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九州王朝説(きゅうしゅうおうちょうせつ)は、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府(だざいふ)がその首都であったとする説である。
邪馬台国から5世紀の「倭の五王」までを九州に比定する論者は、古くは鶴峰戊申から太平洋戦争後では長沼賢海らがいる。古田武彦も九州の邪馬壹國(邪馬臺國)が倭国の前身であるとし、その後、九州に倭国が成立したが、天智天皇2年(663年)「白村江の戦い」の敗北により滅亡に向かったとしている。
ただ2021年(令和3年)現在、井上光貞、榎一雄、山尾幸久など複数の東洋史・日本史学者等は古田説を批判しており、主要な百科事典や邪馬台国論争の研究書には記載されていない[注 1] [注 2]。
注:本記事は、古田史学会で発表された論文や九州王朝説支持者の著作の内容などを含むため、古田説とは異なる。また互いに矛盾する箇所もある[注 3]。
古事記や日本書紀(8世紀成立)には、邪馬台国(邪馬壱国)や倭の五王の記述がないが、古い中国の史書とは時期も異なる。例えば、中国の魏志倭人伝(3世紀成立)では、魏(帯方郡)への朝貢は卑弥呼・壱与という二人の女王の業績とされているが、日本書紀では魏に朝貢した倭王は神功皇后一人であるとされている。
こうした矛盾は江戸時代から議論の対象となっていた。松下見林は異称日本伝において中国史書の内容は信用できないとして日本書紀を基準に解釈すべきことを主張し、邪馬台国も倭の五王もすべて日本書紀の記述に合致するように解釈し直したが、その内容は倭王武を雄略天皇と清寧天皇の二人に比定するなど現代の文献史学の水準からは稚拙な面も存在し、松下の邪馬台国畿内説や倭の五王近畿天皇家説は現在のように広く受け入れられていたわけではなかった。
多くの国学者に影響を与えた本居宣長は馭戒慨言において邪馬臺国や倭の五王は本来の倭王である近畿天皇家ではなく、熊襲や任那日本府が倭王を僭称したとする熊襲偽僭説を主張した。この熊襲偽僭説を完成させたのが鶴峯戊申であり、彼は中近世文書に頻出する大宝以前の古代逸年号についても古代の九州年号である、と主張するなど現在の九州王朝説に近い主張となっていた。明治維新以降も戦前・戦後を問わず神宮奉斎会会長の今泉定助、東京帝国大学教授の飯田武郷、九州帝国大学教授の長沼賢海、東北大学名誉教授の井上秀雄らが熊襲偽僭説や九州王朝説を主張していた。
こうした流れの中、在野の研究者であったものの親鸞研究等で学界からも一定の評価をされていた古田武彦の著書『失われた九州王朝』がベストセラーとなった。さらに彼の九州王朝説による論文「多元的古代の成立」は史学雑誌にも掲載されるなど、学界・アマチュアの双方で彼の説は一定の評価を受け、井上光貞や安本美典らとの間で論争となった。そして市民の古代研究会が結成されると古田の学説は「古田史学」と呼ばれ、主にアマチュアの研究者の間で一世を風靡することとなった。
一方、東日流外三郡誌を巡る論争での古田の学界での影響力の低下、市民の古代研究会の分裂、さらには学術論文の体裁を得ていないアマチュア論文の乱立もあり現時点では九州王朝説は一時期ほどには広まってはいない。しかしながら、古田の学説を継承する古田史学の会は新春講演会に定説派の学者も招聘し[1]、大阪府立大学の講師が幹部を務めるなど、いまなお活発な活動をしている。近年では2018年(平成30年)に所功が著書『元号 年号から読み解く日本史』で否定的に、小説家の百田尚樹が著書『日本国紀』で肯定的に、それぞれ扱うなど今でも歴史家や著名人の注目を集めている学説である。
上記概要と古田説の主な異なる部分について、掲載する。古田の論文は『史学雑誌』や『史林』に掲載されるなど、九州王朝説論者の中では数少ない学説の形に世に問うたものであった。
なお、この説の出典は特記のない限り古田の著書『失われた九州王朝』・『古代は輝いていた』・『古田武彦の古代史百問百答』による。
また、古田の説で特徴的なものとしては、次のような主張がある。
九州王朝説論者は古田が主唱者ではあるが、学術論文の形をとっていないアマチュアの研究発表を含めると数々の異説が存在する。その主な論点を記す。
592年に飛鳥京が設置されるよりも前に、九州(筑紫島)では筑紫国(大宰府)・豊国・日向国・肥国の4国がが日田街道(ほぼ今日の朝倉街道)・日向街道で繋がっており、その他に南部の熊曾国に隼人が住んでいた。
前者4国には国の制度として部民制(べみんせい)があり、部族の世襲的な職業を定めていた。肥国には日下部・壬生部・建部・久米部、筑紫国・豊国には物部や大神部(おおがべ)、神職である祝部(ほうりべ)、海事・漁業部であろう海部、などがあった(大分県の海部郡は、各地と異なり「あまべ」と読まれる)。当時の王朝は、諸地域の民や渡来人を組織して開墾を促し、屯倉(みやけ、開墾地)に田部・額田部なども作ったが、特に九州内の豊国には、20個あまりの屯倉があった。また527年の磐井の乱の後には、軍事的部民も強化された。
また、古墳時代の貨幣に鉄鋌があるが、これまで発見された1147枚のうち1057枚は畿内に集中しており、畿内では古墳時代には鉄器製造などができなかったことがうかがえる[6]。
701年の大宝律令のあとは、九州は9国(豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩)になり西海道とも呼ばれ、全体が大宰府の管轄となった。また「九州」という用語は本来古代では天子の直轄統治領域を意味するもので、中国では周代以前、全土を9つの州に分けて治める習慣があったことから、9つの国の意味ではなく、天下のことを表すこともある(参考:九州 (中国))。また新羅の九州の実例もある[7]。ただし、天子の直轄統治領域を九州と呼ぶのは古代中国での用法であり日本でも同じように用いられたという証拠はない。
博多湾の志賀島で発見された「漢委奴國王の金印」は、「漢」の「倭奴国」の「王」と読み、漢の家臣の倭国王(倭奴国王)の印綬であり、金印が発見された場所から遠くない場所に金印の所有者である「倭国王」の居城「倭奴国」があったという主張がある。
魏志倭人伝によれば邪馬台国は、木材のクスノキ(櫲樟、柟)や鉱物の丹(ニ)の産地であり帯方郡と貿易をしていたが、仏像や造船に使用されるクスノキは主に九州に分布し、また大分県の玖珠郡 (クスは久須、球珠とも表記する)の地名は、クスノキに由来すると思われる。
また丹は、仏像の鍍金や船底の防腐剤として使われた鉱物で水銀の材料であるが、豊日別・豊国跡の大分市には丹生神社があり丹の産地であったことがうかがえ、また港湾貿易の地として貴船神社も多い。
また、卑弥呼や天照大神と同一人物かは不明であるが、イザナギ・イザナミが生んだワダツミの娘で神武天皇の祖母であり、祖母山信仰の祭神でもある豊玉姫、またその妹とされる玉依姫の2名の国津神(くにつかみ)は、九州の日向国にいたとされており、双方が天津神(あまつかみ)と結婚している。さらに、のちの日本書紀の神武東征の逸話によれば、神武天皇は日向国から出立し、豊国の宇佐でウサツヒコ建立の一柱騰宮(あしひとつ あがりのみや)に滞在してから、近畿へ渡航して辰砂の鉱脈調査を行っている[10]。
また、記紀によればイザナギ・イザナミの最初の国産みが淡路島であるが、淡路島には日本で最古の鉄器製造所であるとされる五斗長垣内遺跡があり、関西の平野部から離れた島に作られていることを考えると、造営者は少なくとも、大阪平野部の部族ではなかったことが考えられる。
なお、鉄器以前の青銅器製造所は、弥生時代中期~後期に、九州北部または伊都国にあったことが判明している[11]。
また王朝の首都とされる大宰府には日田街道が通じており、この日田街道は、日田から久留米、中津、熊本、別府にそれぞれ街道が伸びており、さらに別府では筑紫国跡の福岡県東岸から日向国跡の宮崎県を繋ぐ日向街道に接続している。したがって、伊都国の一大率と同じく、為政者側は陸路でも相当広い範囲を移動することができた。
「倭の五王」は畿内ではなく九州の大王であったという主張がある。
漢代から代々に朝貢していたのは九州の大王であり、日本列島を代表して大陸と交流・交戦していたのも九州倭国だったという主張がある。
527年の磐井の乱は継体が武烈天皇を武力討伐して政権を奪った九州内の王朝交代の記事であるという主張がある。
九州王朝が実在したと仮定した上で磐井の乱は史実であるとする主張は以下のとおりである。
継体天皇は地方豪族に過ぎなかったという主張がある。
厩戸王子と「日出處天子」は別人であり、「日出處天子」は九州倭国の人物であったとする。[注 25] で、冠位十二階、遣隋使派遣、仏教に深く帰依した。厩戸王子は畿内日本の人物で、これといった実績はないと考えられる。
「評」を制定していたのはヤマト王権に先行した九州倭国であるという主張がある。九州年号では大化元年は695年であり、大化の改新の政変により九州倭国に代わり畿内日本が政権を握り「評」に代わり「郡」が使われるようになったと考えられることとする。
古田武彦を始めとする九州王朝説論者の主流派は次のように述べている。(古田史学の会の公式HP より)
大王神武は神話の中の日本(倭)の創始者ではありません。大王神武と久米集団は、弥生後期に倭国から銅鐸国家圏へ攻撃を行いました。尚倭国とは三種の神宝ー鏡・矛・勾玉が祭祀と権力の象徴とする国で、銅鐸国家圏は銅鐸が祭祀と権力の象徴とする国です。神武と同行したのは、海兵隊としての久米の集団のみです。
『古事記』によれば、日向(ひなた、糸島)から東に向かい、安芸(広島県)と吉備(岡山県)で植民し定住しようとしました。しかしそれは失敗し、その結果、銅鐸国家圏への侵略に切り換えました。
そして大阪湾の浪速(なにはや 大阪中之島)を通り、河内湖と呼ばれた湖の端である日下の楯津へ上陸しました。しかし日下での戦いに敗れ、彼らは(大阪市)南方の水路を通って、血沼(ちぬ)の海(大阪湾)へ出ました。そこから彼らは紀伊半島を周り、山を越えて熊野から大和に突入しました。
彼は東方侵略に賭け、大和侵入に成功した。大和では彼は倭国から神倭(かんやまと)伊波礼毘古命(いはれひこのみこと)と呼ばれた。それで彼は後世”大王”と呼ばれたり、神武天皇と呼ばれている。神武天皇とは漢風諡号(かんぷうしごう)といって、古事記・日本書紀編纂時の名前です。
大王神武は実在である。神武東征は弥生後期の大阪湾の地図が根拠を明示しています。
ただしどれもが根拠たり得ない稚拙なものである。
九州王朝説の古田武彦は欠史八代は神武天皇以来の近畿分王朝(九州王朝の分家)として実在した、と主張している。
九州から王権が移動しヤマト王権が確立したのは7世紀末であるという主張がある。
672年の壬申の乱の戦闘があった地域は、九州内であったという主張がある[14]。
以下のことから壬申の乱により、王朝交代(易姓革命)があったと考えられる[16]。
〈史書の国号改称記事〉
8世紀は異常に多くの反乱やクーデターが発生しており、ヤマト王権は政権が安定していない。
九州倭国の抵抗は723年頃まで続いていたと推測できることとする。
防人の配置は、九州倭国制圧のために東国の蝦夷を利用したヤマト王権による「夷を持って夷を制する」政策であったと考えられるということにする。
太宰府は、九州倭国の首都(倭京)であったと考えられることとする[注 37]。
7世紀末に突如として畿内地方に出現した官僚集団は、九州の太宰府(倭京)から連れて来られたものである。ヤマト王権は九州倭国の官僚機構を引き継ぐことにより、政権に必要な人材を確保することができたと考えられる。
次のことから、7世紀以前に無文銀銭や富本銭などの貨幣が発行されこれらの貨幣が流通していたのは九州であり、8世紀以後、ヤマト王権は九州の富本銭等を参考にして和開同珎(和同開珎)等の貨幣を発行したと考えられる。古田史学会報「二つの確証について」
『万葉集』に、九州・山陰山陽・四国の人の歌が無いのは、皇権簒奪の事実を隠すためであり、また解釈が皇国史観で歪曲されているからである[20]。代表的歌人でありながら正体不明な「柿本人麻呂」や「額田王」等は九州倭国縁の人物である。山上憶良等も元は九州倭国の役人であったものがヤマト王権に仕えたものである。
万葉集の古い歌の殆どは九州で詠まれたものである。
万葉集の吉野山は吉野ヶ里背面の山。
景行天皇の九州大遠征説話は「筑前」を拠点として「九州統一」を成し遂げた九州倭国の史書からの盗用である[24]。
神功皇后の筑後平定説話は九州倭国の史書からの盗用である。
奈良正倉院の宝物の殆どは天平10年(738年)に九州筑後の正倉院から献上されたものであり、元は九州倭国の宝物[要曖昧さ回避]である[27]。
2004年秋に中華人民共和国陝西省西安市の西北大学が西安市内から日本人遣唐使「井真成」の墓誌を発見した。以下のことから、この「井真成」は、九州倭国の皇族であると考えられる[31]。
古代日本では、駅路という全長6,300kmにも及ぶ幅6-30mの直線的道路が本州をほぼ縦断して全国に作られ、沿線には「駅家(うまや)」という休憩・宿泊施設も作られていた。これは2021年(令和3年)現在の日本の高速道路網にも匹敵するものであるが、これだけの道路の建設にもかかわらず、どれだけ費用がかかり、誰が負担したかと言う事がわかっていない。当時の人口は500万人程度と推測されており、建設には長い歳月と膨大な労力が必要だったと考えられる。これらも九州倭国が、半島での戦争を遂行するために兵員の移動・物資の補給用に建設したものであると考えられる[33]。
九州王朝説の提唱者である古田は親鸞研究での堅実な実績で知られ、当初は『史学雑誌』78-9や『史林』55-6、56-1など、権威あるとされる研究誌での公表を行い、一定の評価を得ていた。九州王朝説に関しても、一時期は高等学校日本史教科書の脚注で「邪馬台国(邪馬壱国とする説もある)」と言及されたこともある。しかしその後、勤務校の紀要を除けば、学術雑誌や学会発表などの手段によって自己の主張を公表する過程を踏むことが少なくなり、学界からの反応がなくなった。
歴史学、考古学等の研究者は、本説の内容に関して、考古学の資料解釈の成果とそぐわないこと等をもって、検証に耐えうる内容ではないとしており[注 44]、当初古田が権威あるとされる研究誌での公表を行っていた頃には評価とあわせ批判をしていたものの、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書においても記載されていない[注 1]。
その一方で、一般市民や在野の研究者の中には熱心な支持者が存在し、従来の古代日本史学をいまだ皇国史観の影響下にあるものと見て、本説はそれに代わる新しい史観であり、「日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明できる」と主張している。また本説からは多くの亜流が生まれている。
九州王朝説は根拠に示すとおり多くの証拠があるにも拘らず日本古代史学界からは黙殺されている。それは以下のような理由による。
飛鳥時代以前を記録した一次史料は金石文や発掘された木簡など僅かしか存在しない、従って説の論拠となる史料は、この僅かな一次資料と記紀や万葉集、漢-唐、朝鮮の歴史書等に散見される間接的な記事、九州年号や大宰府、那珂遺跡群、金印、神籠石などである。この資料の少なさが、九州倭国否定論の論拠の一つとなっており、また多くの亜流を生む原因ともなっている。通説側から九州倭国の存在を仮定しての日本書紀等の既存資料の解釈が恣意的であると問題視されているが、九州王朝説からすると「古代ヤマト王権の存在を裏付ける都城などの遺跡、官僚機構の存在を示す木簡などの一次資料は全く存在せず、通説は二次資料・三次資料である記紀を鵜呑みにしたヤマト王権一元論を前提にその他の資料を無視したり曲解しており、資料の扱いが恣意的である」となる。
『日本書紀』の神代巻に「筑紫」は14回出現するが「大和」は1回も出現しないことなどから、神代の舞台は九州であるとする意見は九州王朝説に限らず多いが、九州王朝説の一部の論者の中には上記のように「壬申の乱」の舞台までも九州であるとして、記紀の殆どは「九州倭国」の史書からの盗用であり、「古代ヤマト王権」の文献資料など存在しないとする見方もある。
九州王朝説は九州王朝一元論に陥り易いが、これは記紀の基になった九州王朝の史書が九州王朝一元論によって書かれていたためにそう観えるのであり、現実を正確に反映しているわけではない。古田武彦は自分の仮説は九州王朝と大和王朝の双方の存在をみとめる「多元王朝説」なのであって九州王朝一元説は支持しない[注 48]と明言している。
また、九州王朝説の支持研究者間でも、白村江の戦いまでを九州倭国の歴史と見る、壬申の乱までを九州倭国の歴史と見る、大化の改新まで九州倭国の歴史と見る[注 6]等考え方は様々であり定まっていない。かつて古田の弟子であり今は袂を分かった原田実のように、九州王朝は磐井の乱で大和朝廷に屈したと考える論者もいる。中小路駿逸(元追手門学院大学教授)は、雑誌「市民の古代」への投稿について「控え目に言って玉石混淆」と評しており、一部の支持者の主張が突拍子もないと言う類であることを認めている。
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