東大寺
奈良市にある仏教寺院 ウィキペディアから
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東大寺(とうだいじ、英: Todaiji Temple[1])は、奈良県奈良市雑司町にある、華厳宗大本山である日本の仏教寺院。山号はなし。本尊は奈良大仏として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)。開山(初代別当)は良弁である[注 1]。
東大寺 | |
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大仏殿(金堂) | |
所在地 | 奈良県奈良市雑司町406-1 |
位置 | 北緯34度41分20.3秒 東経135度50分23.4秒 |
山号 | なし |
宗派 | 華厳宗 |
寺格 | 大本山 |
本尊 | 盧舎那仏(奈良大仏、国宝) |
創建年 | 8世紀前半 |
開山 | 良弁 |
開基 | 聖武天皇 |
別称 | 金光明四天王護国之寺 |
札所等 |
法然上人二十五霊跡第11番(指図堂) 大和北部八十八ヶ所霊場第12番(真言院) 南都七大寺第1番 神仏霊場巡拝の道第14番(奈良第1番) |
文化財 |
金堂(大仏殿)、南大門、盧舎那仏ほか(国宝) 中門、念仏堂、大湯屋、石造獅子ほか(重要文化財) |
公式サイト | 華厳宗大本山 東大寺公式ホームページ |
法人番号 | 8150005000295 |
正式には金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら[注 2])ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。現在の別当(第224世)は橋村公英[2]。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、度々修復を受けており、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代中期の宝永6年(1709年)に規模を縮小して再建されたものである。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。
聖武天皇による東大寺大仏造立後に、国内では鎌倉大仏(現存)、雲居寺大仏(現存せず)、東福寺大仏(現存せず)、方広寺の京の大仏(現存せず)などの大仏も造立され、先発した東大寺大仏・大仏殿の造形、建築意匠・構造は、それらの大仏・大仏殿に対し多かれ少なかれ影響を与えた。ただし江戸時代の東大寺大仏殿再建の際には、上記とは逆に、同時代に京都に存在していた方広寺大仏殿を手本として、東大寺大仏殿の設計がなされた[3](後述)。
江戸時代には上記のうち、東大寺大仏(像高約14.7m)、鎌倉大仏(像高約11.39m)、京の大仏(像高約19m)の三尊が、日本三大仏と称されていた[4]。
8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていたことが分かっている。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子・基王の菩提を弔うため、若草山の麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られる、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)には国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国(現在の奈良県)の国分寺兼総国分寺と定められ[注 3]、寺名は金光明寺と改められた。
大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。
聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(743年)10月15日である。当時、都は山背国の恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。また、天平勝宝元年(749年)には鎮守社として手向山八幡宮が創建されている。
難工事の末、ようやく大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身のバラモン僧正菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは天平宝字2年(758年)であった。
大仏造立・大仏殿建立のような大規模な建設工事は、国費を浪費させ日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇にその自身の思惑とは程遠い現実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。
天平勝宝8歳(756年)5月2日、聖武太上天皇が崩御する。その年の7月に起こったのが、橘奈良麻呂の乱である。7月4日に逮捕された橘奈良麻呂は、藤原永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。ここで永手は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父(橘諸兄)の時代である。その口でとやかく言われる筋合いは無いし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ」と反論したため、奈良麻呂は返答に詰まったという。
奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧坊(僧の居所)、僧坊の東には食堂(じきどう)があり、南大門と中門の間の左右には東西2基の七重塔(高さ約70メートル以上と推定される)が回廊に囲まれて建っていた。天平17年(745年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。
奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後のことである。そのため、寺院では複数の宗派を兼学することが普通であった。東大寺の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗る[注 4]が、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。
平安時代に入ると、桓武天皇の南都仏教抑圧策により「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受けたが、唐から帰国した空海が別当となり寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。朝夕の看経には、理趣経が今も読まれている。華厳経的世界の象徴である毘盧遮那仏(大仏)の前で理趣経が読まれるのは、空海が残した痕跡といってよい。
また、講堂と三面僧坊が失火で、西塔が落雷で焼失したり、暴風雨で南大門、鐘楼が倒壊したりといった事件が起こるが、後に皇族・貴族の崇敬を受けて黒田荘に代表される多数の荘園を寄進されたり、自ら開発を行ったりし、伽藍の復興に力を入れた。やがて南都の有力権門として内外に知られるようになると、多数の僧兵を抱え、興福寺などと共に度々朝廷に強訴を行っている。
東大寺は近隣の興福寺と共に治承4年12月28日(1181年1月15日)の平重衡による南都焼討の兵火で壊滅的な打撃を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失った。この後、東大寺は本格的に復興が行われることとなり、後白河法皇は当時61歳の僧・俊乗房重源(ちょうげん)を大勧進職に任命し、大仏や諸堂の再興に当たらせた。重源の精力的な活動及び平家に代わり政権を握った源頼朝の援助により再建は着々と進み、文治元年(1185年)には後白河法皇らの列席の下、大仏開眼法要が、次いで建久元年(1190年)には上棟式が行われた。建久6年(1195年)には再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席の下、落慶法要が営まれた。
その後、戦国時代の永禄10年(1567年)10月10日、三好三人衆と松永久秀による東大寺大仏殿の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した。天正元年(1573年)9月、織田信長は東大寺を戦乱に巻き込むことと乱暴狼藉を働く者に対しての厳罰を通達する書状を出している[10]。
信長亡き後に天下人になった豊臣秀吉は、天正14年(1586年)に、焼損した東大寺大仏に代わる新たな大仏の造立を発願し[11]、京都に方広寺大仏(京の大仏)が造立されたが、秀吉は東大寺大仏再建への着手は行わなかった。南都を焼き討ちした平氏政権を倒した源頼朝が、早急に東大寺大仏再建への援助を行ったこととは対照的である。方広寺大仏は東大寺大仏に代わる大仏として発願されたため、豊臣秀頼の代には、寺号を「東大寺」とする(方広寺を東大寺の継承寺院とする)ことも企図され、朝廷との協議がなされた[12]。この件は、大坂の陣に敗れた豊臣氏の滅亡で立ち消えとなった。
東大寺は破損した大仏に応急処置として、溶けた大仏の頭部に新たに銅板で仮の頭を作成して付け、仮の大仏殿もなんとか建てていたが、慶長15年(1610年)に暴風で仮大仏殿は倒壊した。以降、大仏は露座のまま放置されることになった。
豊臣氏が滅亡し、江戸幕府の全国支配が確立してからも、幕府による東大寺大仏再建の企図は直ぐにはなされなかった。一方で方広寺の大仏(京の大仏)・大仏殿の修繕工事には積極的に江戸幕府が関与している。これは朝鮮通信使の旅程に方広寺が組み込まれており、日本側の体面保持・国威発揚の意図があったものとされる[13](1719年の第9回朝鮮通信使が、方広寺は秀吉の造立した寺であること、また秀吉の朝鮮出兵における朝鮮の戦死者の耳鼻を埋葬した耳塚が門前にあることを理由に、方広寺訪問を拒絶しトラブルに発展したことを契機として、方広寺は朝鮮通信使の旅程から外された)。
寛文2年(1662年)の寛文近江・若狭地震で方広寺大仏が損壊した際も(地震発生前から、経年劣化などで既に大仏は損壊していたとする説もある[14][15])、銅像から木像に改められてしまったが、江戸幕府の主導で早急に再建がなされた[13]。
平家の南都焼討による東大寺大仏・大仏殿の焼失の際は早急に再建がなされたが、永禄10年(1567年)の東大寺大仏・大仏殿の焼失後はその再建が遅々として進まなかった。その原因について、江戸時代には方広寺に往時の東大寺大仏・大仏殿に匹敵する規模のそれが既に造立されており、僧や民衆の間で東大寺大仏・大仏殿を復興させようとする機運(世論)が高まりにくかったという点がある。しかし1600年代後半に、東大寺の僧公慶が立ち上がり、東大寺大仏の修理と大仏殿の復興を行おうと勧進を始めると、多くの人々からの喜捨を受けて、まず大仏の修理から行われることになった。修理は元禄4年(1691年)に完成し、翌年には大仏開眼供養が行われた。公慶は続いて大仏殿の再建に着手しようと江戸幕府第5代将軍徳川綱吉やその母の桂昌院に謁見し、多額の寄進を受けた。こうしたこともあって大仏殿は宝永6年(1709年)に遂に完成した。
現存する3代目の東大寺大仏殿は、高さと奥行きは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の11間からおよそ3分の2の7間に縮小されている。3代目東大寺大仏殿は従前の大仏殿とは外観が大きく異なる点が多い(堂外から大仏の御顔を拝顔できるようにする観相窓の採用、観相窓上部の唐破風の設置など)。同時代に存在していた方広寺2代目大仏殿の設計図は今日現存しているが、それと現存する3代目東大寺大仏殿を見比べると、間口(建物の横幅)が減じられていること以外はほぼ建物の外観が瓜二つであることが分かる。これは東大寺2代目大仏殿の焼失から百数十年が経過し、それの技法に倣うことは難しいが、同時代には方広寺2代目大仏殿が京都に存在しており、公慶など東大寺大仏殿再建に当たった者達が、それの意匠・技法を参考にしたためではないかと考えられている[16]。またその根拠として以下もある。東大寺大仏殿内部に設けられている売店の上方の壁に、江戸時代の東大寺大仏殿再建にあたり作成された設計図面である、巨大な『東大寺大仏殿建地割板図』が飾られている。上記は経年劣化のため図面が読めなくなっていたが、赤外線撮影による調査を行った所、大仏殿の計画が間口11間から7間に縮小する以前の、当初設計図面であることが判明した。上記図面は現存の東大寺大仏殿の意匠・構造よりも、より方広寺大仏殿のそれに近似しており、建築史学者の黒田龍二は「(東大寺大仏殿建地割板図は)方広寺大仏殿を参考に東大寺大仏殿再建のための雛形として描かれたと考えるのが妥当である」としている[3]。また現在の方広寺本尊の盧舎那仏座像は往時の大仏の1/10の大きさの模像とされるが、それの光背の意匠は、現存の東大寺大仏の光背の意匠と極めて近似しているので、大仏の光背の意匠についても、方広寺大仏のそれに倣ったものではないかとする説もある。
2代目東大寺大仏殿の焼失後に「2代目東大寺大仏殿焼失→初代方広寺大仏殿造立・焼失→2代目方広寺大仏殿造立→3代目東大寺大仏殿造立」と年数がさほど空くことなく、大仏殿が日本に存在し続けていたことは、大仏殿造立の技法が継承される上で好事となった。また単に技法が継承されるだけでなく、新たな技法の確立や建築意匠の改良もなされ、3代目東大寺大仏殿の柱材について、寄木材(鉄輪で固定した集成材)となっているが、この技法は2代目方広寺大仏殿で確立されたものとされ[17]、東大寺大仏殿にも取り入れられたとされる。豊臣秀吉による方広寺初代大仏殿造営時に、日本各地の柱材に適した巨木を多く伐採してしまったため、森林資源が枯渇したようであり、苦肉の策と言える[17]。
なお今回の復興でも講堂、食堂、東西の七重塔などは再建されることはなかった。今は各建物跡に礎石や土壇が残されているのみである[注 5]。
宝永6年(1709年)から寛政10年(1798年)までは、奈良(東大寺)と京都(方広寺)に、大仏・大仏殿が双立していた。江戸期においては方広寺大仏の方が、規模(大仏の高さ、大仏殿の高さ・面積)で上回っていた。これは先述のように豊臣秀吉が発願したもので、秀吉の造立した初代大仏、豊臣秀頼の造立した2代目大仏、江戸時代再建の3代目大仏と、新旧3代の大仏が知られるが、それらは文献記録(『愚子見記』『都名所図会』等)によれば、6丈3尺(約19m)とされ、再建され現存の東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、大仏としては日本一の高さを誇っていた。『東海道中膝栗毛』では弥次喜多が大仏を見物して威容に驚き「手のひらに畳が八枚敷ける」「鼻の穴から、傘をさした人が出入りできる」とその巨大さが描写される場面があるが、そこで描かれているのは、東大寺大仏ではなく、方広寺大仏である [18]。なお初版刊行の1802年には、後述のように大仏・大仏殿は既に焼失している [18]。
江戸時代中期の国学者本居宣長は、双方の大仏を実見しており、東大寺大仏・大仏殿について「京のよりはやや(大仏)殿はせまく、(大)仏もすこしちいさく見え給う[19]」「堂(大仏殿)も京のよりはちいさければ、高くみえてかっこうよし[19][東大寺大仏殿は方広寺大仏殿よりも横幅(間口)が狭いので、視覚効果で高く見えて格好良いの意]」「所のさま(立地・周囲の景色)は、京の大仏よりもはるかに景地よき所也 [19]」という感想を、在京日記に残している。一方、方広寺大仏については「此仏(大仏)のおほき(大き)なることは、今さらいふもさらなれど、いつ見奉りても、めおとろく(目驚く)ばかり也[20]」と記している。
方広寺の3代目大仏は寛政10年(1798年)まで存続していたが、落雷で焼失した。
明治時代となり神仏分離が行われると、鎮守社の手向山八幡宮は東大寺から独立した。
『東大寺辞典』によれば現存する塔頭は18院であるが、この中には寺籍のみあって、独立した堂宇をもたないものもある。真言院、知足院のほか、大仏殿の北東に龍松院、龍蔵院、持宝院、宝厳院、大仏殿東側に宝珠院、中性院、上之坊、観音院、南大門西側、東大寺福祉療育病院に隣接して北林院、地蔵院、正観院がある。惣持院、清涼院は勧進所に所在、上生院、新禅院、金殊院は寺籍のみ残っている。
国宝。当初の大仏・盧舎那仏および大仏殿は、聖武天皇の発願により、8世紀に造られたものであったが、その後2度の兵火で焼け落ち、現存する大仏殿は江戸時代の再建。大仏は台座と袖、脚などの一部に当初部分を残すのみで、体部の大部分は中世の作、頭部は江戸時代の作である。
聖武天皇は天平15年(743年)、大仏造立の詔を発した。当初、紫香楽宮の近くの甲賀寺で造立の始まった大仏は、その後現在地の奈良で改めて造立を開始。天平勝宝4年(752年)に開眼供養が行われた。治承4年(1181年)の南都焼討の兵火で大仏殿は焼失、大仏も台座や下半身の一部を残して焼け落ちた。その後、大仏と大仏殿は重源の尽力により再興され、文治元年(1185年)に大仏の開眼供養、建久元年(1190年)には大仏殿の上棟式、建久6年(1195年)には大仏殿落慶供養が行われた。この鎌倉復興大仏も永禄10年(1567年)の東大寺大仏殿の戦いによって再び炎上した。大仏殿の再建はすぐには実施されず、大仏は仮修理の状態のまま、露座で数十年が経過したが、江戸時代になって公慶上人の尽力により大仏、大仏殿とも復興した。現存する大仏の頭部は元禄3年(1690年)に鋳造されたもので、元禄5年(1692年)に開眼供養が行われている。大仏殿は宝永6年(1709年)に落慶したものである。
文化3年(1806年)、下層の屋根が瓦などの重みに耐えられず波打って垂れ下がってきたために屋根を支える支柱を設けている。1877年(明治10年)頃から修理の計画が検討されるがなかなか行うことができず、本格的な修理は1903年(明治36年)から11年にわたり大修理が行われた。主要目的は、虹粱の補強と屋根を支えるための強化と、屋根荷重の削減だが、その際、大屋根を支える2本の虹梁の下端にイギリスシェルトン・スチール社製の鉄骨トラスを添わせ、両端は内陣柱にリベットとボルトで固定した。さらに桁行方向[注 6]にも振れ止めを兼ねた小型のトラスを架け渡した。これにより、大梁の重みとそれにかかる屋根の重量を内陣柱に分散達させる方法が取られた[21]。同時に瓦の枚数を減らした。1915年(大正4年)、大仏殿落慶供養が行われた。
大仏殿は寄棟造、本瓦葺き。2階建てに見えるが、構造的には一重裳階(もこし)付きで、正面5間、側面5間の身舎(もや)の周囲に1間の裳階を回している。間口57メートル、奥行50.5メートル、高さ46.8メートルで、奥行と高さは創建時とほぼ変わりないが、間口は約3分の2に縮小されている。建築様式は、鎌倉時代に宋の建築様式を取り入れて成立した大仏様(だいぶつよう)が基本になっており、水平方向に貫(ぬき)を多用するのが特色である。豊臣秀吉・豊臣秀頼父子による、初代・2代目方広寺大仏殿の相次ぐ造営によって、柱材に適した巨木を多数伐採してしまっており、この頃には既に巨材の調達が困難であったため、柱は芯材の周囲に桶状に別材を巻きつけた集成材が用いられている。なお、しばしば「世界最大の木造建築物」として言及されるが、20世紀以降に近代的工法で建てられた木造建築には、大仏殿を上回る規模のものが存在する(ティラムーク航空博物館、メトロポール・パラソルなど)。
大仏の左右には脇侍として木造の如意輪観音坐像と虚空蔵菩薩坐像を安置。堂内北西と北東の隅には四天王のうちの広目天像と多聞天像を安置する。いずれも江戸時代復興期の像である。四天王のうち残りの2体(持国天、増長天)は未完成に終わり、両像の頭部のみが大仏殿内に置かれている。堂内には他に、大仏前に高さ207cmの銅製大華瓶が付いている8本脚の揚羽蝶で有名で、元禄5年開眼供養会に池坊門弟の猪飼三枝と藤掛似水の両一門より、約9mの立花二口が奉納されたが、会後、藤掛似水から華瓶に銅蓮が付けられ仏花として寄贈された[22]。この8本脚の揚羽蝶は多く話題になるが、東大寺では「寺で作ったものではなく、寄贈品で意味は分からない」と答えている。また、1909年(明治42年)の日英博覧会用に製作された、東大寺旧伽藍の模型がある。
国宝。平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたもの。東大寺中興の祖である俊乗房重源が宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様ともいう)を採用した建築として著名である。大仏様の特色は、貫と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられる。門内左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重要文化財)を安置する。上層の正面中央には「大華厳寺」と書かれた扁額が掲げられている。これは古い記録にそのような扁額があったと書かれていたことに基づき、2006年(平成18年)10月10日に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」に合わせて新調されたものである。
国宝。旧暦2月に「お水取り」(修二会)が行われることからこの名がある。二月堂は治承4年(1181年)、永禄10年(1567年)の2回の大火にも焼け残ったとされているが、寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。本尊は大観音(おおがんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏である。建物は2005年(平成17年)12月、国宝に指定された。
建物の西側は急斜面になっており、懸崖造りで立てられている。東の山側には遠敷神社(おにゅうじんじゃ)と飯道神社(いいみちじんじゃ)があり、西側の崖下には参籠所(さんろうしょ)、仏餉屋(ぶっしょうのや)(ともに重要文化財)、興成社(こうじょうしゃ)が建てられている。また、お水取りを行う井戸(若狭井(わかさい))のための閼伽井屋(重要文化財)がある。二月堂の周辺は上院とも呼ばれる。
国宝。境内の東方、若草山麓にある。東大寺に残る数少ない奈良時代建築の一つであり、天平仏の宝庫として知られる。創建当時は羂索堂(けんさくどう)と呼ばれ、東大寺の前身寺院である金鐘寺(こんしゅじ)の堂として建てられたもので、創建時期は天平12年(740年)から同20年(748年)頃と推定されている。建物の北側(参道側から見て向かって左側)の、仏像が安置されている寄棟造の部分を正堂(しょうどう)、南側の入母屋造部分を礼堂(らいどう)と呼ぶ。正堂は奈良時代の建築、礼堂は奈良時代にも存在したが、現在あるものは鎌倉時代の正治元年(1199年)頃(異説もある)に付加したものである。堂内には本尊の不空羂索観音(ふくうけんさく/ふくうけんじゃくかんのん)立像、梵天・帝釈天立像、金剛力士・密迹力士(みっしゃくりきし)立像、四天王立像の計9体の乾漆像(麻布を漆で貼り固めた張り子状の像)と、塑造の執金剛神(しつこんごうしん/しゅこんごうしん)立像を安置する(いずれも奈良時代)。他に塑造の日光・月光(がっこう)菩薩立像、吉祥天・弁財天立像などの諸仏が安置されていたが、これらは2011年(平成23年)から東大寺ミュージアムに移動している。諸仏の細かい製作年代や当初の安置状況については諸説ある。
他に以下の8躯の諸仏を安置する。
東大寺の境内は平城京の外京の東端を区切る東七坊大路(現国道169号)を西端とし、西南部は興福寺の境内と接していた。 南大門を入って参道を進むと、正面に中門(南中門)、その先に大仏殿(正式には「金堂」)がある。大仏殿前には東大寺創建当時に造立された八角灯籠がある。中門からは東西に回廊が伸び、大仏殿の左右に達している。回廊は、現在は大仏殿の南側にしかないが、当初は北側にも回廊があり、回廊北面の中央には「北中門」があった。
南大門から中門への参道の東側には東大寺の本坊があり、反対の西側には東大寺福祉療育病院などがある。大仏殿の東方には俊乗堂、行基堂、念仏堂、鐘楼などがあり、そのさらに東方の山麓は「上院(じょういん)」と呼ばれる地区で、開山堂、三昧堂(四月堂)、二月堂、法華堂(三月堂)などがあり、その南には鎮守の手向山八幡宮(東大寺とは別法人)がある。
大仏殿の西方には指図堂(さしずどう)、勧進所、戒壇院などがある。大仏殿の北方、やや西寄りには正倉院の校倉造宝庫と鉄筋コンクリート造の東宝庫・西宝庫がある。なお、正倉院の建物と宝物は国有財産で、宮内庁正倉院事務所が管理している。境内西北端には奈良時代の遺構である転害門(てがいもん)がある。
かつてはこれら以外にも多くの堂塔が存在した。大仏殿の北には講堂と僧坊があり。これらの東には食堂(じきどう)があった。僧坊は講堂の北・東・西の3面にコの字形に設けられたので「三面僧坊」と称した。
2024年9月19日、奈良・東大寺の「三面僧坊跡」で、寺と奈良文化財研究所、橿原考古学研究所が合同で、小川を約90メートル調査。僧坊の東棟の位置の川底から、絵図の柱の位置とほぼ同じ配置で直径約1メートルの12基の礎石と、3回にわたる火災の痕跡が見つかったことを調査団が発表した。正倉院保存の創建当時「殿堂平面図」では僧坊は東西221メートル、南北126メートルという大規模な建物で、回廊でつながる講堂は幅54メートル、奥行き約28・5メートル。寺の記録によると、講堂と三面僧坊は平安時代前期の917年、1180年平重衡南都焼き打ち、戦国時代の1508年の3回焼失し、その後は再建されなかった[28]。
西の東七坊大路に面しては3つの門が開かれていたが、このうち北の門のみが現存する(前述の転害門)。 毎年1月1日の0時から8時までの間、中門(重要文化財)が開かれ、金堂(大仏殿・国宝)内に無料で入堂できる(通常入堂料:大人500円・小人300円)。参拝は午前7時半から受け付けている。
大仏殿の手前の東西には東塔・西塔(いずれも七重塔)があった。これらの塔は、周囲を回廊で囲まれ、回廊の東西南北4か所に門を設けた「東塔院」「西塔院」と呼ばれた大規模なものだった[29]。
西塔は承平4年(934年)に焼失。その後復興が計画されるが、工事途上の長保2年(1000年)に再び焼失する。以後は再建されなかった。
東塔は治承4年(1181年)の南都焼討で焼失。その後に復興され、安貞元年(1227年)に完成するが、康安2年(1362年)に落雷で再び焼け、以後は再建されなかった。東大寺は2010年(平成22年)4月、東塔再建に向けて数年内に塔跡地の発掘調査を開始すると発表した[30]。2015年(平成27年)7月、東塔の基壇跡の発掘調査が始まり、11月に中間発表が行われた。鎌倉時代の基壇では一辺が27メートル四方、建物部分では17メートル四方あり当時の国内最大級であったことが推測される。創建当時の遺構も発見され、この基壇は一辺24メートル四方だった[31][32][33]。時期は未定であるが、再建されれば約650年ぶりに東塔が姿を現すこととなる。
東塔・西塔共に七重塔で、高さは『東大寺要録』『南都七大寺巡礼記』には23丈強、『朝野群載』『扶桑略記』には33丈強とある。この高さについて、1909年(明治42年)に日英博覧会に出展された創建時の復元模型(現在は大仏殿内に展示)を設計した天沼俊一は、『東大寺要録』等の「東塔が23丈8寸、西塔が23丈6尺7寸」に露盤(相輪)高約8丈(文献により細かい数値は異なる)を加えて31丈余り(約94メートル)とした[34]。
一方、建築史家の足立康は、最初に記載する高さは相輪を含むのが当時の文献の通例であるとする一方、23丈程度の全高のうち8丈を相輪が占めるとするとバランスを欠くという見解から、一部の文献に見られる「33丈」(約100メートル)が正しいとした[34]。これらによって、90 - 100メートルとするのが通説となっていた。
これに対し、奈良文化財研究所の箱崎和久は2003年(平成15年)の論文で、現存する同時代の仏塔や、第二次世界大戦後に発掘調査された大型仏塔(大官大寺や吉備池廃寺跡など)との比較から、天沼の復元図通りの塔を奈良時代当時に建築することは困難であるとし、時代の近い元興寺小塔をモデルとして、総高23丈7尺(約70メートル)、うち相輪部8丈6尺(約26メートル)という復元を推定している[34][35]。奈良文化財研究所は、箱崎の発表から約20年が経過した2024年4月25日に、創建当時の東塔の高さについて原資料と見られる「大仏殿碑文」の記載を「23丈」と判断し、これにより約70メートルと結論づけた[34][36]。従来の100メートル説の根拠となっていた「33丈」とする見解は、文献の写本の中で江戸時代に発生した誤記がそのまま引き継がれたとした[34][37]。また「23丈」では相輪のバランスを欠くという説に対しては、他の塔との比較により創建当時には不自然ではないとした[34][37]。東大寺側は「これまでの東塔の復元案とは異なる姿を示すもので、天平の東塔の姿が知りたいという思いに1つの答えをいただいた」という受け止め方を示し、「復興を進めるうえで、考慮すべき重要な研究成果だ」とした[38][39]。
同時に奈良文化財研究所は、鎌倉時代に再建された東塔は、当時の文献にある高さ32丈(96メートル)としている[34]。日本万国博覧会(1970年)の古河パビリオンで高さ86メートルの東大寺七重塔の外観が再現された。パビリオンは博覧会終了後取り壊されたが、相輪のみが保存され、大仏殿回廊の東側に建てられている。なお、大阪市の藤田美術館の庭に東大寺東塔の心礎と伝えられる礎石があるが、東塔のものであるという確証はない。
阿形像 像内納入品
吽形像 像内納入品
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』所有者別総合目録・名称総索引・統計資料(毎日新聞社、2000年)による。
このほか、2002年以来、毎年12月にザ・グレイトブッダ・シンポジウムが開かれている。仏教に関する諸問題を広い視野に立ちながら厳密な学問的方法をもって分析・検討し、その意義を明らかにすることを目的とする。
元長崎大学教授の白須賀公平が『大学等環境安全協議会会報』に寄稿した論文「水銀蒸気で二十万(推定)都市が潰滅」の中で、東大寺の大仏(盧舎那仏)建立当時に施された金めっきによる水銀公害で平城京が潰滅したとの仮説を立てている[注 9]。
『東大寺要録』の記録によると、当時施された金めっきには金10,436両(約375キログラム)と水銀58,620両(約2,110キログラム)が使用されているが、当時の金メッキ技術は、金と水銀の合金であるアマルガムをめっき対象物に塗り、その後に炎によって水銀を気化させ金だけを残すという手法が執られていた。白須賀の仮説では、この際に発生した大量の水銀蒸気が平城京を覆い、水銀中毒症状が蔓延して祟りと恐れられたため、平城京はわずか74年で打ち捨てられ、長岡京に遷都したのだとしている。
2006年2月26日に放送されたテレビ朝日『素敵な宇宙船地球号』の第418回「水銀の不思議」は、この仮説に基づいて番組編成が行われた[57]。
東大寺は、光明皇后が悲田院や施薬院を設け、日本の社会事業のさきがけとなった寺院であるため、現代も各種社会事業が行われている。
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