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日本の漫画家、イラストレーター (1958-) ウィキペディアから
みうら じゅん (本名:三浦 純[2]、1958年2月1日[1] - )は、日本の漫画家、イラストレーター。
血液型:AB型[1]、ニックネームはMJ、じゅんちゃん、みうらさん。
妻はシンガーソングライターのbird。
京都府京都市出身[1]。東山高等学校、武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科卒業。
職業については、エッセイスト、小説家、ミュージシャン、評論家、ラジオDJ、編集長、ライター、解説者など幅広い分野で活動しており、公表している職業は「イラストレーターなど」。
亡き祖父は『拓本による京の句碑』を出版した饗庭蘆穂(あいば あしほ) [3]。
小学生時代から仏像と怪獣が好きな少年で、京都や奈良の仏像をめぐる。仏像が好きすぎて仏教系の学校に入学したが、途中でエロに興味が出て仏像に飽きる。仏像が好きな理由は、怪獣のように見上げる迫力があったからだという。
高校一年生でカセットデビューしてオリジナルソングは全16巻450曲に及ぶ[4]。
高校時代から絵描きを目指し、2浪後に武蔵野美術大学に入学する。在学中から、友人が糸井重里の事務所に勤めていたため、特に何をするでもなく入り浸り、糸井が「タダでイラストを仕上げる奴がいる」と紹介し、カットの仕事をもらっていた。
1980年に『ガロ』誌上でデビュー[2]。『ガロ』に持込をしたのは、他に掲載させてくれる雑誌はないと周囲に言われ判断したためだが、それでも当時編集長の渡辺和博の判断で何度もボツになった。デビュー作の「うしの日」も、一旦はボツになったが、その後、渡辺と親交の深かった糸井の「載せてあげれば?」の一言で掲載された[5]。初期の頃の画風は現在とは全く違い、デビュー前は和田誠を真似た絵だったので、ガロに持ち込みに行った時には渡辺和博に「和田誠って名前変えれば?」と言われた。それからひさうちみちおの絵を真似たり試行錯誤したことから、デビュー時は「ヘタクソなひさうちみちお」のような絵であった[6]。
みうらとガロとの出会いは、小学生の頃に熱を出して学校を休んだ際、父親が貸本屋から希望してた『COM』と間違えて『ガロ』を借りてきてしまい、つげ義春の『ゲンセンカン主人』の温泉シーンで始まった(抜いた)と後年語っている[7]。
1982年には講談社の発行する『週刊ヤングマガジン』のちばてつや賞で佳作を受賞する[2]。以後、『ビックリハウス』や『宝島』などの各雑誌で、関西ネタや怪獣ネタのエッセイやイラストを執筆する。1986年に刊行された、糸井重里を「相談」役にすえた漫画集『見ぐるしいほど愛されたい』で、キャンプなものを題材とする現在のスタイルを確立した[要出典]。本人曰く、漫画を描くのは大嫌いであるが、完成原稿を並べて俯瞰で見ることだけが楽しみで描いているという。一般的にゆるい絵柄で知られているが、それはカエルの絵などに限り、人物や仏像などは時間をかけて描くことが多い。[要出典]
1980年代後半からテレビ・ラジオでの出演も増え、多彩な活動を見せ始め、1989年には『いかすバンド天国』に喜国雅彦(漫画家)、滝本淳助(写真家)らと「大島渚」[注釈 1]という名のバンドを結成して出演し、『カリフォルニアの青いバカ』というオリジナル楽曲を披露した。
1991年ごろには女装に凝り、いとうせいこう、安斎肇と「バギナーズ」という「女装バンド」を結成した。「ナオミ」の名でボーカルとギターを担当(安斎は「キャンディ・O」、いとうは「マリエ」)。バギナーズは外タレという設定で「遂に来日」「日本上陸」等と謳っていた[8]。
1994年にはハリウッド俳優のチャールズ・ブロンソンの男気に憧れるあまり、映画俳優の田口トモロヲとユニット「ブロンソンズ」を結成。1996年にはいとうせいこうと「The Rock'n Roll Sliders」を結成し、みうらが撮影した写真にいとうが突っ込みを入れるという「ザ・スライドショー」が初めて開催され、以後何度も開催される人気公演となる。
1996年には青林堂からみうら漫画のベスト選集『はんすう』が刊行された。渡辺和博が解説を書いているが、「初めてみうら先生のオフィスに玉稿をいただきにいった時は、非常に緊張した。みうら先生からは、卓越した漫画にたいする意見をいただいた」という、現実にまったく反するイヤミな内容が書かれている。
1997年に自由国民社の『現代用語の基礎知識』による新語・流行語大賞のトップテンに「マイブーム」(後述)が選出され表彰される。
2003年には自伝的コミック『アイデン&ティティ』が、田口トモロヲの初監督作品として映画化され再び脚光を浴びる。『シベリア超特急』が縁で交流のある水野晴郎が世話人を務める日本映画批評家大賞では2004年度に功労賞を受賞。「勝手に観光協会」などのコラムの他、エッセイ、小説など文章の世界でも活躍中である。
歌手birdとの不倫(後にみうらの子を出産)が発覚し、前夫人と2007年春に離婚した。birdとは2006年末から「パートナー」という形で共同生活をしていたが、第2子の妊娠をきっかけに2009年に入籍をした[9]。
2008年には興福寺創建1300年記念『国宝 阿修羅展』(2009年に東京・福岡で開催)にともない発足する『阿修羅ファンクラブ』の会長となる。「阿修羅ファンクラブ」の公式ソング「愛の偶像(ラブ・アイドル)」(作曲:高見沢俊彦、作詞:みうらじゅん)は、高見沢のアルバム『Kaleidoscope』に収録。
テリー伊藤の司会を務めるNHKの視聴者参加番組『テレ遊びパフォー!』にて怪獣デザインマスターを名乗り、全国より怪獣デザインを公募、その中の一枚のデザインから『長髪大怪獣ゲハラ』のシナリオを執筆し、樋口真嗣制作総指揮の短編映画として完成するまでに携わった。
2018年10月4日 仏教伝道文化賞沼田奨励賞を受賞した。
2021年に、2015年に出版された『「ない仕事」の作り方』が本屋大賞発掘部門「超発掘本!」を受賞した。
マイブーム(my boom)はみうらによる造語である。「my」と「boom」を組み合わせた和製英語で「自分の中だけではやっている物や出来事」といった意味で使用される。みうらのマイブームのルーツは小学生時代にさかのぼる。小学校の社会科見学で奈良・京都の寺院を見学してから仏像に興味を持ちはじめ、寺院で配布されているパンフレットの仏像の写真を切り抜き仏像の感想を添えスクラップしていた。この仏像ブームがみうらの人生初のマイブームとなった。この言葉は「大ブーム」に語感が似ていることから思いついたという。
1994年に『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングに出演した際に発言したのを機に、その語感の良さもあって一般に広まっていった。そして1997年に新語・流行語大賞で表彰された。同賞を受賞した言葉は、一般的にマスコミが多用する例はあるもののマスコミ外で流行したとは言い難いものがほとんどであり、その年限りの一過性に終わり死語と化すことも多い。その中で、「マイブーム」はマスコミ外でも広く使われており、受賞後も廃れることなく使用され続け、遂には2008年1月に発売された『広辞苑第六版』にも掲載されている珍しい例といえる[注釈 3]。
みうら自身はマイブームを、「自分だけのブームだけで終わらせず他人に広めること」としており、彼が注目した事柄は自身が出演する番組や著作などのかたちで面白おかしく紹介している。またそれらを世間に広める際は、みうらが考案した造語を用いる。またまったく流行らず埋もれてしまった“ナイブーム”もあったとのことである[22]。後述される、カニパンブーム、地獄表ブーム、バックオブエイジーズブーム、シンスブーム、AMAブーム、しびんブーム、男キッスブーム、テープカッターブームはナイブームとしてタモリ倶楽部内で検証された。
「みうらじゅん大図鑑」(宣伝会議)より
「この人にはだれも賞を贈らないだろう」というみうらの独断で選定・贈呈される賞。雑誌『宝島』で1994年に開始され、1999年までの7年間連載されたのち、同誌のリニューアルによって掲載が終了した。5年間のブランクを経て、「リリー・フランキーが『自分もみうらじゅん賞が欲しい』と言ったため」という理由で2005年から復活した。
シリーズ化・文庫化されている作品はおもにシリーズ第1作・初出版時のものを挙げる。
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