大仏様
寺院建築様式の一つ ウィキペディアから
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寺院建築様式の一つ ウィキペディアから
大仏様(だいぶつよう)は、日本の伝統的な寺院建築様式の一つ。かつては天竺様と呼ばれた。
平重衡らによる南都焼討で焼け落ちた東大寺の再建の際、入宋経験のある僧重源によってもたらされた建築様式。従来の寺院建築様式である和様、また鎌倉時代後期から禅宗寺院に採用された禅宗様に対する言葉。禅宗様とは共通する部分も多く、あわせて鎌倉新様式または宋様式と総称される。
治承4年(1180年)平氏政権による南都焼討によって東大寺は灰燼に帰した。後白河法皇は直ちに復興の意思を表し、勧進聖らに東大寺再建のための勧進活動への協力を求め、養和元年(1181年)、その責任者として重源を大勧進職(だいかんじんしょく)に任命した。
入宋経験があり建築事業にも詳しかった重源は、大陸式の新しい建築様式を導入し、大仏殿・南大門などを再建した。その建築様式は非常に独特であり[1]、当時の中国(宋)の福建省周辺の建築様式に通じるといわれている。
重源没後、大仏様は急速に廃れた[注釈 1]が、大仏殿再建に関わった職人は各地へ移り、大仏様の影響を受けた和様建築が生まれた。これは折衷様と呼ばれる。
大仏様・禅宗様で採用された貫は和様建築でも積極的に使われるようになり[2]、修理の際にも貫を入れ補強されることもあった。例えば法隆寺中門や平等院鳳凰堂の翼廊部分は鎌倉時代の修理で付け加えられたもので、この補強があったために現在まで建物が残った可能性がある。
一部は禅宗様の特徴にも通じる。
大工の伝承では、和様・天竺様・唐様が区別され、明治時代以降の建築史でも使用されてきた。
大仏様の呼称は第二次世界大戦後のもので、日本建築史家の太田博太郎が天竺様という名称は「インドの建築様式と誤解されてしまう」と批判し、大仏様という名称を提案した。現在の建築史では一般に大仏様という用語が使われている。
しかし、大仏様という呼び方も創建当時(奈良時代)の大仏殿の様式と誤解される、また大仏様(だいぶつさま)という旧来からある言葉と衝突するという問題点も存在する。このため、重源様という呼称を提唱する意見もある。
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