決まったのは中立ラオスの建設について意見が一致したことだけであった。その他の問題については単に会談が有益であったと述べたに過ぎなかった。ケネディは6月6日に全米向けテレビ・ラジオを通じて首脳会談の模様を国民に報告した。この放送は大統領就任以来初めてホワイトハウスの大統領執務室からで、この中でケネディは「フルシチョフ首相との会談は真面目に行われ、有益であったが、お互いが譲歩もしなければ、また相手側を利することもなかった。」と述べた。実際にはこのウィーン会談は1961年後半の国際的危機の出発点となった[23]。
この会談の席でフルシチョフが1958年の提案が棚上げになったことで、再びベルリン問題を蒸し返し、ケネディは西側があらゆる手段で権利を守る決意を表明した。この結果米ソがお互いにそれぞれに力を誇示しにらみ合いに入った。フルシチョフの要求をケネディが拒否したことで、東ドイツは同年8月12日深夜、突然東西ベルリン間にある通行出入り口のドイツ人の通行を認めず、バリケードを張り、防塞を築き、東西間の交通を制限した。これがやがてベルリンの壁となるものだが、しかしケネディは地上からのアクセス権の維持を目指して、ジョンソン副大統領(1963年11月に大統領に昇格)を飛行機で西ベルリンに派遣し、軍用トラックで米軍部隊1500名を東ドイツ高速道路を走らせて西ベルリンへ急派した。結局これで東ドイツは西への流出をひとまず抑え込むことに成功したが、西ベルリンへのアクセス権は変更できずに終わった。東西ベルリンについて市民の往来(この時点では軍人・軍属は往来が出来た)は出来なくなったが、西ベルリンの地位は何ら変更されることはなかった。
そして10月に入ってから、東ドイツのウルブリヒト第一書記に事前に知らさないままに、ソ連共産党大会でフルシチョフは東ドイツとの平和条約の締結を断念したことを明らかにした。激怒したウルブリヒトは東西ベルリン間でこの時はまだ通行を認めていた米英仏の軍人について、東西を結ぶ外国人専用の検問所チェックポイント・チャーリーでのパスポートの提示を要求して、アメリカ軍将校夫妻がこれを拒否したことから、米ソで戦車が境界線を境に睨み合う事件が起こった[注 7]。この事態は外交問題に発展し米ソの戦車が18時間にわたって睨み合いを続け、もし戦闘が始まれば米ソの直接対決により第三次世界大戦の発端になりかねない事件が発生した。水面下でフルシチョフとケネディは連絡を取り、戦車を撤退させることに合意して危機は回避された[24]。11月7日にソ連は全ての部隊を撤退させた。
このウィーン会談に始まる、ベルリンをめぐる東西間の緊張を、ベルリン危機と呼ぶ。
後にフルシチョフはベルリンの壁について、ウルブリヒトの強い要望で自分が決めたとして、ウィーンでのケネディとの不満足な交渉の結果として、このベルリン問題の解決策として考え出したものだ、としている。しかし壁の建設にフルシチョフは苦悩していた。これが社会主義の世界的評判にとって打撃であることを彼は十分認識していた。しかし東から西へ大量の人口流出に対策を早急に打たなければ東ドイツ経済が完全に崩壊するのは目に見えていたとして、それに対する方策は空路の遮断か壁の建設の二つで、空路の遮断はアメリカとの深刻な紛争を引き起こし戦争になるかも知れず、そんなリスクを冒すことは出来なかった、と述べている[25]。
一方ケネディはウィーン会談後は傷心のままウィーンを去った、と多くの人は見ていた。会談終了後、ケネディは周囲の人間に、頑なに姿勢を変えなかったフルシチョフを罵ったとされる。この次の日にロンドンに飛んだケネディを迎えたマクミラン英国首相は後に「ケネディは生まれて初めて自分の魅力に影響されない男に出会ったのだ」と語っていた[26]。そしてジャーナリストのジョゼフ・オルソップはピッグス湾事件よりもこのウイーンでの首脳会談の方がケネディにより深刻な影響を与えた、しかし彼が真にアメリカの最高司令官そして真の完全な大統領になったのはこのウイーンであったと述べている[27]。ワシントンに戻った後の8月初め頃に補佐官のウオルト・ロストウにこう語っていた。
「フルシチョフは東ドイツを失いかけている。彼としてはこれだけは起きてほしくないことだ。東ドイツを失えばポーランドも東欧も全体を失ってしまう。だから難民流出を止めるために手を打たなければならない。多分ベルリンに壁を築くのではないか。我々はそれを阻止できない。西ベルリンを守ることは出来る。しかし東ベルリンを塞がせないために行動することは出来ない」[28]
東ドイツがベルリンに壁を構築したのはこの言葉を発してからわずか1週間後であった。
セオドア・ソレンセン大統領顧問は後に書いた「ケネディの道」で、フルシチョフに言わせるとアイゼンハワーの方がもっと物分かりが良く付き合いやすかったそうである。そして両人に勝ち負けは無く、お互い相手の弱みはないか探り何も弱みを見つけられなかった、フルシチョフにはケネディの理性と魅力に振り回されることはなく、ケネディはフルシチョフの乱暴な話しぶりに狼狽えることは無く、双方とも進展を期待していたわけでは無かった。だが二人はお互いに深い永続的な印象を与えた。お互いに自国の利益について譲らなかった。お互いに相手の性質とその論拠を見て、相手の立場の強固さ、合意に達することの困難さを認識し、お互いに相手が強敵であることを再確認した、と述べている。
なお、ケネディがフルシチョフの覚書を読んだとき、「フルシチョフが本気でアメリカと対決する気があるなら、核戦争の起きる可能性は5分の1くらいはある」と言ったとアーサー・シュレジンジャーは残している。また、第二次世界大戦においてソ連が2000万人の犠牲者を出したことを引き合いに出し、今のアメリカにはその2倍のロシア人の命が1時間で失われる軍事力があると警告した。
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