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日本のプロレスラー (1980-) ウィキペディアから
中邑 真輔(なかむら しんすけ、1980年2月24日 - )は、日本の男性プロレスラー。京都府峰山町(現:京丹後市)出身。京都府立峰山高等学校、青山学院大学経営学部卒業[1][2]。WWE所属。血液型A型。アメリカ合衆国フロリダ州オーランド在住。
獲得メダル | ||
---|---|---|
男子 レスリング | ||
全日本学生レスリング選手権大会 | ||
銅 | 2001 | フリー97kg級 |
全国高校生グレコローマンスタイルレスリング選手権大会 | ||
銀 | 1997 | 81kg級 |
全国高等学校総合体育大会 | ||
銅 | 1997 | フリー115kg級 |
小学生の頃に空手教室に入ったが、それは長続きせずすぐに止めている[2]。中学生になるとバスケットボールを始め、ブロック大会でチームを優勝に導く主要メンバーだったこともある[2]。中学卒業時にプロレス入りを希望したが、母親に「高校に行ってからでも遅くはないじゃない」と諭され、高校に進学し[2]、部活でレスリングを始めた。卒業時にもふたたびプロレス入りを希望するが、母親に「大学に行ってからでも遅くはないじゃない」と諭され、青山学院大からのスカウトもあり進学した[2]。
大学ではレスリング部と美術部に在籍し、レスリング部では主将を務めた。並行して総合格闘技道場である和術慧舟會RJWでも1期生として練習を行っていた[3][4]。画家としても展覧会に出展している。
2002年、新日本プロレスに入門(同期は山本尚史、田口隆祐、後藤洋央紀、長尾浩志)。同年8月29日、日本武道館における安田忠夫戦でデビュー[5]、セコンドには当時引退をして中邑を指導していた木戸修が付いた。レスリングでの実績[6] とデビュー前に総合格闘技のトレーニングを行っていたことから、当時の新日本の格闘技路線の申し子として期待を受け、デビュー戦後はシリーズには帯同せずLA道場で総合格闘技のトレーニングを重ねるという新人としては異例の待遇を受けた。
12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2002におけるダニエル・グレイシー戦で総合格闘技に初参戦。2R2分14秒、腕ひしぎ逆十字固めで敗北[5]。
2003年5月2日、新日本「ULTIMATE CRUSH」大会でヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキアと総合格闘技ルールで対戦し勝利[5]。8月にはデビュー1年にも満たないキャリアでG1 CLIMAXへ初出場。安田、柴田勝頼から勝利を収める[5]。
12月9日、天山広吉の所持するIWGPヘビー級王座に初挑戦。逆十字固めで天山からタップを奪いデビュー最速、最年少での同王座戴冠を果たす[5]。
12月31日、K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!でキックボクサーのアレクセイ・イグナショフと対戦。3Rでイグナショフの膝蹴りを受けダウンし、すぐに立ち上がるもレフェリーの平直行が即座にTKOを宣告し敗北を喫するも、中邑側からの抗議によりジャッジを見直されて無効試合となった[5][7]。
2004年1月4日、自身の持つIWGPヘビー級王座とNWFヘビー級王座の統一戦と銘打たれた試合で高山善廣と対戦。チキンウィングアームロックで高山からギブアップを奪い、IWGP王座を防衛、並びにNWFヘビー級王座に戴冠し二冠王となるも、後日NWFを封印。その後、精密検査の為欠場しIWGP王座も返上[5]。
5月22日、K-1 ROMANEXでイグナショフと再戦し、2R1分51秒前腕チョーク(K-1の公式記録はギロチンチョーク)で勝利[5]。以降、総合格闘技のリングには上がらずプロレス業に専念する。
11月、大阪ドーム大会で突然のカード変更により、中西学と組んで藤田和之、ケンドー・カシン組と対戦したがピンフォール負け[5]。試合後にカード変更を打診したアントニオ猪木から鉄拳制裁を受けた[8]。
12月、棚橋弘至と組み、IWGPタッグ王者決定戦にて佐々木健介、鈴木みのる組と対戦。棚橋が鈴木からドラゴン・スープレックス・ホールドでピンフォール勝ちを収め、第47代IWGPタッグ王座に就く[5]。翌年10月に陥落するまでに4度の防衛を果たした。
2005年1月4日、棚橋を破ってIWGP U-30無差別級王座を奪取し、ベルト封印を宣言した(返上扱い)[5]。
3月12日に全日本プロレスに流出したIWGPヘビー級王座を奪還する為全日本のリングに単身乗り込み小島聡に対戦を直訴[9]。26日に新日本両国国技館大会でタイトルマッチが組まれるも60分時間切れ引き分けで王座奪還は失敗に終わる[5]。
2006年1月4日、IWGPヘビー級王者ブロック・レスナーに挑戦したが惨敗[5]。
3月、新日本は中邑を無期限の海外修行に出すことを決意。この遠征はすでに団体の最高峰(IWGPヘビー級王座)を獲得したことがある中邑を海外修行に出すという稀な例であった[10]。しかし、遠征先では試合を一切行なわずに新日本ロス道場で汗を流し、9月24日に凱旋帰国した。
10月、蝶野正洋とタッグを組み、ベビーフェイスからヒールへの路線変更を図る。また、半年間の海外修行でビルドアップされた肉体に合わせ、コスチュームもロングタイツからショートタイツに変更。長州力、中西学組相手に凱旋試合を行い、新技ランドスライドで長州から3カウントを奪った[5]。同月に行われたG1 TAG LEAGUEでは蝶野とタッグを組んでエントリー。決勝トーナメントにてジャイアント・バーナード、トラヴィス・トムコ組を撃破し、決勝戦で棚橋弘至、金本浩二組の王者タッグを破り優勝[5]。試合後に蝶野、バーナード、トムコと共に蝶野政権を築くと宣言。
12月10日に帰国後初となるIWGP王座に挑戦。棚橋と対戦するも、ドラゴン・スープレックス・ホールドでピンフォール負けを喫した[5]。
2007年1月4日、川田利明と対決するも顔面へのミドルキックを喰らい敗戦[5]。8月にはG1 CLIMAXに出場。決勝トーナメントまでコマを進めるも12日、準決勝で永田裕志に敗れる[5]。この試合中に雪崩式エクスプロイダーを受けた際、左肩側から不自然な形でマット上に落下。後日、肩鎖関節靭帯断裂および脱臼で3か月間の絶対安静と診断された[10]。26日よりC.T.U解散に伴い稔、ミラノコレクションA.T.等と共闘を選択。後日に新ユニットRISEを結成した。
11月11日に復帰戦を行い、RISEを正式に始動させる[10]。
2008年1月4日、棚橋弘至を破り第48代IWGPヘビー級王者となった[5]。試合後に3代目IWGPヘビー級王座(IWGP 3rd)を所持するカート・アングルとの対戦を要求。2月17日にベルト統一戦を行い腕ひしぎ逆十字固めで勝利し3代目ベルトを奪還した[10] が、同ベルトに対する世間のイメージが悪くなってしまった為封印。新たに4代目のIWGPベルトが制作される事になった[12]。それに伴い「借りていた」かたちになっていた2代目IWGPベルトを、3月2日、ZEROONE-MAX後楽園大会に参戦時に橋本大地に手渡し橋本家へ返却した[13][14]。
3月20日、4代目ベルトを掲げた初の防衛戦で棚橋から勝利を収めるも[5]、4月27日に全日本プロレスの武藤敬司に敗れ、IWGPヘビー級王座から陥落しベルトの他団体への流出を許してしまう[5]。10月13日にリマッチ権を行使し武藤とのタイトルマッチに臨むも、フランケンシュタイナーでピンフォール負けを喫した。
2009年1月4日東京ドーム大会で後藤洋央紀と組み、プロレスリング・ノアの三沢光晴、杉浦貴組と対戦。杉浦から腕ひしぎ十字固めでタップを奪い勝利[5]。以降、ホーム・アウェイ問わず両団体での対抗戦で継続されていった。
2月15日に王座を奪回した棚橋弘至から指名を受ける形でIWGPに挑戦するも、ハイフライフローでピンフォール負けを喫する[5]。
3月1日にNOAHの日本武道館大会にミラノコレクションA.T.と共に参戦し杉浦貴、潮崎豪組と対戦。ミラノが潮崎にピンフォールを奪われ敗北。
4月5日、真壁刀義とのシングルマッチでレフェリー不在の中、矢野通が乱入し真壁を椅子で殴打。このアシストを経て真壁に勝利し、後日に矢野ら旧G・B・Hメンバーと共にCHAOSを結成[10]。コスチュームも黒のロングタイツに変更した。CHAOSの他のメンバーのようなあからさまな反則やヒール行為などは行っていないが、ファイトスタイルが今まで以上に殺伐としたものになった。
8月に行われたG1 CLIMAXでは全勝し決勝トーナメントで一番乗りを挙げるも決勝で真壁に敗れ準優勝[5]。G1終了後に、棚橋が怪我によりIWGP王座を返上。それにより9月27日、真壁とのIWGPヘビー級王者決定戦が急遽決定する。この試合に勝利し、第53代IWGPヘビー級王者に戴冠[5]。また試合後マイクを持ち「猪木ー!」と叫び物議を醸した[10]。
2010年1月4日、高山善廣と6年振りに対戦。ボマイェでピンフォール勝ちを収め4度目の防衛に成功した[5]。その後の5月3日に真壁刀義との防衛戦に敗戦[5]。この試合中真壁の雪崩式パワースラムを受けた際に、古傷である左肩を負傷。その後の興業でもテーピングを張って出場するが、ドクターストップがかかり治療に専念するため欠場に入る。6月19日に復帰。
8月のG1 CLIMAXに出場し最終戦で潮崎と対戦するも時間切れ引き分けに終わり予選落ち[5]。22日にNOAHに乗り込み再戦するも敗戦[5]。
10月、小島聡が真壁からIWGPベルトを奪取した際、次期挑戦者として逆指名される。のらりくらりと指名を拒み続けたが、頑なに嘆願する小島に結局会社の同意のもとでそれを承諾。12月11日のIWGP戦で小島に敗れた[5]。
2011年1月4日のレッスルキングダムVにて、潮崎と対戦し勝利[5]。対戦成績を五分に戻した。3月に開催されたNEW JAPAN CUPでは決勝にまで進出したが、永田裕志に敗れ準優勝[5]。
4月、永田との防衛戦を終えた直後の棚橋のマイクに対して「うっとうしくねえだろ」[15] と突っかかる形で返答し、IWGP王者挑戦をアピール。公約通りに5月3日の福岡大会で挑戦するも敗北[5]。この年から腕をダラリと下げて脱力するようなムーブを多用し始めた中邑に対し、前哨戦で棚橋は「あのフニャフニャした動きは好きじゃない」と発言すると、中邑も「フニャフニャじゃなくて、クネクネしてるだけだろ」と応戦。試合後も中邑は、「また立ちあがればいいんだろ。悪いけど、折れないんでね、オレの心は。こんなクネクネしてるんでね」と発言。この時期を境に、中邑独特のムーブに対して「クネる」という表現が使われるようになる。
8月のG1 CLIMAXでは、自身の出場ブロック(Bブロック)で、最終戦までに勝ち点が5人並ぶ混戦となったが、最終戦の対戦相手であり同点で並んでいた鈴木みのるとの事実上の決勝進出決定戦に勝利。決勝戦では内藤哲也を破り初めて優勝した[5]。
2012年7月22日、KIZUNA ROAD最終戦にて、後藤洋央紀が保持するIWGPインターコンチネンタル王座(以降IC)に挑戦。勝利を収め、第4代王者に輝いた[5]。しかし、試合後のコメントで同王座のデザインに対して酷評し、会社に対して作り直しを要求。ベルトの革の部分を白くする変更がなされた[16]。このインターコンチ王座初戴冠により、中邑は同王座を輝かせることになる。8月26日、アメリカ・カリフォルニア州に拠点を置くSWFに参戦。同団体で新たに製作されたIC王座を賭けて、オリバー・ジョンと対戦し、初防衛に成功した[5]。
12月10日、プロレス大賞技能賞を受賞。
2013年1月4日、レッスルキングダム7のダブルメインイベントに登場し、IC王座選手権試合で桜庭和志を破り、4度目の防衛に成功[5]。その後も挑戦者たちを退け、防衛回数を8までに伸ばす。5月31日のCMLL遠征時に行われたタイトルマッチでラ・ソンブラに敗れ、一度は王座を手放すも[5]、7月20日のKIZUNA ROAD 2013最終戦で再びIC王座を奪取し、第6代王者に返り咲いた[5]。下半期は3度の防衛を達成する。
2014年1月4日、レッスルキングダム8で棚橋と対戦して敗北し、IC王座から陥落[5]。2月9日のTHE NEW BEGINNING in HIROSHIMAでリマッチを敢行したが、ここでも敗北[5]。
3月、NEW JAPAN CUPに出場し、決勝戦でバッドラック・ファレと対戦し、BULLET CLUBの介入に苦しめられ、終盤には額から流血しながらも、ファレを下して初優勝[5]。今大会の優勝者にはIWGPヘビー級王座とIWGPインターコンチ王座のいずれかに挑戦できる権利が与えられ、中邑はICを選択する。
4月6日、INVASION ATTACKで棚橋と再戦。この試合に勝利を収め、第8代王者に返り咲いた[5]。
5月25日、横浜アリーナにて、12年前に総合格闘技ルールで敗れたグレイシー一族のダニエル・グレイシーにIC初防衛戦で勝利を収めた[5]。しかし、6月21日、バッドラック・ファレに敗れIC王座から陥落した[17]。
8月10日、G1 CLIMAX 24 優勝決定戦西武ドーム大会でのメインイベントにて、同門CHAOSのオカダ・カズチカと対戦したが、敗北を喫し、準優勝となった。
9月21日、ファレの持つIC王座戦のリマッチに勝利し、第10代王者になった。10月13日の試合後、柴田勝頼を挑戦者に逆指名し対戦が決定。11月8日、柴田に勝利して初防衛に成功。試合後に飯伏が乱入して中邑をジャーマンスープレックスで投げ捨て、挑戦を表明。中邑はこれを受諾した。
2015年1月4日、レッスルキングダム9で飯伏幸太とのIC戦で2度目の防衛に成功。翌5日、後楽園ホール大会において、永田が中邑の持つICに挑戦表明し、2月14日、仙台サンプラザホールにて防衛戦を行い、3度目の防衛に成功した。
3月のNEW JAPAN CUP終了後、同大会準優勝に終わった後藤洋央紀に6人タッグマッチで勝利。試合後に後藤を「存在が薄い」「透明人間」と挑発。しかし、4月5日の両国大会で、後藤からピンフォール負けを奪われると、5月3日のレスリングどんたくで後藤に破れIC王座から陥落することとなる。7月5日、大阪城ホール大会で、忍者の衣装で入場し、後藤とのICのリマッチに挑んだが、敗北した。
8月のG1 CLIMAX25に出場中、左肘を負傷するも途中から戦線復帰し、Bブロック首位のオカダからタップを奪いBブロック首位となり、2年連続で優勝決定戦進出を決める。Aブロック首位の棚橋弘至との優勝決定戦を激闘の末、敗北し、惜しくも準優勝となる。試合後、棚橋弘至とリング上で握手し、勝利を称えた。
9月27日、DESTRUCTIONinKOBEにてG1で勝利を収めた後藤洋央紀から指名される形でIC戦を行いこれに勝利して第12代王者に返り咲く。試合後、BULLETCLUBのカール・アンダーソンとドク・ギャローズが乱入し、アンダーソンが挑戦を表明する。
11月7日、POWER STRUGGLEにて、カール・アンダーソンとIC戦を行い、セコンドについたBULLET CLUBに苦しめられながらも勝利し、王座を防衛する。試合後、AJスタイルズが海野レフェリーからベルトを取り上げ、挑戦を表明しながら中邑にベルトを手渡す。中邑はこれを受け入れ、WK10にてAJスタイルズとIC戦を行うことが決まる。
2016年1月4日、レッスルキングダム10にてAJスタイルズと対戦。激闘の末ピンフォール勝ちを収め、試合後は拳を合わせて健闘を称えあった。
1月7日、東京スポーツの取材により新日本プロレスを退団することが明らかになる[18] が、日刊スポーツの報道によれば、新日本プロレス側は「まだ何の話もしていない」と移籍を否定していた[19]。しかし、12日、新日本プロレスより正式に退団と発表された[20]。その後、WWEに移籍してファーム団体であるNXTにて4月1日のTakeoverでデビューすることがWWE公式より発表された。移籍により所持していたIWGPインターコンチネンタル王座は返上となった。
1月30日、後楽園ホール大会で「中邑真輔 壮行試合」と銘打ち、オカダ・カズチカ、石井智宏と組んで、棚橋弘至、後藤洋央紀、柴田勝頼組と対戦。石井が柴田から勝利を収め、試合後はCHAOSメンバーからの祝福を受け、大会を締め括った。同日を以って新日本プロレスを退団。それに伴いCHAOS脱退。なお、同年は年頭より中邑だけでなく、AJや飯伏らの主力も新日本を退団している。
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2016年2月4日、リングネームを本名名義でデビューする事が発表された[21]。同月22日、ハードロックカフェ東京にてWWEと正式に契約を交わした事に関して入団会見を行った。モニターを使用して渡米した際にWWE本社にてビンス・マクマホン、トリプルH、ステファニー・マクマホンと会話を交わし、WWEパフォーマンスセンターに訪問した際にはASUKA、ヒデオ・イタミといった日本人レスラーやフィン・ベイラー、マシュー・ブルーム、マニー・アンドラーデといった新日本プロレスで苦楽を共にした人物達と顔を合わせた。最後にファンに送るメッセージとして「中邑真輔を世界にぶつけていきたいと思います。イヤァオ!」とコメントした[22][23][24]。なお、WWEから初めて接触があったのは2014年ごろで、当初は断っていた。移籍の決め手はIWGP主義者だった中邑がインターコンチ王座の価値として上げることに成功させてしまい、個人としても団体としても多様性を認める価値観に変わってしまったこと。赤字返済報告を受け、新日本プロレスは大丈夫だと思えたタイミングだったことなどを、のちのインタビューで回答している[25]。
3月16日、NXTにてリング上でサミ・ゼインがマイクアピールをしているところへGMであるウィリアム・リーガルが登場。NXT Takeover Dallasでサミに見合う相手として世界でトップに入る男であると紹介されるとタイタントロンに映し出され、" See you in Dallas, when Shinsuke Nakamura takes over! "とコメントした[26]。4月1日、NXT Takeover Dallasにてサミ・ゼインと対戦。脱力ロープブレイク、バイブレーション式踏み付けなど新日本プロレス時代の定番となっていたムーブを披露し、終盤にセカンドロープから後頭部にダイビング式キンシャサ、そして正調式キンシャサを決めてNXT初勝利を飾った[27]。同月7日、NXT Liveにてフィン・ベイラーと組んでバロン・コービン & タイ・デリンジャーと対戦。最後にベイラーがデリンジャーに1916を決めて勝利した[28]。
5月25日、NXTにてリング上で6月8日にNXT Takeover The EndでNXT王座戦の勝者に挑戦する事を宣言したオースチン・エリーズに対してバックステージより登場。「挑戦するのはグレイテストであるエリーズではなく、キング・オブ・ストロングスタイルで自身である」と発言するとGMであるウィリアム・リーガルが登場。NXT Takeover The Endでの対戦が決定した[29]。6月8日、NXT Takeover The Endにてオースチン・エリーズと対戦。序盤より蹴り技で試合を組み立てるがエリーズより膝を集中して攻められると劣勢となり苦戦するが痛めているにも関わらず膝での攻撃を強行。最後にはジャンピング・キンシャサからキンシャサへと繋げて勝利した[30]。
7月1日 - 2日、東京・両国国技館で行われたWWE Live Japanで凱旋帰国。1日はクリス・ジェリコに、2日はケビン・オーエンズに勝利した[31][32]。
8月20日、NXT TakeOver: Brooklyn IIにてNXT王座を保持するサモア・ジョーに挑戦。勝利してベルトを奪取した[33]。
12月2日、大阪府立体育会館で行われたWWE Live Japanで凱旋帰国。NXT王座を保持するサモア・ジョーに挑戦。王座を奪還した[34]。
2017年4月4日、WWEに昇格。SmackDownにてザ・ミズとマリースがリング上にてジョン・シナとニッキー・ベラのコスプレをしてマイクパフォーマンスをしているところにバックステージからヴァイオリニストのリー・イングランド・ジュニアと共に登場を果たした[35][36]。5月21日、Backlash 2017にてドルフ・ジグラーを相手にWWEデビュー戦を行い勝利した[37]。8月20日、SummerSlam 2017にてWWE王座を保持するジンダー・マハルに挑戦。日本人初の王座戴冠を目指すがシン・ブラザーズ(サミル・シン & スニル・シン)が乱入して、彼らを蹴散らした隙を突かれて敗戦した[38][39]。8月22日、ニューヨーク州ブルックリン区のバークレイズ・センターでシン・ブラザーズと1vs2ハンディキャップマッチを行った。シン・ブラザーズは2人で一遍にけいれん式ストンピング、コーナーに乗せられて膝蹴りを食らわせ、最初は中邑を劣勢に追い込むも、サミルを三角絞めでタップを奪って勝利。2分48秒での決着であった。かつて乱入により自身の試合を妨害した相手に勝った中邑は試合後「オレはマハラジャに勝ちたいわけじゃない。マハルに勝ってWWE王者になりたいんだ」と宣言[40]。10月8日、スマックダウンPPV大会でジンダー・マハルと対戦。3度目のWWEヘビー級王座タイトルマッチとなったが、シン・ブラザーズの妨害もあり背後から捕獲されカラスを決められ、3カウントを奪われた[41]。
1月28日、ロイヤルランブルのロイヤルランブルマッチで14番目に出場。試合終盤に中邑、ジョン・シナ、ロマン・レインズの3人が残りまずシナを撃破、その後レインズからスーパーマンパンチとスピアーをくらうがなんとか耐えて最後はキックをしてふらついているレインズを落とし、優勝を飾る[42]。
4月8日、WrestleMania 34におけるWWE王座決定戦で、王者のAJスタイルズに挑戦、キンシャサをカウンターでスタイルズ・クラッシュに切り返されフォール負け。タイトル獲得を逃す。試合後、一度はスタイルズと抱擁、その後跪きチャンピオンベルトを渡すも、ベルトを掲げたスタイルズをローブロー、悶絶し倒れたスタイルズに日本語で罵声を浴びせながら場外に蹴り出し、最後はキンシャサを決めヒールターンを果たす[43]。
7月15日、エクストリーム・ルールズのWWE US王座選手権試合で試合前に王者のジェフ・ハーディーに対してレフェリーの死角を突いて急所攻撃を敢行。レフェリーが試合の安否を確認して開始した直後にキンシャサを見舞いUS王座を奪取した[44]。
2019年1月27日、Royal Rumble 2019 KickoffでWWE US王者のルセフに挑戦。ルセフが倒れている間にリングのターンバックルを取ろうとする仕草を見せてルセフのマネージャーのラナに体当たりを誤爆させると後頭部へのキンシャサを決めて勝利。リベンジを果たすと同時に王座を戴冠した[47]。
1月29日、SmackDown LiveでR・トゥルースとWWE US王座戦を行い敗戦。わずか2日で王座から陥落。
7月14日、Extreme Rules 2019 KickoffでWWE IC王者のフィン・ベイラーに挑戦。終盤にベイラーのクー・デ・グラを避けると背後からのキンシャサ、そして正調式キンシャサと決めて勝利。王座を戴冠した[48]。
1月26日、ロイヤルランブルマッチで11番目に出場。キンシャサを決めようとしたところをブロック・レスナーに捕らえられ、そのまま投げ出されて脱落した。
1月31日、SmackDown Liveでブラウン・ストローマンとWWE IC王座戦を行い敗戦。王座から陥落[49]。
その後はサミ・ゼイン、セザーロとヒールユニットを組み、3月8日のエリミネーション・チェンバーでIC王者のストローマンと3対1のハンデ戦でIC王座戦を行う。数的有利を活かし終始優勢に立ち回り、ゼインの戴冠をアシストした。
7月19日のエクストリーム・ルールズにて、セザーロと組んでニュー・デイの保持するスマックダウンタッグ王座にテーブルマッチで挑戦。セザーロが場外に立てられた2段のテーブルの上にコフィ・キングストンを叩きつけるパワーボムを決めて勝利。WWE入団以降で初となるタッグ王座を戴冠した。
9月28日、ルチャ・ハウス・パーティー(カリスト&リンセ・ドラド&グラン・メタリック)と対戦し王座防衛に成功。
10月9日、ニュー・デイとのタイトルマッチで敗れ、王座から陥落した。
1月8日、ケビン・オーエンズの負傷によって行われた、ガントレット形式でのWWEユニバーサル王座次期挑戦者決定戦に出場するも、ローマン・レインズの妨害にあい敗北。また、この試合を機に徐々にフェイスターンを果たす。
8月13日、スマックダウンでアポロ・クルーズを倒し、2度目のWWEインターコンチネンタル王座を獲得した。
1月30日、ロイヤルランブルマッチで2番目に登場。1番目に登場したAJスタイルズにより脱落させられた。
2月18日、スマックダウンにてセミ・ゼインとタイトルマッチを行い敗北。WWEインターコンチネンタル王座を失った。
4月2日、レッスルマニア38にてリック・ブーグスとタッグを組み、ウーソズが保持するスマックダウンタッグチーム王座に挑戦。試合中にブーグスが足を負傷するというアクシデントが起き、孤軍奮闘するも敗れる。
6月3日、スマックダウンにてマット・リドルとチームを組みウーソズの持つ統一タッグチーム王座に挑戦したが、今度は中邑が足を負傷してしまいタイトル獲得とはならなかった。
8月12日、スマックダウンにてグンターの持つWWEインターコンチネンタル王座に挑戦するが敗北。
10月14日、同月1日に亡くなったアントニオ猪木の通夜・告別式出席のため一時帰国[50]。
10月18日、5年ぶりにNXTに登場。チャニング“スタックス”ロレンゾ相手にフォール勝ちした[51]。
1月1日、日本武道館にて行われる、プロレスリング・ノア『ABEMA presents NOAH “THE NEW YEAR” 2023』にてグレート・ムタと対戦した。日本での試合は2019年のWWE日本公演以来、国内団体での試合は2016年1月30日・新日本プロレス壮行試合以来であり、WWE所属になってからは初となる[52]。
4月14日、スマックダウンにて復帰しマッドキャップ・モス相手に勝利する。
キャリア初期は関節技を主体とした総合格闘技色が強かった。その後、肉体改造を行って身体を大きくしパワーファイトも行うようになる。CHAOS結成後からはキックや膝蹴りなどの打撃技と大きな受け身を主体とし、加えて近年では入場時や試合中に随所でクネクネと体を脱力させる独自のムーブや唯一無二の言動は総じて「キング・オブ・ストロングスタイル」と称される[53]。2017年の専門誌によると「"キング・オブ・ストロング"が観客の絶大な支持を獲得」と評されている。
出典[55]
総合格闘技 戦績 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
5 試合 | (T)KO | 一本 | 判定 | その他 | 引き分け | 無効試合 |
3 勝 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 |
1 敗 | 0 | 1 | 0 | 0 |
勝敗 | 対戦相手 | 試合結果 | 大会名 | 開催年月日 |
○ | アレクセイ・イグナショフ | 2R 1:51 ギロチンチョーク | ROMANEX 格闘技世界一決定戦 | 2004年5月22日 |
- | アレクセイ・イグナショフ | 3R 1:19 無効試合 | K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!! | 2003年12月31日 |
○ | シェーン・アイトナー | 1R 4:29 V1アームロック | Jungle Fight 1 | 2003年9月13日 |
○ | ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤ | 2R 3:12 ギロチンチョーク | 新日本プロレス ULTIMATE CRUSH | 2003年5月2日 |
× | ダニエル・グレイシー | 2R 2:14 腕ひしぎ十字固め | INOKI BOM-BA-YE 2002 | 2002年12月31日 |
中邑はペインティングを得意としている。学生時代からレスリング部と美術部を掛け持ち、双方で活躍してきた。岡本太郎にインスパイアされWEB上で彼の描く「プロレスラー」という作品が公開されている。そして自ら描いた100点を越える絵画をもって、絵画展を主催したことがある。またNHKEテレ「デザインあ」の『デッサンあ』のコーナーにも出演したこともある。ジャーナルスタンダードやRVCAなどのアパレルにデザインを提供している。
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