Remove ads
日本の元プロレスラー (1965 - 2005) ウィキペディアから
橋本 真也(はしもと しんや、1965年7月3日 - 2005年7月11日)は、日本の男性プロレスラー。岐阜県土岐市出身。血液型AB型。
中学時代に父が失踪し、母子家庭で育つが中京商業高等学校[注釈 1]在学時に母を亡くした。両親とは縁が薄く、養育したのは実質的に祖母であった。学生時代に柔道を始めたが、両親との縁が薄く家族や仲間の温かみを求めていたことと、柔道の先生から父性の厳しさを教えられたことが、その後も橋本の人格形成に影響を与えたという分析もある[2]。アントニオ猪木に憧れるようになり、1984年(昭和59年)4月に新日本プロレスに入門。同期は武藤敬司、蝶野正洋、船木優治、野上彰。入門初日に後に闘魂三銃士のユニットを組む蝶野と洗濯機の順番を巡って乱闘を起こした[注釈 2]。1984年(昭和59年)9月1日、東京都練馬区田柄5丁目にあった多目的運動場「南部球場[注釈 3]」特設リングでの後藤達俊戦でデビュー。憧れの先輩である前田日明を真似たニール・キックやスープレックスを若手時代から用い前座戦線で活躍した。当時旗揚げしたばかりのUWFへの入団を高田伸彦から誘われたこともあった。
1987年(昭和62年)、第3回ヤングライオン杯での準優勝後に海外修行に出立[1]。カナダのカルガリー地区(ハート・ファミリー主宰のスタンピード・レスリング)にてモンゴル人ギミックのヒール『ハシフ・カーン(Hashif Khan)』として試合を行ったが、対戦相手を負傷させたりしたために試合を干されることもあった[要出典]。完全に干されたきっかけとなったのは、ファンの女の子にサインを求められたときに女性器を描き、それを見た親が泣いて激怒しプロモーターに訴えられたためだと言われている[要出典]。スタンピード・レスリングでは、オーエン・ハート、マイク・カーシュナー、フィル・ラフルール、ジェリー・モロー、ブライアン・ピルマン、ミスター・ヒト、ジェイソン・ザ・テリブル、レオ・バーク、スティーブ・ブラックマンなどと対戦した[3][4]。
1988年(昭和63年)7月29日、『サマー・ファイト・シリーズ』有明コロシアム大会に出場するため急遽帰国。武藤&蝶野とのトリオで、藤波辰巳&木村健吾&越中詩郎組と6人タッグマッチで対戦。結果は反則勝ちだったがトップ選手相手に暴れまわりファンに強烈な印象を与え、レスラーの大量離脱などで暗い話題が多かった当時の新日本プロレスに新時代を呼び込むきっかけを作る。
同年11月11日に開幕した『'88ジャパンカップ・イリミネーション・リーグ戦』には藤波&蝶野とのトリオで出場。12月7日、大阪府立体育会館で決勝戦が行われ、猪木&長州力&星野勘太郎組と対戦。準優勝に終わる。
1989年(平成元年)1月よりアメリカ合衆国・テネシー州メンフィスのCWAに『ショーグン・マサムネ(Shogun Masamune)』のリングネームで参戦[5]。トージョー・ヤマモトをマネージャーに迎え、サムライ・シンジこと笹崎伸司とヒールの日本人タッグチーム『ショーグン&サムライ(The Shogun & The Samurai)』を結成。エースのジェリー・ローラーをはじめ、ビル・ダンディー、オースチン・アイドル、トレイシー・スマザーズ、ブレイク前のスコット・スタイナーやジェフ・ジャレット、ロード・ヒューマンガスとも対戦した[5]。
同年4月24日、新日本プロレスの初の東京ドーム興行『'89格闘衛星☆闘強導夢』に出場。IWGPヘビー級王座決定トーナメントの1回戦で長州力と対戦し首固めで勝利。準決勝でソビエト連邦初のプロレスラー集団「レッドブル軍団」のビクトル・ザンギエフを足4の字固めで下す。決勝戦でビッグバン・ベイダーと対戦するが、ラリアット2連発で敗退。試合後に脳震盪を起こし担架で運ばれた。
7月28日、埼玉・戸田市スポーツセンターでウラジミール・ベルコビッチを相手に帰国第一戦を行う。『'89格闘衛星 日米ソ3国対抗戦シリーズII』から日本に定着した。8月の『'89格闘衛星 日米ソ3国対抗戦シリーズII』では、ベイダーやサルマン・ハシミコフら米ソのトップ選手と特別試合を組まれるが、いずれも敗退。9月20日、『ブラディ・ファイト・シリーズ』大阪城ホール大会で、長州&飯塚孝之が保持するIWGPタッグ王座にマサ斎藤と組んで挑戦。18分52秒、橋本が飯塚をフォールして第11代IWGPタッグ王者となる[6]。
翌9月21日、横浜文化体育館でベイダーのIWGPヘビー級王座に挑戦。タイトルマッチながらノーTVで行われたこの試合はベイダーの一方的ペースで進み、10分8秒にビックバン・クラッシュで敗退。リングサイドでこの試合を観戦していた猪木は試合後、橋本を厳しい表情で叱咤しビンタで喝を入れた。
10月13日、『闘魂シリーズ』開幕戦の後楽園ホール大会において、マサ斎藤と組んで蝶野&長州と対戦。蝶野の凱旋帰国試合だったが、開始のゴングが鳴る前から蝶野と橋本が激しくぶつかり合い、蝶野の額から予想外の大流血。傷の手当を終えリングに戻った蝶野が大暴走して喧嘩試合となり、2分39秒橋本組の反則勝ち。試合内容に納得がいかないファンが苛立ちを見せ会場は暴動寸前となった。
11月3日、後楽園ホールで行われた『闘魂シリーズ』最終戦でベイダーとシングルマッチで対決。肉弾戦の末、リングアウト勝ちながらベイダーに初勝利し、近い将来、天下取りを期待される若武者としてファンの支持を得る。
12月6日、大阪府立体育館で行われた『'89ワールドカップ争奪リーグ戦』決勝トーナメント準決勝で、トップ外国人の一角のスティーブ・ウィリアムスと対戦しリングアウト勝ちを収める。翌12月7日、両国国技館で行われたワールドカップ争奪リーグ戦決勝トーナメント優勝戦で長州と対戦。長州は同世代のレスラーの藤波や木村の得意技である稲妻レッグラリアットやドラゴンスリーパーを繰り出して橋本に勝利したが、橋本のミドルキックを受け続けた長州の右腕は腫れ上がって動かすことができず、試合後の橋本の握手に応じられないほどであった。
1990年2月10日、『'90スーパーファイト in 闘強導夢』のメインイベントで蝶野とタッグを組み、猪木&坂口征二と対戦。試合直前のインタビューで「時は来た!」と名言を残す。試合は蝶野が猪木の延髄斬りに敗れた。
4月13日、東京ドームで行われたWWF、全日本プロレス、新日本プロレスの3団体合同興行『日米レスリング・サミット』に出場。斎藤とのコンビで長州&蝶野を相手にIWGPタッグ王座防衛戦を行い、3度目の防衛に成功した。
4月27日、『新闘強STATION BAY N.K.』で、凱旋帰国となる武藤敬司と蝶野のコンビを相手にIWGPタッグ王座の防衛戦を行うが、マサ斎藤が武藤のラウンディング・ボディ・プレスで敗れ王座から転落する。
海外修行から帰国後、闘魂三銃士として武藤や蝶野と共に売り出されることになり、対戦相手をリング上で叩き潰す姿から『破壊王』の異名を持つこととなった。また古舘伊知郎からは「戦う渡辺徹」の異名をもらっている[注釈 4]。「破壊王」ほど定着しなかったが、橋本はこのニックネームを気に入っていたという。
この時期の橋本はベイダー、スコット・ノートン、トニー・ホームといった巨漢外国人レスラーの得意技を正面で受け、好勝負を展開していた。橋本は日本人レスラーとしては稀なスーパーヘビー級であるが、この階級のレスラーが得意技にすることが多いラリアットやパワーボムをほとんど使用せず[注釈 5]、あんこ型でありながらキック主体というスタイルだった。
1993年(平成5年)、橋本は前年にIWGPヘビー級王座を獲得したグレート・ムタやG1 CLIMAX2連覇を果たした蝶野と比べ停滞気味であったが、WARの天龍源一郎と2度のシングルマッチを経て勢いを付けると、9月20日にはそのムタを破り、第14代IWGPヘビー級王者となった[7]。その後、藤波に敗れてIWGPヘビー級王座を一度は手放すものの、直後の5月1日福岡ドームのメインイベントで藤波を破って王者に返り咲いた。これ以降、1年後の1995年(平成7年)5月3日福岡ドームで武藤に敗れるまで9度の当時連続防衛記録を達成した。その年の活躍が認められ、「プロレス大賞MVP」を獲得した。
1996年(平成8年)4月29日東京ドーム、この年の1月4日に武藤に勝利してIWGPヘビー級王座を奪取したUWFインターナショナル(Uインター)の総大将でもある高田延彦と対戦し、垂直落下式DDTからの三角絞めで勝利した。なお、前年から抗争が勃発していたUインターのリングにも参戦した。
1997年(平成9年)8月31日、この年のG1 CLIMAX優勝者である佐々木健介に敗れ、IWGPヘビー級王座を奪われて以降は橋本がIWGPヘビー級王座に着くことはなかったが、通算20度の防衛を果たした。
新日本プロレス時代の橋本は、後述するように数々のタイトルを獲得したもののその一方でG1 CLIMAXのタイトルだけはなかなか手中に収めることができず、いつしか鬼門といわれるようになった。しかし、1998年(平成10年)に藤波、健介、蝶野といった歴代のG1ホルダーを撃破して勝ち上がってきた山崎一夫を破り、念願のG1 CLIMAX優勝を果たした。
元柔道家の小川直也と何度も抗争を繰り広げ、1997年(平成9年)4月の初戦(小川のプロレスデビュー戦)は敗れたが、翌月には小川を失神KOで下しリベンジを果たした。1999年(平成11年)1月4日、東京ドーム大会における3度目の戦いでは、橋本は小川にほとんど手も足も出ず事実上の敗北を喫した(結果は無効試合)。試合後、両選手のセコンド同士による乱闘騒ぎも発生した。橋本は試合後の記者会見で「初めにいいの一発もらっちまったが(橋本は小川のパンチで鼻骨を骨折)、(小川は)目がイっていた」と、小川陣営が興奮剤などを使っていたと匂わせるコメントをした[8]。当時全日本プロレスの三沢光晴が全日本プロレス中継内で、「あれじゃいくら何でもプロレスラーが弱くみられる。もっとプロレスラーは強いんだぞってところを見せてもらわないと困る」とコメントし、小川のセコンドについていた佐山聡も「セメントマッチ」であったと語っている[9]。小川はSTOという大外刈りをアレンジした受け身の取りづらい技を編み出しており、橋本はその対策が急務であった。
10月にも小川に敗れ、2000年(平成12年)4月7日東京ドームで行われた5戦目は「負けたら引退」を公約し、試合に臨んだ。橋本もSTO封じを習得し、ダウン中の小川にジャンピング・エルボーを仕掛けた際には小川の腕を脱臼させるなど勝利に近づいたものの、その後の関節技で小川の脱臼が偶然にも嵌ってしまい、両腕が自由になった小川のSTO連発を受けて大敗を喫した。その後の公約通り、橋本は新日本に辞表を提出した。橋本はダウンカウントを取られている際には、STOの衝撃により目の焦点が合っておらず「もうダメだ」とも発言しているような動きが見られ、実況の辻よしなりも「立ってくれ橋本!」と絶叫した。
3度目の戦いは結果として社会的注目を浴び、1999年10月に行われた4戦目と「負けたら引退」を公約した5戦目の試合結果は、その日の『ニュースステーション』のスポーツコーナーでも伝えられた。
2000年(平成12年)8月23日、橋本は熱心なファンの折り鶴兄弟から送られた復帰を願う百万羽の折り鶴をきっかけに引退撤回を表明した。これについてはテレビ朝日のスポーツ番組『スポコン!』が特集を組んだ。10月9日東京ドームで藤波と復帰戦を行い、その直後に新日本内に別組織「新日本プロレスリングZERO」を作ろうとしたが、長州らの反対にあった。その結果、橋本は11月13日付で新日本を解雇されたため、直後にZERO-ONEを設立し完全独立した。12月23日にはプロレスリング・ノアに参戦(対戦相手は大森隆男)、同年の大晦日にはINOKI BOM-BA-YE 2000に参戦(対戦相手はゲーリー・グッドリッジ)。その後、ZERO-ONEには橋本の理想に賛同した新日時代の後輩でもある大谷晋二郎と高岩竜一が合流した。
2001年(平成13年)3月2日、橋本は両国国技館にて「破壊なくして創造はなし、悪しき古きが滅せねば誕生もなし、時代を開く勇者たれ!」との理念を掲げ、旗揚げの挨拶を行った。メインイベントの試合で橋本は新日本の永田裕志と組んでノアの三沢&秋山準と対戦したものの、試合は19分10秒、三沢のジャーマン・スープレックス・ホールドで橋本がまさかのフォール負けを喫した。他にも、大谷が村上一成にKO負けし、高岩はアレクサンダー大塚と組んで大森&高山善廣に敗退するなど、初陣のZERO-ONE勢は全敗であった。メインイベントである橋本の試合後には、ノア勢に小川、藤田和之らも入り乱れての大乱闘に発展し、プロレス界に大波乱を巻き起こした。この時小川は三沢にマイクで「今度は三沢だからな!」と次期対戦をマイクでアピールし、三沢も珍しく「やってやるよ」とマイクで応戦している。後にこの後、小川とは和解してZERO-ONEにて共闘し「OH砲」として人気を得た。
2003年(平成15年)になると、橋本はZERO-ONE勢を率いて武藤率いる全日本プロレスに乗り込み、全面抗争が勃発。頂上決戦となったグレート・ムタとの三冠ヘビー級選手権に勝利した。5月2日には後楽園ホールでは最多記録となる2,300人の観衆を集めて小川と組み武藤&小島聡に勝利したが試合後に川田利明が乱入し、そして7月、橋本&小川VS武藤&川田のタッグマッチにおいて、試合中に川田のキックをチョップで迎撃した時に右肩を脱臼し、勝利したもののこの時の脱臼がきっかけで橋本も三冠ベルトを返上した。
11月、長州へ東京スポーツ紙上で口撃を行い、その後コラコラ問答を経て長州軍との抗争に突入する[10]。同年12月団体戦、2004年(平成16年)2月にはシングルで長州と激突し、勝利した。
2004年(平成16年)2月、三冠ヘビー級王者になった川田から3度目の防衛相手に指名され挑戦するも、前年の肩の怪我がきっかけで敗れた(セコンドからタオル投入)。なお、橋本のいわゆるプロレス四天王とのシングルマッチはこの川田戦のみであった。その直後、2人はハッスル軍としてタッグを組んだ。
2004年(平成16年)からハッスルに参戦。小川から「ハッスル・キング」と命名され、高田総統から「ポーク」と揶揄された。
2004年8月31日、岩手県営体育館にて大谷&大森に敗れ、藤原喜明と組んで保持していたNWAインターコンチネンタルタッグ王座から陥落[11]。この試合を最後に故障などがあって長期欠場に入るが、この後に団体の経営方針等、諸問題の積み重ねから団体内部との確執が生まれ、11月25日にZERO-ONE崩壊を宣言し、負債は全て橋本が自ら被ることで決着がついた。
1人でフリーの道を歩むことなった橋本は、長い間治療せず放置していた右肩を手術しリハビリをしながらリングへの復帰を目指していた。ところが2005年(平成17年)7月11日午前8時頃、横浜市内の滞在先において脳幹出血を発症し救急搬送された。午前10時36分に搬送先の横浜市立大学附属市民総合医療センターで橋本の死亡が確認された[12]。40歳没。睡眠時無呼吸症候群も遠因であったと推測されている。
7月16日に行われた橋本の葬儀には、武藤・蝶野・小川ら団体の垣根を越えて大勢のレスラー、各界著名人、一般ファン等1万人以上が参列した。特に闘魂三銃士の絆を持つ武藤と蝶野が受けた衝撃は最も大きく、武藤が葬儀場の階段に座り込んだまま立ち上がれなくなったり、蝶野が人目をはばからず涙に暮れるなどした。棺[注釈 6]が霊柩車に運ばれた際、友人でもあるKBCアナウンサーの高島宗一郎(当時、現福岡市長)の涙声の絶叫[注釈 7]に続き、出棺時に橋本の入場曲でもある『爆勝宣言』が流され、参列者から投げられた数千本もの赤い紙テープと「ハッシモト」コールの大声援に包まれて送り出され、橋本の遺体は久保山斎場で火葬された。旧ZERO-ONEで橋本と苦楽を共にした大谷も棺桶を担ぐ役から外されていたことを無念に感じ、葬儀場の出入り口付近で悔しさを噛み殺していたという。戒名は「天武真優居士(てんぶしんゆうこじ)」であった。
2005年7月19日放送のテレビ朝日のバラエティ番組『ロンドンハーツ』が、橋本の生涯最後のテレビ番組出演だった。(後述のエピソードを参照。)
2006年(平成18年)、『力道山』(日韓合同制作)が日本で上映された。橋本は生前、東浪役で出演していてこれが橋本の遺作となった[注釈 8]。
2008年(平成20年)3月2日、橋本の功績を称え2代目IWGPヘビー級ベルトが中邑真輔から橋本家に贈呈された。
2011年(平成23年)7月11日、七回忌という節目を機に公式の七回忌追悼オリジナル写真集が発売された。『永遠の破壊王』
2015年(平成27年)7月13日、十回忌という節目で新日本プロレス主催で後楽園ホールで『橋本真也復活祭』を開催、所縁のレスラーが集結した。メインイベントでは、橋本の息子の橋本大地と永田のシングルマッチが組まれた。
橋本には代名詞といえる関節技がほとんどないが、マサ斎藤も「橋本は関節技も上手い」と評しており、十字固めやアキレス腱固めなど一般的な関節技をほぼマスターしていた。
中学時代に猪木対ウィリー・ウィリアムス戦を見て猪木の魅力にひかれ[注釈 9]、その卒業文集には「尊敬する人 アントニオ猪木」と書くほど猪木に心酔した。やがて新日本に入門した橋本は猪木の闘魂哲学を徹底的に叩き込まれ、試合用ガウンには「闘魂伝承」の文言を入れるほど猪木イズムの伝承者として活躍する。IWGP王座を通算20回防衛するなど1990年代の新日本を名実共に引っ張る大スターへと成長した。
1992年、アサヒ芸能に、橋本が遠征の宿泊先(熊本県湯の児温泉の旅館)で酒の勢いでレスラー同士が取っ組み合いになったことを紹介するインタビュー記事が掲載。実際には大勢のレスラーが加わっていたにもかかわらず「橋本が旅館を一軒破壊した」という見出しとなった。その後、関係者が折に触れ事件を話し出したことから、新日本プロレスとUWFによる「旅館破壊事件」として知られることとなった。しかし蝶野・船木の対談によると、当日その場にいた二人は橋本を見ておらず他レスラーの話題にも出ていなことなどからしてそもそも破壊事件には参加していないとする説がある[注釈 10][15]。同記事では旅館とは別に、名古屋の居酒屋「養老乃瀧」を破壊していることにも触れているが、こちらは広まることはなかった[16]。
1997年(平成9年)、元柔道世界王者でバルセロナオリンピック銀メダリストの小川がプロ格闘家として猪木に弟子入りしたことで、2人の師弟関係に亀裂が入った。小川のデビュー戦の相手を務めた橋本だったが裸絞めでKO負けを喫すると言う番狂わせが起きた。1か月後に橋本はリベンジを果たしたが、1999年(平成11年)1月4日の3度目の対戦では、プロレスルールを無視した小川の突然の暴走ファイトに橋本もなす術なく試合は無効試合となったが、ノックアウトされ事実上の敗北だった。試合後の会見で橋本は、「絶対許さない」、「何がアントニオ猪木だ!」と黒幕・猪木への怒りを表した。同年10月、4度目の対戦が行われるが、ここでも小川に敗れた。
2000年(平成12年)4月の5度目の対戦でも、小川は橋本を破った[注釈 11]。だが、この試合に引退を賭け、男の生き様を見せ付けた橋本に猪木は、「引退は早い」と歩み寄りを見せるようになった。橋本はファンの後押しを受け同年10月に引退を撤回して復帰する。翌2001年(平成13年)にZERO-ONEを旗揚げした橋本に猪木は、「馬鹿になれ!」のメッセージを送り、最大の理解者として橋本の行動を陰で支え、合わせるように小川も橋本と和解し以降2人で「OH砲」としてタッグを組むようになった。
ところが2000年(平成12年)6月、当時PRIDEに参戦していたマーク・ケアーの「ZERO-ONE真撃」への参戦問題[注釈 12]に端を発し、橋本と猪木は再び袂を分かった。
小川との一連の抗争引退劇があったためか、この年に橋本の母校の中京高等学校が甲子園出場を決めたが出場校紹介のOB欄に橋本の名前が記載された[17]
2005年(平成17年)、橋本が脳幹出血のため40歳の若さで死去した。猪木は橋本を赤シャツで追悼し、一部に物議となった。
なお、橋本も2005年(平成17年)のプロレスゲームのインタビューで「尊敬するレスラーは?」との質問に「アントニオ猪木」と自ら即答している。
橋本が新日本在籍時代、夢のカードとして当時全日本プロレスの三沢との「ミスターIWGP vs ミスター三冠」対決や、川田との「キック対決」を望んでいた。だが、橋本自身は全日本で一番戦いたい相手として雑誌やトークショーで常々小橋建太の名を挙げていた。三沢とはZERO-ONE旗揚げ後タッグで対戦し、川田とはタッグ、三冠をかけて対戦し、ハッスルではタッグを組むほど絡んでいたが、小橋、田上明との対戦は叶わなかった。
映像外部リンク | |
---|---|
PS3 「大作ソフトがゾクゾク篇」CM - YouTube テレビ朝日公式チャンネルより |
1989年のごく短期間ではあるが、映画『フットルース』の劇中歌「ネヴァー」を使用していた。が、会場の反応が悪かったため、すぐに「爆勝宣言」に切り替わった。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.