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日本の俳優、男性声優 (1950-) ウィキペディアから
塾 一久(じゅく いっきゅう、1950年[7]7月12日[5] - )は、日本の俳優、声優。石川県羽咋郡富来町(現在:石川県羽咋郡志賀町)生まれ[4]、茨城県稲敷郡阿見町育ち[3][8]。ケンユウオフィス所属[5]。
じゅく いっきゅう 塾 一久 | |
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プロフィール | |
本名 | 熟田 一久(じゅくた かずひさ)[1][2][3] |
性別 | 男性 |
出生地 | 日本・石川県羽咋郡富来町(現在:石川県羽咋郡志賀町)[4] |
出身地 | 日本・茨城県稲敷郡阿見町[3](一部では石川県[5]) |
生年月日 | 1950年7月12日(74歳) |
血液型 | O型[5] |
職業 |
俳優 声優 |
事務所 | ケンユウオフィス[5] |
公式サイト | 塾 一久:Juku Ikkyu 株式会社ケンユウオフィス |
公称サイズ(時期不明)[6] | |
身長 / 体重 | 179 cm / 76 kg |
俳優活動 | |
活動期間 | 1973年 - |
ジャンル | テレビドラマ、映画、舞台 |
デビュー作 | 『天守物語』[3] |
声優活動 | |
活動期間 | 1990年代 - |
ジャンル | 吹き替え、アニメ、ゲーム |
小学生の頃に海外ドラマの吹き替えに感心し、テレビ時代劇『隠密剣士』などを見て「将来はテレビに出る人になりたい」と思った[10]。役者に憧れて、高校時代は演劇部に所属して俳優や歌手の物まねをしたり、文化祭で発表したりしていた[3][10]。「テレビや映画で活躍するには、演劇の基礎から本格的に勉強しなければ」と思い、日本大学芸術学部に進学しようと考えていた[10]。しかし父に反対され受けさせてくれず、1年後にやっと認めてくれたため、同大学芸術学部演劇学科[11]に進学[10]。
進学後、4年生の時に劇団を色々受ける予定であった[10]。しかし3年生の時に「文学座は入団するの難しい」という話を聞いて、「じゃあ、今年受けてみよう!ダメだったら来年考えよう」と文学座の試験を受けたところ合格。1973年に文学座研究所に入所[11]。当初両親は「堅実な道を」と猛反対していたが、文学座に合格していた頃には応援者になったという[3]。
1978年に文学座の座員となる[3]。一つ上の先輩に松田優作、同期に中村雅俊、本田博太郎、藤田三保子がいる[10]。
俳優としての大きな転機は二つあり、一つ目は、24歳の時に文学座で演出家の木村光一と出会ったことであり、木村に育ててくれたといっても良いくらい、色々な舞台に出演していた[10]。二つ目は、蜷川幸雄の舞台『オディプス王』でコロスの長老と神官役を演じていたことで、その縁から蜷川の演出する色々な舞台に出演していた[10]。木村と蜷川という二大演出家の舞台に出演したのが誇りだという[10]。
その後も多くの公演に出演して着々とキャリアを積んできたが、生活のため40歳の頃まで居酒屋、レストラン、肉体労働などのアルバイトを続けていたという[3]。
その後、「やっぱりテレビに出たい」という気持ちがあり、テレビドラマ、声優の仕事を始める[10]。劇団の舞台や公演があるとその期間は収録ができないため、俳優と声優を同時に続けるのは中々大変だったという[10]。当初は「声だけで演技をするってどうなんだろう」と思っていたが、声優業を開始したところ「ひょっとして、全く同じ役なら、舞台で演じるより、声優でやるほうがよっぽど難しいぞ」と思ったという[10]。
語りの会「いっきゅう組」主宰[3]。シナリオクラブのメンター[10]。
以前はマウスプロモーションに所属していた[5]。
声種はバリトンテノール[12]。優しい柔らかい声を持つ[13]。方言は茨城弁[11][14]。
声優、俳優の仕事を続けて楽しかったことは「感動した」、「面白かった」と大きな拍手を貰った時であった[10]。舞台の「泣きのシーン」で、会場からすすり泣きが聞こえてくると、演じているほうも気持ちが高まり、人物に「感動を与えられた」と思えた時は嬉しく「ああこの芝居やっててよかったな」と思った[10]。声優では、出来上がった作品の評判が良かった時が嬉しく、吹き替えの時に海外の俳優を見ながら、「日本にはこんなタイプの役者いないなあ」と思ったり、様々なことを勉強したりできるのも楽しいという[10]。元気であれば死ぬまでできる仕事のため、2012年時点では演じて楽しいことから、声が出る限り仕事を続けていきたいという[10]。
辛かったことはたとえ好きな仕事であろうとも、やりたいことを常にやれるわけではないため、「自分はこの役をやりたいのに、やらせてもらえない」というジレンマに苦しむことだという[10]。ただし、2012年時点でも役者を辞めないのは、好きでやっているため、仕事自体が楽しくてしょうがないからだという[10]。配役に違和感を持っても「どうせ仕事をやるんなら、楽しくやろう、いいものにしよう」と気持ちで行うと、どんどん楽しくなっていくという[10]。また、様々な役を演じることで、だんだん仕事の幅が増えていくという[10]。
舞台で失敗したエピソードについては、「でとちり」で王と兵士のシーンで「これから〇〇をお呼びします」と言われてから自分が舞台上に出ていくする予定だったが、間違えてその前に出てきてしまったという[10]。その時は上川隆也が王様役で、「え、なんでいるの」と怪訝な顔をされ、塾自身も困ってしまったという[10]。舞台の袖に戻ろうとしても、袖のドアが閉まっており開けられず、止むを得ず舞台端の暗い所に寄って目立たないようにしていた[10]。その後、芝居は何事もなかったように進み、改めて呼ばれた時に隅の暗いところから出ていた[10]。この出来事については「肝が縮む思い」「なんとも言えないむず痒い思い」と回顧している[10]。
セリフを忘れた時は、話の流れが壊れないように、自分でなんとかしてうまく進めたり、他の役者に助けてもらったりしている[10]。ただし、「セリフを忘れた時は演技に自信を持てていない時」と語っている[10]。研修生時代、三島由紀夫の『鹿鳴館』を公演した時、公演が始まる前に病気で一週間稽古を休まざるを得ず、回復して稽古ができるようになったが、本番までは数日しかなく本番を迎え、「大丈夫だろうか、ちゃんとできるだろうか」と不安であった[10]。舞台に出演した瞬間、足が震えてセリフがポーン!と飛んでしまった[10]。その時は長セリフで「さあどうするか」と焦っていた[10]。一切アドリブできないセリフで、言っても突っかかってしまい、「ようし、こうなったらセリフが出てくるまで何度でも言いなおしてやろう」と腹をくくり覚悟を決めたその瞬間、セリフが出てきたという[10]。
若い頃は、短時間で丸暗記できたが、2010年時点では前後の流れを考えながら体を通して覚えていくため、多少時間は掛かるようになったという[3]。
アルバイトと縁が切れた15年ほど前に東京都から実家の阿見町に帰郷して、2010年時点では家族と過ごす時間も増えたという[3]。
好みの作品ジャンルについては、悲しくて深刻だが笑えるところもあるドラマが好きであり、地人会で20年以上再演され続けた作品で木村光一演出の『はなれ瞽女おりん』を挙げている[10]。そのため、笑いのイメージが強いものの、作品によっては人情物や泣かせる話もある落語も好きだという[10]。
太字はメインキャラクター。
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