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日本の漫画作品 ウィキペディアから
『愛と誠』(あいとまこと)は、原作:梶原一騎・作画:ながやす巧による日本の漫画(劇画[注 1])。『週刊少年マガジン』(講談社)にて1973年3・4合併号から1976年39号まで連載された[1]。1975年に講談社出版文化賞児童まんが部門を受賞[1]。累計部数は500万部を突破している[2]。映画化・テレビドラマ化・ラジオドラマ化などもされている。
不良少年の太賀誠、財閥令嬢の早乙女愛、二人の純愛を描いた学園青春漫画[1]。冒頭にて、元インド首相ジャワハルラール・ネルーが独立運動家時代に獄中から娘(後の首相インディラ・ガンディー)へ宛てた手紙が引用されており[3]、それに含まれる「愛」と「誠(誠実)」という言葉がタイトルの由来にもなっている。なお、この手紙の文章は、テレビドラマ版のオープニング・ナレーションとしても使用された。
本作品は『週刊少年マガジン』第4代編集長の宮原照夫が編集長に就任する以前から、梶原一騎の持つ繊細な部分に着目し「父と子のドラマ、子弟のドラマはもうやっている。読者である少年たちが、それら以外に出会う重要なドラマは何か。女性です」と持ち掛けたことにより誕生した[3]。両者は、木下惠介監督の映画『野菊の如き君なりき』やイワン・ツルゲーネフの小説『初恋』を参考にして構想を温めていた[3]。本作品は作画を務めたながやす巧の筆致もあって[3]、少年誌に連載された純愛物の先駆けとなり一世を風靡[4]。ヒロイン・早乙女愛が幼き日の太賀誠を回想して語った「白馬の騎士」や、その早乙女愛への報われない愛を貫く優等生・岩清水弘のセリフ「きみのためなら死ねる」などが流行語になった[4]。また、それまでスポ根ものの第一人者という評価がついて回っていた梶原にとっては、そのイメージから脱却する転機ともなった[3]。
単行本は、雑誌連載中に講談社コミックス(KC)として順次発売され、最終的に全16巻が出版された。その後、講談社漫画文庫(全16巻)、KCスペシャル(全13巻)、KCデラックス(全10巻)などの形で再出版された。
なお、漫画は全4部構成になっており、連載中に何度か小休止をはさんでいる。
梶原の自筆原稿は『あしたのジョー』の一部を除いてほとんどが消失しているが、本作については、全175話のうち第12、35、55話の一部と第74話を除いたものが現存しており、風塵社から1997年に「梶原一騎直筆原稿集『愛と誠』」(ISBN 4938733366)として発売された。
2018年には、ながやす巧の自筆原稿のうち、外部に貸し出した後、行方不明となった15枚のうち1枚とみられる原稿がまんだらけのネットオークションに出品された。ながやすサイドは購入しないことを呼び掛けるも、400万円で落札された。この扱いにながやすサイドは落胆のコメントを発表したが、まんだらけサイドは原稿紛失を起こした講談社側の問題であるとして出品を特に問題視しなかった[5]。
信州の蓼科高原で早乙女愛(さおとめ あい)が偶然出会った不良青年・太賀誠(たいが まこと)。彼は幼い頃、愛の命を救った時、額に大きな傷を負ったばかりでなく両親や自らの人生さえも壊れてしまう。その償いとして誠を東京の高校へ転入させ、更生させようとするが、傷を負わされた誠の怒りは強く、逆に暴力で学園を支配しようと企む。しかし愛の献身的な行為により、これを阻止されると誠は関東一の不良高校・花園実業へと転校する。愛、そして彼女を愛し陰から支える男・岩清水弘(いわしみず ひろし)も花園へ移り物語は新たな展開を示す。
学園を支配する影の大番長・高原由紀(たかはら ゆき)、座王権太(ざおう ごんた)との対決、そして第3勢力の砂土谷峻(さどや しゅん)の登場。学園を舞台に誠と砂土谷の最後の対決が始まった。自分を捨てた母との悲しい再会ゆえに命を捨てて挑む誠の気迫に砂土谷は敗れた。束の間のやすらぎは長くは続かない。
次は愛の父が汚職事件に巻き込まれ逮捕、母は実家に戻り、かつてない苦況に立たされる。単身事件の解決に乗り出す誠は得意の喧嘩殺法で事件の首謀者達を叩きのめした。やがて検察の手で黒幕の総理が逮捕され、全てが解決されたその時、再び姿を現した砂土谷のナイフが誠を貫く。負傷した体を引きずり愛の待つ海岸へ向かった誠は、最後の力をふり絞り愛を抱きしめ初めての口づけを交わす。太賀誠と早乙女愛にようやく訪れた幸福な時は、今訪れ、そして…終わった。
漫画編集者・評論家のササキバラ・ゴウは本作について、学生運動の頓挫、オイルショックの影響による高度経済成長の終焉といった社会情勢を反映したものだとし、主人公の太賀誠については「『あした』を見失ったあげく、内ゲバをするしかなくなった時代の空気がそのまま投影されているかのよう」と評している[6]。ヒロインの早乙女愛をめぐって太賀と関わることになる岩清水弘も合わせて、「生きる目標を失った者が、最後に残った唯一の価値として『愛』にたどりついて、もがき苦しんでいるかのよう」と評している[6]。
弥生美術館学芸員の松本品子は本作について「少年漫画誌における純愛学園ものの先駆け」としつつも、「ロマンチックなシーンはほとんどなく、乱闘シーン続出の硬派な作品」と評している[7]。
漫画家の塀内夏子は本作や『おれは鉄兵』の読者だったが、周囲にはすでに番長は存在しなかったとし、「「愛と誠」って一種の学園ファンタジーだったのかも‥‥」と評している[8]。同じく漫画家の山下てつおは「誠のようなかっこいい男を描きたいとつねに思っています」[9]「「愛と誠」を読まなければボクはマンガを描いていなかったかもしれません」と評している[8]。
『愛と誠』。1974年7月公開、松竹映画。
1973年の上村一夫の漫画『同棲時代』の映画化『同棲時代 ―今日子と次郎―』で大当たりをとった松竹が[19]、同じ純愛物である本作を「柳の下のどじょう」を狙い映画化[19]。監督は『同棲時代 ―今日子と次郎―』と『しなの川』をヒットさせた山根成之。主演の大賀誠役は、連載中の漫画を読んで映画化されると聞き、原作の梶原一騎に直談判して役を勝ち取った西城秀樹[19][20][21]。当時、人気絶頂の西城の意気込みは並々ならぬものがあったが、予期せぬ異変にぶつかった[19]。「愛と誠」の読書層から「人気歌手の片手間仕事に"愛と誠"を渡さないで下さい!」「大事にしてるイメージが崩れる!」「わずかの原作料がそんなに欲しいか!」など、西城拒否の投書が梶原や週刊少年マガジン編集部にも山積する事態となった[19]。「あしたのジョー」の助命嘆願の投書でこうした事態も経験済みではあったが、劇画ファンの思い入れの烈しさ、一途さには梶原らも改めて驚かされた[19]。この騒動に西城が週刊少年マガジン誌上で「スクリーンの西城"誠"を見てくれ!」と受けて立つ一幕もあった[19]。
もう一つの難題は西城の相手役"愛"の女優の人選。愛役は誰しもやりたいが、世の狂熱的ヒデキ・ファンを敵にまわしたくない、カミソリ入りの封書など送り付けられたくないなどの理由でどの女優にも断られ、キャスティングは難航した[19]。仕方なく松竹は愛役を一般公募とした[19]。人気絶頂の西城の相手役ということもあり、全国から約4万人が応募[22][23][24]。1974年5月10日に日本橋三越で開催された公開決戦審査会では[25]、最終審査15人の中で[25]、監督の山根は「鹿児島訛りが使い辛い」と反対したが[19]、審査員だった西城と週刊少年マガジンの宮原照夫編集長の意見が一致し[19]、ヒロイン名をそのまま芸名にした早乙女愛が選ばれた(賞金100万円)[25][20][22][26]。梶原は早乙女が審査会場で「ヒデキ・ファンじゃないわ」と公言したと話しているが[19]、早乙女は1983年の『週刊朝日』のインタビューでオーディションに応募した理由を「タダで東京へ行けて、西城秀樹さんにも会えるから」と述べている[27]。
誠の好対照の優等生・岩清水は当時のイケメン俳優・仲雅美が演じた[28]。仲は「君のためなら死ねる!、なんて僕のキャラクターじゃないから、絶対にイヤ」と抵抗したが、監督の山根に「他に適役が見つからない」と押し切られたという[29]。原作でも名場面の一つだった度胸試しにグラウンドにナイフを立てて、それを見ないで仰向けに倒れて、ナイフに近い方が勝ちになるタイマン勝負のシーンは、本物のナイフを立てて、仲と西城が吹き替えなしで演じた[29]。仲は「あれは本当にナイフを立てて後ろから倒れたんですよ。西城君もよくやったと思います。これをやってたら、役者っていうのはいつか大怪我をするなと思いました」と述べている[29]。
それまで"スポ根"作家だった梶原一騎初の"メロドラマ"で、注目度の高い西城主演映画でもあり、コケると目立つ恐れもあって、梶原は絶対に成功させなければならないという思いから、初稿シナリオを数10ヵ所をチェックし、監督にもプロデューサーに何度もダメ出しした[17]。梶原はそれまでの自身原作の映像化作品には、ほとんど口を出していなかった[17]。また主演の西城も「愛と誠」ファンからの「歌手の片手間仕事は迷惑」と思わぬボイコットの突き上げを食らったことから、ムキになって熱演し、ロケ現場を見学した梶原は宮原照夫編集長と「劇画の地位も向上したんだな」と感慨を分かち合った[17]。
内容は西城秀樹の"アイドル映画"的な趣きではあったが[30]、アンチ・ヒデキであろうが「愛と誠」ファンが映画化には無視できず、加えて狂熱的ヒデキファンの大群が「われらのヒデキにケチつけるとは何事か、見返してやる」とばかり大挙劇場に殺到し大ヒットした[17]。新宿の映画館では劇場のドアが閉まらず、消防車が出動した[17]。1974年の松竹作品観客動員ベスト3に入った[31]。松竹の看板シリーズ「男はつらいよ」や[32][33]、『砂の器』並みの[33]配収9億円[32]配収7億円[33]を挙げ、映画業界に「劇画恐るべし」という認識を与えた[17]。松竹は1975年の製作方針として青春路線の増産を決定し[33]、本作続編を皮切りに1975年に11本の青春映画の製作を決めた[33]。
本作の大ヒットにより、それまで単なる"劇画作家""スポ根"作家だった梶原一騎に「愛と誠」のテレビドラマ化の話が持ち込まれた[17][34]。本映画同様、愛役の選定にオーディションが行われ、梶原独断で池上季実子がヒロインに選ばれ、梶原が池上を当時の所属劇団から引き抜き[17][35]、梶原プロダクションを設立した[35]。梶原は次いで「三協映画」を共同で設立して映画の製作にも乗り出し、梶原の原作作品が各映画会社で実写化されたことで、"劇画作家"から、映画プロデューサー、芸能プロダクション社長として芸能界に顔を効かせるようになった[36]。しかし事業経営や管理者としては素人な梶原は、多忙にさらなる多忙を重ね、本業である原稿執筆に悪影響を及ぼした[37]。本作以降はヒット作にも恵まれず、連載も短命が続いた[37]。芸能界でも映画界でも段々勢いも落ち、その苦悩からいら立ち、プライベートでの酒と暴力、女性問題に繋がり、後に語られる"狂気の時代"へ突入していく[37]。梶原にとっていい意味でも、悪い意味でもエポックとなったのが本作であった[37]。
漫画劇画作品の実写映画化は、東宝が1940年代から「サザエさんシリーズ」、東映が1960年代に児童向け忍者映画などを製作した[38]。漫画を原作とするアニメーション映画が劇場で公開されるのは『鉄腕アトム』や「東映まんがまつり」など1960年代から始まったものだが、実写映画化は1970年代に入ってTVアニメに並行、あるいは後を受ける形で目立って増えた[38][39]。これは映画各社がテレビと洋画の台頭によって、売り上げを大きく落とし、自社で企画する能力を失ったという背景がある[38]。「学園不良映画」最初の実写化といわれる1971年の『男一匹ガキ大将』を始め[30]、「学園不良もの」は多数実写化されたが本作『愛と誠』は「学園不良もの」最大のヒット作ともいわれる[30]。他にも、本作と同じ梶原原作による『あしたのジョー』の実写化や、珍作『ルパン三世 念力珍作戦』、『子連れ狼』『女囚さそり』『ハレンチ学園』『高校生無頼控』『ダメおやじ』『嗚呼!!花の応援団』など、映画各社が続々と実写映画化し大ヒット作品も生まれた[38][39]。特に"不良映画"を得意とする東映がこのジャンルに最も力を注ぎ『男組』など数多く実写映画化した[38]。実写映画化される作品は、"セックス"と"暴力"をテーマとする作品が多かった。
『続・愛と誠』。1975年3月公開、松竹映画。併映作は「再会」。
第一作の大ヒットに気をよくした松竹は『男はつらいよ』のように、秀樹主演でシリーズ化しようと構想した[37]。当初は1975年のゴールデンウイーク公開を予定していたが、第一作の大ヒットにより、新星・早乙女愛のネームバリューが薄れないうちに、という判断がなされ[32]、映画封切りを1975年の春休みに繰り上げた[32]。早乙女は鹿児島在住の高校生で度々の上京が容易でなく、映画の撮影は長い休みが取れる時期しか不可能なため、撮影は必然的に早乙女の冬休みとなり、年末年始に急に西城のスケジュールが取れるわけもなく[27]、やむなく今度は太賀誠役の方を一般公募することになった。最終審査のオーデイションには51人が集まり、「線は細く見えるが、原作のイメージにぴったり」という理由で南条弘二が選ばれた。南条は当時"小林弘二"という名前でNHKの『銀座わが町』にレギュラー出演した他[33]、東芝から「初恋の海は遠い」で歌手デビューもしていた[32][33]。"南"条という芸名は、"西"城にあやかり、苗字を南条と改名した[37]。南条は日大桜ヶ丘高校を卒業したばかりの19歳[33]。松竹は「藤岡弘を若くして線を細くした感じ。マスク、不良性とも西城に勝るとも劣らないタレント性を持っている」などと吹聴した[33]。
松竹は1975年の製作方針として青春路線の増産を決定していたが[33]、西城の穴はどう考えても大きく[33]、不発に終わるようなら青春路線の継続も難しくなることから[33]、西城に代わる話題性が欲しい松竹は[33]、東映の"秘蔵っ子"スターといわれた多岐川裕美を高原由紀役として貸し出しに成功した[33]。
一作目に誠役を演じた西城は本質的には陽性キャラで、暗い情熱の炎を燃やす誠役にはミスマッチで、内容もスポーツで決闘するという不良っ気の薄い健全なストーリーになったが、続編である本作は劇画のクライマックス部分を映像化したことで、よりハードにバイオレンス度が高まった[28]。南条は陰気でイマイチだったが、花園実業の影の大番長・高原由紀を演じた多岐川裕美の好演や、リンチシーンのハードさと相まってエクストリームな不良映画となった[28][39]。
早乙女が一作目に西城の相手役に決った直後には、やっぱり早乙女にカミソリ入りの小包がごっそり送り付けられたが[31]、相手役が代わったことで今度は編愛的な西城ファンから励ましの手紙がたくさん来るようになった[31]。また第一作封切後は、早乙女の許に多い時で300通、平均180通にファンレターが届くようになった[31]。第二作の製作が決まった時点で、既に第三作の企画も挙がり、1975年夏に撮影を予定していると公表された[31]。また歌手デビューの計画も合わせて公表された[31]。
早乙女の学校の都合で撮影日数は23日[41]。うち早乙女の拘束期間は12日間程度[42]。松竹大船撮影所近くの旅館に泊まり、撮影所を往復した[42]。
1975年1月15日、クランクイン[31]。休日返上の連日の夜間撮影の強行スケジュール。新人養成監督と異名を持ち、早撮りでは定評のある山根監督も「わたしもしごかれています。スケジュール優先で、作品まで潰されてはたまりません」と不満を漏らした[41]。
多岐川扮する高原由紀が入水自殺するシーンのロケは1975年2月13日、千葉県長生郡白子町の浜宿海岸で行われた[43]。東映の"秘蔵っ子"といわれた多岐川を借り出した松竹の扱いは丁寧そのもので、海岸に風呂場を5個も用意し、持ち込んだプロパンガスで臨時浴場を作り、海から上がった多岐川をすぐ温められるように万全の態勢[43]。まだ寒い時期で海から上がった多岐川の唇は真っ青だった[43]。多岐川は「私の短い作品歴の中で代表作になれる気がしてるんです」と話した[43]。
『愛と誠・完結篇』。1976年9月公開、松竹映画。
3代目誠を演じたのは、シャープなルックスの加納竜[28]。オープニングのバイクスタントをはじめ、アクション要素を前面に立て、政界黒幕の陰謀事件を絡ませるなど、一作ごとに不良度を増す珍しいシリーズになった[28]。
『愛と誠』は2012年6月16日公開の日本映画。第65回カンヌ国際映画祭ミッドナイトスクリーニング部門での正式招待作品[45][46]。監督は『十三人の刺客』の三池崇史。主演は妻夫木聡と武井咲。
1970年代の日本歌謡曲のミュージカルナンバーやダンスを用いたミュージカル調の映画である[47]。アラサーの俳優陣が高校生役を務めるなど、"梶原イズム"のパロディとも評される[28]。キャッチコピーは「天使が悪魔に恋をした」。
2012年6月16、17日の初日2日間の映画観客動員ランキング(興行通信社調べ)は初登場第11位となっている[48]。
脚本オファーを受けた宅間孝行は、原作の持つ破滅的な行動を取り続ける男とそれに寄り添い続ける女の純愛の一点のみを貫き通した世界観を、今日ダイレクトに描くと、その時代を知らない人が観たらコメディ映画になってしまう恐れがあると考えた[50]。それで現代と過去を融合させるバズ・ラーマン的世界にヒントを得て、当時を知らない役者が70年代歌謡曲を唄い踊るミュージカル映画にしたいと考えた[50]。このアイデアに難色を示す関係者もいたが、原作者・梶原一騎の弟・真樹日佐夫が理解を示したことにより進行できることになった[50]。ミュージカル映画を想定したとき、同時に宅間の頭に浮かんだのが1986年と1987年に日本テレビで放送された『メリー・クリスマス・ショー』で[50]、高校生の時楽しんで観た宅間は、この番組に参加していた小林武史に音楽を頼んだ[50]。こうして『メリー・クリスマス・ショー』のように俳優が1曲、役のテーマ曲を唄うという音楽ショーのような台本を書き上げた[50]。出演者はまだ一人も決まっていない段階だったが、宅間と小林は二人でカラオケに行き、当時の流行歌を聞きまくり、1曲1曲決めていった[50]。但し、太賀誠は西城秀樹の『激しい恋』と宅間が既に決めていて、宅間は2009年のNHK朝ドラ『つばさ』で西城と共演しており、ホンを書くなら映画版第一作で太賀誠を演じた西城のオマージュを入れたいと考え、西城の曲で一番好きな『激しい恋』を採用し、小林に現代風にアレンジしてもらった[50]。宅間は1970年生まれのため、70年代は青春期には浴びてはいないが、大きくひっくるめて"昭和の映画"の自由さをリスペクトしたという[50]。
1974年にドラマ化。東京12チャンネル(現:テレビ東京)で放映。
映画一作目の大ヒットにより、テレビドラマ化がなされ[17]、主役・愛役のオーディションで当時まだ15歳の池上季実子が選ばれた[17][35]。相手役の誠を演じる夏夕介は当時すでに24歳であった。池上は主題歌も歌った。本作の四国ロケ中の池上の誕生日に祖父の八代目 坂東三津五郎がフグにあたって急逝したが、「帰らせてほしい」とは一言もいわず撮影を続けた[17]。
映画版にはないケンカシーンの監修に梶原の実弟・真樹日佐夫を起用し、本格的な極真空手の動きを殺陣に取り入れた[51]。しかし、子供たちに悪影響を与えるとの抗議があり、さらにスタッフがギャラ未払いに対してストライキを行うという状況に陥ったため、半年で打ち切られた。
アニメ製作プロダクションである東京ムービーがテレビドラマ製作を手掛けた唯一の作品だが、現場における下請製作は『電人ザボーガー』の友映がノンクレジットで担当していた[52]。監督の中西源四郎は、『ザボーガー』で助監督から監督に昇進したのち本作品へ参加した[52]。
ほか
放送日 | 話数 | サブタイトル | 脚本 | 監督 |
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1974年 10月4日 |
1 | 愛は平和ではない | 中西隆三 | 野村孝 |
10月11日 | 2 | くたばれ名門校 | 高山由紀 中西隆三 | |
10月18日 | 3 | 俺を買う奴は誰だ | 中西隆三 横田与志 | |
10月25日 | 4 | 君のためなら死ねる | 中西隆三 安藤豊弘 | |
11月1日 | 5 | 否定・・・・しません | 中西隆三 雪室俊一 | |
11月8日 | 6 | 愛は戦いである | 中西隆三 | |
11月15日 | 7 | 血のラスト・ラウンド | 中西源四郎 | |
11月22日 | 8 | 最悪の日 | ||
11月29日 | 9 | 死を賭ける | ||
12月6日 | 10 | 退学志願 | ||
12月13日 | 11 | 無制限全員スパーリング | ||
12月20日 | 12 | 正義の大乱闘 | 野村孝 | |
12月27日 | 13 | 学園のジャンヌ・ダルク | ||
1975年 1月3日 |
14 | 悪の花園 | ||
1月10日 | 15 | ボディ・ガード教師 | ||
1月17日 | 16 | 影の大番長 | ||
1月24日 | 17 | 平手打ちへの報酬 | 後藤秀司 | |
1月31日 | 18 | 大番長の罠 | ||
2月7日 | 19 | 権現橋の決闘 | ||
2月14日 | 20 | ゴリラの影 | ||
2月21日 | 21 | スケバン反乱軍 | ||
2月28日 | 22 | スペシャル・リンチ | 根本順善 | |
3月7日 | 23 | 大番長の行方 | ||
3月14日 | 24 | 南国への追跡 | 野村孝 | |
3月21日 | 25 | 愛と死のさすらい | ||
3月28日 | 26 | 波濤に消えて | ||
この節の加筆が望まれています。 |
東京12チャンネル 金曜19時台前半 | ||
---|---|---|
前番組 | 番組名 | 次番組 |
純愛山河 愛と誠
|
太賀誠、早乙女愛、岩清水弘には声優が起用されているが、担当声優はいずれも発表されていない。
この節の加筆が望まれています。 |
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